現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ
電子美術館のQ&A

117 ブラックボックス展批判はなぜ失敗するのか

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2017/7/20

――ブラックボックス展と呼ばれる日本のアートイベントで、騒動が起きていましたが?

密室が用意され、入場料を払ったお客が入場します。床があって壁と天井に囲まれただけの部屋です。中は真っ暗。お化け屋敷に似ていますが、化け猫や貞子はおらず、ただのがらんどう。その密室で起きる出来事がアートなのだ、という趣向の展示会でした。中に何があるかの言及はなく。

――SNSで前評判が盛り上がっていたと思ったら、起きたのは痴漢騒動だったそうで?

集まったお客の全員が入れたのではなく、入り口で主催者が選んだお客だけが順々に入れたそうです。選ばれた女性が暗い部屋へ入ると、中に待ちかまえていた知らない男性らしきに、次々と触られ抱きつかれたり、服にまで手を入れられた証言がいくつも出てきました。

――互いに見えない暗闇だから、どうにもなりませんね?

後になって「そういえば」と、最初からそのつもりならつじつまが合う伏線がいくつもあったそうです。居合わせたお客の話では、若い美人女性だけが次々と選ばれ、男性と年輩女性はあまり選ばれなかったそうです。消灯した室内だから、むろん刑事的な証拠は残らないし、目撃証言もあるわけがなく。痴漢する側の大勝利に終わっています。

――そんな不道徳なイベントが、アート展を自称すれば通るのは問題ですよね?

アート関係の識者が書いたブラックボックス展批判をみると、「アート無罪」という語が使われていました。

――アートだと言えば、何をやっても無罪になる意味なら、許せませんが?

今からやるのはその種の批判論と違う、世界初の話です。その前に、アート無罪は愛国無罪のもじりでしょう。愛国無罪とは、民族主義(ナショナリズム)や国粋主義が突出した途上国にみられる民意です。自国を愛する動機で殺人を犯しても、罪に問わせまいとする国民感情です。時には裁判所の決定までが追従するほど。三権分立の先進国にはなく、日本ではあまり聞かない愛国無罪です。

――アート無罪なら、日本でも普通にありそうですが?

世界中に多いアート無罪の対象は、エロ系のわいせつ表現でしょう。日本では芸術なんて高遠で深長で、難しくてわからないとして疎遠な国民が多いから、その空白を突くのがたやすい面があります。アートは一般化せず、特殊化しているから、アートの治外法権、つまり法が及ばない特権的地位が、欧米よりは生じやすいかなと。

――アートの一般化と特殊化ですが、二つは具体的に何が違うのですか?

一般家庭に、現代美術作品があるかないかの違いです。欧米では普通の家庭に、現代美術作品を飾ることがよくあります。一般人が音楽ソフト並みに美術品を買う、それが一般化です。対して日本では、家庭に現代美術があるのはまれです。庶民はアートなんて買うわけなくて。代わりに現代アートフェスティバルなどの晴れ舞台で、羽を伸ばし合う仕組みです。主に特別な場面で現代アートに出会い触れ合う、これが日本で定着している特殊化です。

――美術の一般化と特殊化は、ブラックボックス展と何か関係があるのですか?

ブラックボックス展は、現代アートの特殊化が下地です。美術が特殊化した国では、芸術性の本質論や原型が、国民の脳内にないことが多い。知られた名品を追うだけとか、耳にした頻度どおりのひいきとか。その「よく聞く名が大物」という受け身の態度に乗じて、アートでないものが派手にアートを名乗れば通ってしまいます。人々が、「それは美術表現とは違います」と否定する材料を持たないからです。押しつけられるがまま習得する、弱い立場の国民がいる。

――女性の身体部位を型取りした石膏を売る、あれもアート無罪商法を思わせますね?

脱法行為をアートと称して矛先をかわす手法は、世界中にあるでしょう。無修正AV(アダルトヴィデオ)ソフトでも、制作会社がこれはアートです、芸術の活動ですと正当化する工夫がみられます。しかし結局は摘発され、警察はアート無罪に抱き込まれないようです。

――ヌードの絵や彫刻の、あの、裸婦像なんてのもその部類ではありませんか?

私の著書は2016年に発売できましたが、実は1988年に出版社でボツになっていました。裸婦像と高齢者の性に言及した部分に、彫刻家が腹を立てるからまずいと、編集者の注釈がついたからです。

――裸婦像と春画の関係など業界のタブーがあって、日本なら発禁になるのですか?

出版社を弁護するなら、美術が一般化していない国では、美術本を買うのは美術家だけで一般人は買いません。それを、美術の特殊化と言うわけです。きちんと根拠があっての特殊化。その題材は、漫画『サザエさん』の一話でした。女性ヌード絵画展の会場で、高齢の男が鑑賞している。渋い顔で、「実につまらん」とつぶやいて帰ってしまう。四コマめで、男の職業が銭湯の番台だとわかる。

――ブラックボックス展をアート無罪に乗じた罪で斬るのは、わかりやすい正義だと思いますが?

逆です。ブラックボックス展は実は非常に叩きにくいのです。識者たちの論も、効果的に叩けていません。容易に揚げ足をとられてしまう弱点があるのです。ブラックボックス展批判とアート無罪批判は、のれんに腕押し。それらは現代アートの自由ぶりを批判しています。自由度の高さで生じた、作品の行き過ぎを糾弾しています。ところが、そこには重大な視点が抜けています。三大画家タイプとダダ運動タイプがあるという、現代的な視点が抜けているのです。

――人類のアートは大きく二つに分かれるという、あの新説でしたね?

古来の美術は全て「三大画家タイプ」でした。しかし1910年代以降に、新たに「ダダ運動タイプ」が登場しました。20世紀になって、作品は初めて二本立てになったのです。二種類を混ぜたまま現代アートを語っても、聞く人たちの脳内は空回りします。既刊本に詳しく説明していますが、本の紹介ブログにも新コラムを書きました。

――その新しいコラムは、どういう内容ですか?

土木建設工事として、自治体がコンペ(設計競技)を行うとします。鉄やコンクリートでつくる建造物の、その設計案のコンテストです。課題は「橋」です。

――コンペといえば、2020年予定の東京オリンピックスタジアムを思い出しますが?

もう長く建設業界で、図面を引かず模型を作らず、スケッチ画と活字説明を求める略式のプロポーザル方式が増えています。しかし、時にはコンペ方式もあります。国や県や市が国際コンペを開催し、土木系の橋のデザインを公募することをここで考えます。

――川や海にかける橋の案を、一般から募集するわけですよね?

指名コンペでなく公開コンペだと、色々な案が数百も現れ、奇抜な橋も出てきます。オーソドックスな吊り橋や斜張橋だけでなく、眼鏡橋だったりゴッホみたいな跳ね橋とか。さらに宇宙時代の透明チューブや、未来人向けの魔界デザインの案も出てくるかも知れません。飛び石型の橋だとか、水没した橋なんてのもありそう。色もうんと奇抜で。

――建設不能な突飛な案を出して、目立とうとする者も現れそうな気がしますが?

もちろん、他を大きく引き離した、全く超えたアイデアが登場します。全員が注目します。その案は具体的には、橋ではなく端を提案するもの。デザイナーたちが寄せた「奇抜な橋」の中に、ポツンと「普通の端」を出すという。

――意味がわかりませんが?

そこです。その一言です。今言いましたね。「意味がわからない」と。「わからないものこそが真の芸術なのだ」という、人類のアートの法則に引っかけてあるのです。法則どおり、理解させず人々をポカンとさせる目的の提案です。既成の概念を超えるという、現代アートのスローガンどおり。その応募者は橋を提案せずに、端を提案するのです。

――日本昔話の一休さんが、橋の真ん中を通らず端を通った、あのダジャレじゃないですか?

その次元のハメ外しが、ダダ運動タイプの作品づくりによく出てきます。芸術は奇抜でわけがわからないという、近代以降に広まった永遠の原理に対抗して、これならもっと奇抜でわけがわからないぞ?と。意趣返しみたいに異次元へ進んだのがダダ運動タイプ。野菜サラダをつくり食べるイベントで、空の食器を置いて「これが本当のさらだ」という、その手の落とし方がダダ運動タイプのノリ。

――んー、展示物がなくて器だけのブラックボックス展は、確かにそんな感じのハメ外しですよね?

何でもない無関係な話にずらして、そこで起きた出来事や、観客らのリアクションが芸術なのだと主張する方法論です。橋の代わりに端を提案すると、「意味不明」「理解不能」「非常識」「狂ってる」という反応が出ます。これは、ピカソ絵画に当時の人が投げた言葉と全く同じです。橋のコンテストに出した端は、驚いて口にする言葉が、ピカソへの反応と完全に一致します。一致を理由に、「これぞ現代のピカソ」「ピカソに並ぶ名作」と言えてしまう理屈です。

――そんな名ばかりの作品は、馬鹿馬鹿しいだけだと思いますけど?

馬鹿馬鹿しいとの非難は、三大画家タイプのゴッホもピカソも当時言われました。昔の画家ドラクロワも、アングルにそう言われたはず。「迷惑だ」「イカれたトンデモ」「騒いで目立ちたいだけ」なんて叩き方は、ピカソの抽象画への非難とやっぱり一致します。ピカソに匹敵している証明が、言えば言うほど強化されて。まんまと端に一本取られます。

――ブラックボックス展をピカソと引き離すことが、どうあがいてもできないわけですか?

識者たちのブラックボックス展批判も、その限界があります。「自由過ぎ」「突飛過ぎ」「主張が強過ぎ」「刺激が強過ぎ」という現代アートの風潮を問題視して始まります。過剰な表現は危険だ、という視点で。しかし「行き過ぎ」を慎む問題の立て方に、そもそも橋と端がごっちゃな欠点があります。うまく線が引けず、真剣に聞けば聞くほど歯切れが悪く、話の腰がすわらず、意味がゆれて玉虫色。

――ピカソ展は橋で、ブラックボックス展は端という食い違いが平行線で、かみ合いませんね?

二つを自由度の大小で分けようにも、話があっち行きこっち行きして焦点が定まりません。その時々の気分にまかせた、恣意的な落とし方にみえてしまう。「奇抜な橋」の不思議と、「普通の端」の不思議を、分け隔てなく語る無意味さです。両者は造形的な飛躍量やさじ加減の差ではないから、読者はチンプンカンプンでしょう。サラダと皿だを、真面目に計りにかける無意味さです。

――自由をどこまで許すかという「程度の問題」は、間違った着眼点だったわけですか?

「養護施設の19人刺殺も、中東テロの断首儀式も、連続企業爆破も、日本への原爆投下も、ぜーんぶアートさ」という、いかにも現代的なハメ外しを考えてみます。津波のガレキは事実テレビでおもしろがる芸能人がいたから、話から外しましょう。サリンはまた今度。4つはアートでないとは、国民は整理しにくいはず。生理的か情緒的な反応以外に、確かな原則を持たない自分に気づくから。

――世界初を記録した痴漢アートに釘を刺されて、すごすごと黙るほかありませんよね?

起きたことをアートと言うなら、ブラックボックスどころかテロもアートと言えてしまう理屈。それは不謹慎だと退けるなら、ピカソの抽象を不謹慎だと退けた昔の人と同類扱いされます。常識どおりの、古風な狭い人物に分類される印象操作で。保守的な頭の固いタイプにレッテル貼りされる。現代アート普及活動のリベラル圧も迫り来るし、現にわいせつ系を摘発した警察は固くて無粋と非難されているし。そうしてひるんだ態度保留に、無罪アートが押し込まれてくるでしょう。国民の判断力のなさに、つけ入るようにして。

――国民は美術に発言権もなく、爆破テロもアートだと言われても反証まではできませんからね?

「命にかかわるならだめ」と「程度の問題」に収めると、命に別状ない痴漢ならよしとなり、端に一本取られます。ピカソの抽象画が当時は危うく迷惑なトンデモ事件だった史実を、ブラックボックス側は盾にできるわけです。ブラックボックス展を批判しても、場当たりの後知恵に映ってしまう。つまり「奇抜な橋」の奇抜さと、「普通の端」の奇抜さを分別しないと、ブラックボックス側の大勝利です。次元の違う話がごっちゃでは、するりするりと論点が逃げ回るだけ。一休さんに手玉にとられた和尚さんみたいに。

――橋をつくらずに端を出す人が増えて、しかもウケているアートの現実は、どういうことですか?

人類が芸術が苦手になる途上と、私は判定しました。わからないなりのコミュニケーション。発端は、ピカソの抽象画を見ての挫折でしょう。そこが起点となって「意味不明」「理解不能」「非常識」「狂ってる」に対抗できる別ものを探す流行が起きました。対抗する別ものを。1930年代から続いてきた別ものが、ブラックボックス展の形式でした。現代はたぶん、「奇抜な橋」よりも「普通の端」が身近な時代です。ピカソの世界に入れない人でも、こっちなら入れると。

――自分が芸術が苦手だなんて誰も思いたくないから、ブラックボックス側の思うつぼですよね?

奇抜な橋がわからずとも、普通の端がわかれば、自由人に仲間入りできる受け皿というか。ピカソには絶句しても、「これは便器でしょ」とすらすら言える親近感もそれ。抽象画がわからなかった負い目を、ブラックボックスがわかった挽回で帳消しにできる。ピカソにはじかれて、ここに流れ込んだ。橋という芸術に、端という反芸術をぶつける大流行があり、もうひとつの自由を歌っています。今の言葉で、炎上商法。供給側も、端で一本取るなら、ピカソが苦手な僕にでもできると思って。

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