キリスト教児童福祉会の歴史
1.日本福音ルーテル教会と社会福祉事業

 日本福音ルーテル教会が、日本において宣教を開始したのは、1893年(明治26年)佐賀においてである。アメリカ南部一致ルーテル教会外国修道局より派遣された二人の宣教師シエラー、ピーリー、ならびに一人の日本語教師兼伝導師山内量平氏夫妻によって最初の礼拝が守られたことをもって始まる。宣教25年の後、日本福音ルーテル教会に社会事業への取り組みが「慈善事業経営奨励の件」として明らかにされたのは1918年(大正7年)、くしくも同じ佐賀教会において開催された年会においてである。当時、佐賀教会宣教師婦人アンナ・ネルセンは門司市滞在中に救った乳児を含む三人の子どもを宣教師宅に保護していた。翌1919年(大正8年)の福岡で開かれた宣教師年会では、このネルソン婦人の提案により「孤児、賎業婦の救済と養老事業を開始するの件」(「コロニー・オブ・メルシー」社会事業施設を建設すること」)を決議し、この事業にあたる委員を選び、設立委員長にネルセン婦人を選出した。他の委員は、管財委員長としてミラー宣教師、後日この事業の責任者となる新任の宣教師モード・パウラス女史が選ばれた。

 さっそく、委員会は熊本市新屋敷町の宣教師館を借用し、野中みさ婦人が主任となり、佐賀で保護していた子どもたちを移し、孤児救済事業に着手した。こうして、日本福音ルーテル教会における初めての組織的社会事業は開始された。1920年(大正9年)、熊本教会での年会においては、「社会慈善事業創始の件」が決議されたこの事業開始は特別会計とし、一般伝導上差しつかえない範囲で経営することとし、設立委員会の希望が反映され、熊本市近郊に適当な土地を購入し、事業の本部をそこに置くことを確認した。こうして社会事業施設の建設が決まり、ネルセン婦人に代って、モード・パウラス女史が設立委員長となった。

2.創立者モード・パウラス女史

 日本福音ルーテル教会において、初めて組織的な社会事業を開始し、慈愛園を設立した。1889年(明治22年)、アメリカ合衆国ノースカロライナ州バーバで生まれ、小学生の時、既に日本の伝導師となる決心をしている。レイノア・ライン大学を卒業してハイスクールの教師となり、宣教師となるためニューヨーク聖書神学校、コーネル大学伝導学校で学び、1918年(大正7年)、ノースカロライナ州サウスベリの聖ヨハネ教会で外国伝導局宣教師の任命を受ける.同年9月来日、パウラス女史29歳の時である。

3.コロニー・オブ・メルシー(慈愛園の創立)

 熊本市新屋敷町で開催された孤児救済事業で、最初に保護された子どもはネルセン夫人が、大正7年に門司市のバック宣教師宅滞在中に救った子どもたちであり、久留米、佐賀とネルセン夫人・パウラス女史に護られて熊本に来たものある。したがって、日本福音ルーテル教会の社会福祉事業は、この門司での子ども救済から始まるといわれる。

 熊本での事業が開始されてから、設立委員会は恒久的な施設を建てる土地をさがし始める。関係宣教師には、教会の社会福祉事業は伝導地のすべての仕事である。という一致した意識が最初から有り宣教師達は、アメリカのそれぞれの母教会で土地を買うための寄付募集を開始した。サウスカロライナ、バージニアなどの教会からの献金が200ドルになり、1921年(大正10年)、飽託郡健軍村神水(現在の熊本市神水)に2万3千平方メートル(約6千坪)の土地を購入した。1922年(大正11年)、5千ドルの献金によって、幼児部・婦人部・老人部の施設が建てられた。1923年(大正12年)4月7日、慈愛園献堂式が挙行され、今の慈愛園子供ホーム・慈愛園老人ホームが発足、モード・パウラス女史が初代園長となった。コロニー・オブ・メルシーを「慈愛園」と命名したのはJ第五高等学校英語科主任教授から初代九州学院長となった遠山参良氏であった。これ以後、慈愛園は第二次世界大戦まで、パウラス女史を中心に日本の古い因習と社会事業に対する無理解の中にあって、キリストの愛の応答と実践をとおして日本の社会福祉事業の先駆的、啓蒙的役割を果たしていく。戦後は、パウラス女史の帰任と共に社会福祉事業総合施設として発展を遂げていく。

4.基督教児童福祉会(CCF)

 CCFは、「中華児童福利会」(China Childrens Fund頭文字をとってCCFと称する。)として、1938年発足した。その主たる目的は、日中戦争の犠牲者である中国の子どもたちを救済することであった。牧師であり、長年、難民救済事業、募金活動に携わってきたカルビット・クラーク博士、ヘレニ・クラーク婦人が発起人として、アメリカ・バージニア州リッチモンドにおいて献身的に募金活動を展開する。その規模は、11年後の1949年には、北京、天津、上海、広州その他の都市に45の孤児院を経営し、5113人の子どもの生活が、それを同数ないしそれ以上の数のアメリカ人スポンサー会員献金によって支えられるようになっていた。

 1948年(昭和23年)、CCFは、中国大陸における国民党より共産党への政権の交替に伴い、中国本土各地におけるCCF事業をすべて放棄する旨決定し、上海のCCF海外事業部本部事務所を香港に多した。1951年(昭和26年)、CCF理事会は、アメリカ国民の善意を全世界の子どもたちに拡げていくことを確認し、国際的児童福祉援助団体として、名称を「基督教児童福祉会」(Cristian Childrens Fund)と改称した。1966年(昭和41年)末の資料によると、援助数は、施設援助児童数2500名、加盟施設児童援助数3900名、居宅援助児童数27520名、保育所援助児童数970名、総計70020名を援助するに至っている。

5.CCFと日本のキリスト教養護施設

 日本におけるCCFの援助対象施設は、当初、キリスト教養護施設に限定されていて、終戦直後から連絡がとられつつあった。まず、慈愛園創立者モード・パウラス女史は、1947年(昭和22年)、クラーク博士と資金援助の折衝に入っており(広安愛児園設立の発端で後述)、東京育成園とは、GHQ東京軍政府福祉課を通して連格をとり、愛隣団養護部(後のバット博士記念ホーム)とは、ララ救援物資中央委員会の中心人物G・E・バット博士などの手を通して連絡をとりつつ、昭和23年ころから援助を始めている。(注・ララLARA・アジア救済連盟の略称。Lisensed Agency for Relief of Asia.1946年、アジアの生活困窮者援助救済の目的で結成されたアメリカの民間奉仕団体の連合組織である。)

 この様な間接的な接触を通してCCF本部は、当時、香港にあって海外総主事をしていたカナダ人宣教師ミルス博士を日本に派遣した。ミルス博士は、バット博士の協力で日本でのキリスト教関係養護施設の計画的援助事業のための組織準備委員会、1952年(昭和27年)CCF東京事務所開設10月日本における基督教児童福祉会の法人が認可され、CCFの援助活動は、人的、組織的にも充実し発展していく。

 CCFの具体的な援助の仕組みは、キリストの愛にもとづいたアメリカ及びカナダの支援者(スポンサー)が月々定まった金額を送って、CCFの組織(事務所)を通して外国の施設児童の養育を援助することである。そのため、一人の施設児童に対して必ず一人の支援者が割り当てられ、この様な組織によって支援者と施設児童、さらには、子どもの所属する施設との間に温かい血の通いあう関係ができる。スポンサーと子どもは、愛による手紙の交換をおこなうことにより、経済的援助にとどまらず、精神的里親の役目を果たすという独特な援助活動である。

 1951年(昭和26年)、援助施設19、施設児童数1332名、援助金総額6,740,917円、援助ピーク時の1970年(昭和45年)には、援助施設93、援助児童数5600名、援助総額は214,017,137円に達している。

 しかし、1970年・(昭和45年)、CCFアメリカ本部理事会は、戦後の復興なったヨーロッパ諸国及びアジアにおける日本への援助プランを計画的に終結し、より一層援助を必要としている地域・諸国にその援助の矛先を向けていくという方策を決定する。その計画により、日本の東京地域事務所は、1974年(昭和49年)をもって、戦後昭和23年以降、あしかけ20年続いた日本へのCCF援助の窓口機能を終了した。同時に、日本のCCFは援助を受ける立場から、援助を手伝う側に脱皮をはかることとなった。アメリカのCCF発足のきっかけが、日本と中国の戦争儀牲者である中国の戦争の傷を受けた子どもたちの救済のためであったことを、わたし達は戦争当事国の国民として、記憶に留めておくべきであろう。

 CCFは、日本における子どもたちやキリスト教児童福祉関係者に、「国境を越えた愛の実践」の種を蒔いてくれた。その人間愛の実践を身をもって体験した日本のCCFは、新しく出発することとなった。援助を受ける立場から、援助を手伝う立場へ、日本のキリスト教会の愛は国境を越えてフィリピンの子どもたちへと注がれることとなる。この様にして1975年(昭和50年)、日本のCCF、基督教児童福祉会は精神里親部を創設した。

 参考までに、現在のCCF社会福祉法人基督教児童福祉会は、二つの事業体からなっている。一つは国際精神里親部(Christian Child Welfare Association 頭文字をとってCCWA)であり、他の一つは児童養護部でバット博士記念ホームの経営である。バット博士記念ホームの前身は、カナダ合同教会のセツルメント、愛隣団の育児部である。愛隣団は、元来セツルメントであったが、戦後の引揚げ孤児増大という社会情勢にかんがみ、育児部・養護施設を新設したものである。この愛隣団育児部とCCFを結び付けた人物が、G・E・バット博士である。愛隣団では、セツルメントの保育事業・クラブ事業の関係で、育児部の子どもたちは2階と3楷の生活であった。博士は、CCFのミルス氏とともに育児部の子供たちに土地を与えたいと願い、新しいホームの建設を約束していたという。しかしその博士は、1952年(昭和27年)、突如逝去される。バット博士は、ララ救援物資の仕事のために、その生命を縮めたといわれる。CCFでは、バット博士との関係から、同育児部の子どもを全面的に受け入れることになる。1957年(昭和32年)愛隣団育児部は廃止され、バット博士記念ホームはCCFの直営となる。

正式法人名 基督教児童福祉会      施設名 バット博士記念ホーム

 ちなみに、同じくCCFの直営であった沖縄の愛隣園と広安愛児園の法人名・施設名は次ぎのとおりである。

 法人名 基督教児童福祉会愛隣園    施設名 愛隣園

 法人名 キリスト教児童福祉会  施設名 広安愛児園
児童養護施設とは、

 児童養護施設で生活する子どもは、乳児(おおむね2歳)から18歳の高校卒業までが一般的です。何らかの事情で親と一緒に暮らすことのできなくなった子どもたち、環境上適切な養護を必要とする子どもたちを預かり毎日の生活を家庭にかわり送るところです。
子どもたちが児童養護施設に入所する背景には、親の離婚、長期入院、行方不明といった家庭の問題があります。児童養護施設の生活は、最終的には、社会生活における自立を目指しており、子ども一人ひとりが心情豊かな、たくましい子どもに育つよう生活をすすめています。
 広安愛児園の生活モットーは、「共に生きる」「役に立つ心豊かな人」を揚げています。

   

児童養護施設広安愛児

   森の都熊本市の東部に益城台地があります。当園は、その頂にあり、海抜60m、熊本城の天守閣の高さとほぼ同じだと言われています。18000坪の敷地に広がる緑の芝生や樹齢を重ねた大樹、豊かな土と緑の匂い、風と光に囲まれた、赤い屋根の子どもたちの家は、北欧の村を思い起こさせます。ここで、2歳から18歳までの子どもたちと職員が起居を共にし生活しています。
 「共に生きる」「役に立つ心豊かな人」を生活の目標にし、参加・創造・喜び・奉仕を養護理念として揚げています。
 又、地域の人々と交流する開かれた施設であることによって、子どもたちの社会的な生活体験が豊かになるように、運動場、設備、体育館(サッカー・新体操・バウンドテニス・ビーチバレー・ミニバレー・バトミントン・空手・小学校幼稚園の遠足等)、茶室(初釜・月見の茶会)、給食棟(料理教室・母親学級)、芋畑(芋掘り遠足)を解放し、延利用人数は、年間20,000人を超えます。地域の事業団体、学校、ご婦人方のサークル等の利用が活発です。
 社会に自立していく子どもたちは、地域社会の共同的な交わりの中で積極的に養護され多くの人々の支援が必要であります。この交わりの場が生かされ、この園と人の出会いの輪が一層大きく社会の中に広げられることを確信しています。
   

キリスト教児童福祉会の目的

   この社会福祉法人は、福祉サービスを必要とする者が、心身ともに健やかに育成され、又は社会、経済、文化その他あらゆる文化の活動に参加する機会を与えられるとともに、その環境、年齢及び心身の状況に応じ、地域において必要な福祉サービスを総合的に提供されるように援助することを目的として、第一種社会福祉事業、児童養護施設広安愛児園と児童心理療育施設こどもL.E.C.センターの設置経営を行う。
 
 
 
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