【そもそも人間学とは何か】
深みや厚みのある人間とは



知古嶋芳琉です。

 いただいたままで、ご紹介が遅れてしまったメールがあります。送り主は野口

嘉則さんです。彼の著書、『鏡の法則』がベストセラーになり、「幸せ成功コーチ」

として有名になりました。彼が私と似ているところは、ここでご紹介するメールの

中に書いてあるとおり、時間とお金をかけて、自分に投資してきたことです。

 ほかには、古典に学ぶのも同じなら王陽明の「陽明学」にお話しが及ぶとか、

歴史に学ぶところも同じです。ただ、私が彼に及ばないのは言語化です。

こればかりは私が若い頃から最も苦手なことで、それを補うために、ちゃっかり、

他人の文章を引用してお茶を濁しているのが現実です。「自分の弱点は、他人

の力を借りて補う」というのも成功法則の一つです。今ではインターネットがある

お陰で、コピー&ペーストで簡単に文字が取り込めるので、私にとっては実に

有難い環境が整って参りました。

 私は学生時代から真剣に学問の研究をして参りましたが、学者が書いた本と

か、論文というものは「引用」だらけでした。そこで、引用された文章とか論文を

調べようとすると、その引用した本の名前を挙げるだけとか、巻末に参考文献

として一挙に並べてあるだけなので、引用された文章がどこに書いてある文章

なのか、よく分からない論文ばかりで、困り果てたものでした。

 なぜならば、自分が論文を書く場合や、部活で学生経営学会に出て行くために

書く論文を検討する場合、参考文献を精密に調べるわけですが、その本で引用

されている文献の、どこを探したり調べたりすればいいのか、分からないことが

実に多かったからです。

 私は他人の文章を引用する場合は、数年前までは小刻みに引用していました

が、それも面倒になって、メールであればほぼ全文を引用してご紹介することが

多くなりました。怠け者とはそういうもので、歳をとってくるとなお一層、面倒に

なってしまいました。前置きが長くなりました。


−−−ここからは野口さんのメールの引用です−−−


こんにちは、野口嘉則です。さて・・・ 僕は常々、深みや厚みのある人間になり

たいなあと思っているのですが(^^ 今日は、深みと厚みのある人間になるため

のお話しをします。まず、未来を予見するという切り口から話を始めますね。

田坂広志さんはシンクタンクの代表をされていますが、次のようなことをおっし

ゃっています。「シンクタンクの重要な仕事は未来予測です。しかし、複雑系的

傾向が強まっている現代においては、未来を予測するのがとても難しくなって

きています。つまり具体的な変化は予測できないのです。では、未来がまったく

わからないかというとそうではない。大局的な変化を“予見”することはできるの

です」そして、その大局的な変化を“予見”するときに必要なのが、“ヘーゲルの

弁証法”だとおっしゃっているのですが、このヘーゲルの弁証法には、「事物の

螺旋的発展の法則」というのがあります。すなわち「古く懐かしいものが新たな

価値を伴って復活してくる」という法則です。詳しくは、『未来を予見する5つの

法則』(田坂広志 著)という本に書いてありますが、田坂さんは、「これから、

東洋的な思想や智恵が復活してくる。それも、西洋の科学と融合した形で」と

おっしゃっています。たとえば、ラブロック博士の提唱する「ガイアの思想」(=地

球は生命体であるという思想)は、古くからある東洋的なアニミズム思想(=岩

も山も大地も星も森羅万象も生きているという思想)が、科学と融合した形で

復活してきた。 と考えることができます。また、今、世界で、禅やタオイズムや

ヨーガなど、東洋的なものが大きな関心を集めていますが、これら東洋の智恵

は、量子物理学や複雑系科学やユングの深層心理学などの西洋科学によって

裏付けを得て、大きな説得力をもって受け入れられつつあります。まさに、東洋

の思想や智恵が、西洋の科学を融合しながら復活してきつつあるんですね。

これからの時代、東洋思想がますます必要とされ、ますます注目されていくこと

は間違いないでしょうが、それらを学ぶだけでなく、西洋科学も同時に学んで、

その両者を融合していこうとする姿勢こそ、最も時代に求められていることでは

ないかと思います。そういえば、年々、古典を読む人が増えているそうですが、

近い将来、古典の智恵を現代科学の視点から解説するような本がたくさん出て

きて、多くの人に読まれるようになるのではないでしょうか。

さて、僕の場合、「縁あって日本に生まれたことには意味がある。このことは

自分の使命や天職と関係があるのだろう」と感じていますので、日本の文化も

深く学んでいきたいと思っています。日本の精神文化の中にDNAとして受け継

がれている「良きもの」を、僕も受け継いでいきたいと思うのです。

ところが現代の日本は、奥深い精神文化のDNAを失ってしまったかのような

様相を呈していますね(^^; 五木寛之さんは、今の日本の社会を“乾式社会”と

呼んでおられます。鈴木博之という建築学者によると、日本の建築方式は、ここ

数十年で、「湿式工法」から「乾式工法」へと大転換したそうです。僕も見覚えが

ありますが・・・ かつては、家を建てるときは、鉄板の上にセメントの粉をあけ

て、バケツで水をやってこねまわしていました。漆喰を作るときも、壁土を練ると

きも、水を大量に使って一軒の家を建てていたわけです。これが「湿式工法」で

す。しかし今は、コンクリートは工場で作るようになり、壁土を使わないでベニヤ

板にビニールの壁紙を張るようになり、軽金属やプラスチックを使ったアルミサッ

シなどを使うようになって、一滴の水も使わずに家を建てるようになりました。こ

れが「乾式工法」です。そして、五木寛之さんがおっしゃるには、「建築様式だけ

でなく、日本の社会全体が、乾式社会になってしまった」(『何のために生きるの

か』 五木寛之&稲森和夫著より)水分を含んでいるものは重いですが、乾いた

ものは軽いですよね。つまり、“乾式社会”は軽い社会なんです。“重みや深み

や厚みのない社会”、“軽くて浅くてうすっぺらい価値観で成り立つ社会”とも

言えますね。僕は、本を書く人間として、「どんな本がベストセラーになりやすい

か」ということを観察していますが、内容に深みや厚みのある本は、あまり売れ

ない傾向にあり、絶版になっているものも少なくありません。やはり現代は、イン

スタント志向や効率主義志向の風潮がまだまだ強いと思います。「迷った時は、

○○な方を選べばいい」「□□□を基準にすれば、すべてうまくいく」などのよう

な“万能の基準”を安易に求める人が多く、そのような“答え”や“基準”をズバリ

と提供する本がベストセラーになりやすいようです。読者は、そのような本から

安直な“答え”や“基準”を得ることで思考停止状態になり、矛盾や葛藤から解

放されるわけです(^^; (この矛盾や葛藤こそ、人が成長・成熟していく上で

とても大切なものなんですが) 「知性とは、正解のない問いを一生かけて問い

続けていく力だ」と田坂さんがおっしゃっていますが、乾式社会に生きる現代人

は、「問い続けていく覚悟」「葛藤する覚悟」に欠けているようです。ただ一方、

こういった現代的風潮への反動として、古典を読む人が年々増えていっていま

す。また昨年は、マイケル・サンデル教授の哲学の講義がNHKで放送されて話

題になり、彼の著書もベストセラーになりました。このような、おもしろい現象も

起きているんですね(^^

さて・・・ 深みや厚みのある人間になるためにも、先人の叡智の結晶ともいえる

古典に学び、同時に、現代科学の成果にも興味を持ち、それらを融合する過程

で、自らの頭で考え悩み、そして自ら葛藤しながら、統合していきたいものです。

また僕たちは、歴史からも叡智を学ぶことができます。プロイセンのビスマルク

が言った言葉に、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というものがありま

すね。歴史というのは、“他人の経験”の宝庫です。つまり歴史というものは、

「一人の人間がどのように生き、どうなったか」というエピソードの宝庫であり、

さらに、

・人間はどんな傾向を持った生き物か?

・人間が集まると何が起きるか?

・社会はどのように動いていくのか?

・人間の人生を貫く法則は何か?

・人間社会を貫く法則は何か?

などを学ぶための事例の宝庫なのです。歴史作家の井沢元彦さんも、ご著書の

中で、次のように書いておられます。「歴史は、われわれ人類の、先祖や先輩た

ちの貴重な成功と失敗の経験集であり、まさに人生を生きていくための貴重な

データベースと言える」ところが実際は、「歴史を学ぶことが人生の役に立つ」と

言われてもピンと来ない。という方が、現代社会には多いはずです。なぜなら、

僕たちが「歴史」と聞いて連想するのは学校で習った「歴史」だからです。たと

えば、「鎌倉時代の三大機構は何か?」なんて問われてもワクワクしませんね

(笑) 正解は 「侍所(さむらいどころ)、政所(まんどころ)、問注所(もんちゅう

じょ)」なんだそうですが、そんなことをいくら正確に暗記しても、それは僕たちの

人生観に何の影響も与えないし、僕たちの人生の役に立つとも思えないわけ

です(^^;

そして何より、こんな勉強は面白くないですね。では、どのようにすれば、面白く

歴史を学びながら、そこから人生のヒントを得ていけるのでしょうか?

まずは、「歴史から何を学びたいのか」、つまり、自分が興味を感じるテーマを

明確にすることだと思うんです。さて、あなたは歴史から何を学びたいですか?

よかったら考えてみて下さい。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


−−−野口さんのメールの引用はここまでです−−−


ここからは知古嶋芳琉が書いています。

野口さんが、「深みや厚みのある人間になるためにも、先人の叡智の結晶とも

いえる古典に学び、同時に、現代科学の成果にも興味を持ち、それらを融合す

る過程で、自らの頭で考え悩み、そして自ら葛藤しながら、統合していきたい」と

書いているように、それは「先人の叡智の結晶ともいえる古典に学び、同時に、

現代科学の成果にも興味を持ち、それらを融合する過程で、自らの頭で考え

悩み、そして自ら葛藤しながら、統合すること」で可能になるのです。

 その代わり、私のように、普通の人から恐れられたり敬遠されて、

誰も近づいてこなくなり、「つかみ所のない奴だ」と言われるようになります。

もっと言えば、怪しまれるようになるのです。そして、人によっては、私を

「教祖だ」と言うし、「普通じゃない」と思われるようになるのです。

なぜならば、普通の人が、どこをつかもうとしても、つかみきれなくて、まるで得

体の知れない怪物になって、いくら理解しようとして質問をしたとしても、ああも

言えば、こうも言うという具合で、なかなかはっきりした答えが簡単に出て来ない

からです。そして、単純で薄っぺらな思考回路しか持たない頭では、とても複雑

に見えて、まさに底知れない深みとか厚みを感じるばかりで、決して理解されな

くなるのです。従って、必然的に、誤解されたり曲解されてしまうのです。

そして、お話しが弾むのは、超一流の賢者だけに限られるようになります。そし

てさらに、これも何度も言いますが、普通の人は近づいてこなくなります。そうす

ると、必然的に孤立するというか、孤高を保つ存在になります。私の場合、小学

生のときからそうでした。ですから、私はまだ小学生でも低学年のうちから、先

生たちの目から見ても、特別に目立つ子供だったようです。私は、そんなこと

とはつゆ知らず、自分にとってはそれが当たり前で、ごく自然なことで、何の違

和感も感じない子供でした。この感覚は今でも変わることはございません。

 古典の中には、「独楽」の世界を描いた良書も沢山ありますが、私が師事した

安岡正篤師も、そのご著書『人間としての生き方(現代語訳:東洋倫理概論を読

む)』の中では、中年の倫理として、「独の生活」を、一つの独立した章として取り

上げて詳しく語っておられます。ここでは、その、ほんのさわりの部分になります

が、引用してご紹介してみましょう。

−−−引用はここからです−−−

第二編 敬義 中年の倫理

第三章 独の生活

 第一項 自然との深い契

 ○ 行路難


 しかしながら、「人生を生き抜く道の困難は、山でもなく、河でもなく、ただ人情

(日常生活や感情のやり取り)の繰り返しの間にあるのだ」と白楽天(はくらくて

ん:8〜9世紀の唐の詩人)も詩に詠んでいるように、人生の行路は決して容易

ではない。 家庭生活すら実際は早年の頃夢見たような甘美なものではなくて、

なかなか苦しいものである。まして社会生活となれば、思いのままにこれと和し

て(調和して)これを動かしてゆくには一個人の道徳才能は余りに貧弱であり、

そこから生ずる苦悶に堪えてゆくのも少小な器量(歳若く小さい人の才器や度

量)ではできないことである。我々がひとたび家庭的にも社会的にも恵まれない

とき、我々はいかにして良くこの受難に耐え、生活の光りと力とを保ってゆくこと

ができるであろうか。このようなとき、我々のこの上なく奥深い、人に知られない

心の中(至深の胸奥)から響く厳粛な声は我々に「独の生活(独り、その人だけ

の生活)」ということを教える。 ああ、独の生活! 独歩(どっぽ:ただ独りで進

む)、独往(どくおう:ただ独りで行く)、独行(どくこう:独力で行なう)こそ、まこと

にすでに古人が我々の先達となって、お前はこの道を歩めと崇高幽寂(すうこう

ゆうじゃく:気高く尊い、奥深くて静か)な境地に我々を誘っている。それは家庭

生活や社会生活から離れたものではないが、しかももはや家庭生活や社会生

活とは別個の天地である。

○ 壺中の天

 昔、汝南(じょなん)の市場の役人に費長房(ひちょうぼう)という者があった。

その市に一人の老人が薬を売っていたが、いつでも店頭に一つの壺を懸けて置

いて、商売が済むとポンとその中に跳びこんで見えなくなるのであった。しかし、

市の人々は誰もそれに気づかない。ただ長房だけはあるとき高い楼上からそれ

を発見して、不思議に思うままに、またの日出かけて恭(うやうや)しく教えを求

めた。そうして老人に連れられてその壺に入ることができた。ところがその中は

立派な玉堂(立派な家屋敷、神仙(不老不死で、神通力をもつ人)のいるところ)

で、美酒佳肴(かこう:うまい酒のさかな。おいしい料理)に満ちており、彼は老

人と共に愉快に酒宴をして帰った(『後漢書』、方術伝)という話があるが、独の

生活こそ、その「壺中の天」である。

 店をしまった我々がその壺中に跳んで入って、そこに見る玉堂は何であるか。

これすなわち自然である。玉堂の中の酒宴は読書尚友(《「孟子」万章下から》

書を読み、昔の賢人を友とすること)である。 市場の役人の生活に疲れた費長

房は、ふと楼上から薬売りの老翁を発見して胸がときめいた。その翁(おきな)と

壺中の玉堂に美酒佳肴を並べて酒宴をした彼の歓喜はどのようであっただろう

か。それよりも、その老翁の生活こそ心憎いではないか。中年の生活において、

人は誰しもこの天地、すなわち自然との深い交わり、読書尚友を持って、さらに

完全な人となってゆくのである。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

 安岡先生の、『店をしまった我々がその壺中に跳んで入って、そこに見る玉堂

は何であるか。 これすなわち自然である。 玉堂の中の酒宴は

読書尚友(《「孟子」万章下から》書を読み、昔の賢人を友とすること)である。

市場の役人の生活に疲れた費長房は、ふと楼上から薬売りの老翁を発見して

胸がときめいた。その翁(おきな)と壺中の玉堂に美酒佳肴を並べて酒宴をした

彼の歓喜はどのようであっただろうか。それよりも、その老翁の生活こそ心憎い

ではないか。中年の生活において、人は誰しもこの天地、すなわち自然との深

い交わり、読書尚友を持って、さらに完全な人となってゆくのである。』と記され

ていることは、今の私にとっては、まさに毎日がそうなっているので、これ以上の

喜びはないのです。 しかも、ITの高度化の恩恵を受けて、一歩も外に出なくて

も、投資家の一人として、しこたまお金が儲けられる環境も整っているのですか

ら、クリス岡崎さんが定義する「何度でも億のお金を稼げる」億万長者に、何度

でもなれるのですから、もう、堪(こた)えられません。

 億のお金と聞けば、それを手にするためには宝くじを買うことくらいしか、思い

つかない凡人には、何百回生まれ変わったとしても理解できないでしょう。

 たとえ、知識として知ったところで、凡人とは妬んだり怨んだりするばかりで、

その一生を終わるのです。

 億万長者の世界に遊ぶことほど快感を味わえる世界はありません。

なぜならば、誰からも邪魔されずに、まさに「壺中天あり」の環境にこの身を

置いていられるからです。こればかりは、なってみないと分からないでしょう。

 ですから、一度でもこの億万長者になってみれば、何度失敗したとしても、

何度でも、以前とは桁違いの億万長者を目指すようになってしまうのです。

クリス岡崎さんが定義する億万長者の本当の意味がわかるのは、自分が

そんな億万長者になってみないと分からないことなのです。

 なぜならば、それはどんなに屁理屈をつけて考えても、どんなにイメージを

膨らませてみても、理解もできなければ、全身全霊をもって感じ取ろうと

しても、感じ取ることができない快感であるからなのです。そもそも、

感性そのものが研ぎ澄まされていないのですから、無理というものなのです。

 普通の人には、この理屈が分からないのです。

そもそも、人間というものは、分からないことには恐怖心を抱くものであり、

不安になり、懐疑的になり、決して近づこうとはしなくなるものです。しかも、

積極的には、攻撃して排除しようとさえするものなのです。

 それは、まるでSF小説やSF映画などに登場する、地球外生命体

(エイリアン)に対する考え方や行動と全く同じことなのです。

 これは太古の昔から人間に備わった防衛本能がそうさせることなのですが、

それは人間に限ったことではなくて、人間以前の動物にも等しく備わった本能

と言ってもいいでしょう。

 これは本能がそうさせるのですから、言ってみれば自然なことなのです。

しかし、いくら自然だからといっても、本能が命じるままに身を任せていては

人間に進歩とか進化はありません。むしろ本能のままに生きる野獣と少しも

変わらない生き物に成り下がり、もう人間とは言えなくなるのです。

古来、そうなった人のことを、「人でなし」と呼んで蔑んできました。

だからこそ、誰もがそう言われないように、自らを厳しく律してきたのです。

 ところが、世の中そのものの穢れから逃れられない、愚かな大衆というものが

おりまして、この数がいわゆる世間の圧倒的多数を占めているものですから、

必然的に堕落・腐敗・頽廃し、衰退への道を転がり落ちて行くのであります。

そして、やがて破滅してしまうのですが、人間はこれに懲りずに、何度でも

同じことを繰り返しておるのであります。

 だからこそ、偉大なる先人の中でも賢者といわれる人たちは、壺中に天を

求めてきたのです。それは安岡先生が『孟子』からの引用で明確に示して

くださいましたことは、賢い読者ならすでにご承知のとおりであります。

 しかも、そこでの楽しみ方にまでお話しは進み、自然に親しむことから

「読書尚友」にまで及んでおりましたこともまたご承知のとおりです。

 これこそが悠々自適の生活でありまして、誰もが羨み続けてきたこと

であり、尚且つ、自分もそうなりたいと渇望してきたことなのです。

 そして、これこそが、万民にとっての理想であったはずなのです。

それでも人間というものは欲が深いものですから、さらにその上を行く

無限の可能性を信じてチャレンジを繰り返しているのであります。

これがなくなってしまったら、人間はおしまいです。