スキー100年目の革命Q&A

36 スキーは遊びか勉学か


1 スキーがまるでお勉強のような、あの雰囲気を嫌がる人もいるが?

それに賛同するスキーヤーが多い割に、消えないのは興味深いことです。スキーのメインストリームには、一昔前の習字やそろばん、あるいは武道と似た世界があります。上級の下クラスになると判で押したように、先生が手本として見せる試技自体を会得するお約束があるのです。他に職を持つレジャー客さえ、勉学スキーや指導者養成スキーが正統で、遊ぶスキーや自然体スキーを異端とする雰囲気ができています。


2 勉学志向の本人は、何を思っているのか?

真面目で一途です。ギターに例えれば、フォークギターやエレキの自由さがあっていいのに、まるでクラシックギター入門の世界でした。楽器を構える姿勢について、「本人がリラックスできれば、それが正解です」とベテランがいくら言っても、「本当の理想の構え方を知りたい」と、とことん気にする。スキーでもみられるこの度を超えた追求は、向上心というよりもっと別の心理に思えます。


3 スキーを遊びと考えるのが、御法度なのはなぜか?

ひとつは旧式スキーの難易度の高さでしょう。交通手段を得る生活用具としての長い歴史は、もう関係ありません。19世紀末に陸軍の装備だったスキー板は、20世紀前半にスポーツ用品となりました。しかし操作が難しすぎた旧式スキーは楽しさが乏しく、訓練のカタいイメージが離れなかったのでしょう。勉学や修行へ寄っていった発端は、旧式スキーのずんどう形状だと考えられます。免許皆伝の免状が欲しくなるのも、習得に苦行に近いものがあったからでしょう。


4 勉学スキーは、国民性や文化的なものとも関係がありそうだが?

アジアで特に強い学歴主義と混じったと思います。それとは別かも知れませんが、遊ぶことを悪とは言わないものの、あまり好ましくない、やや後ろめたいものだと感じる地域性もありそうです。「趣味です」「大いに遊んでいます」とは言いにくく、「趣味と実益を兼ねています」「遊びにとどまりません」と言いたいわけです。なぜこうなるかは、簡単には解明できません。


5 これから時代が進むと、だんだん勉学色が薄れるのだろうか?

変化はないでしょう。現にスキー界の重鎮や学者が、上級層にたちこめるお勉強至上を40年以上も批判し続けたのに、変化はみられません。学歴主義や資格主義は、成果を自分が喜ぶ以上に、他人に自慢して尊敬されたいコンプレックスがあります。学歴社会を真っ向から批判発言した見識高い母親も、家へ帰れば我が子を高偏差値大学へ行かせるべく別人のごときとなる、あの二重構造を連想します。


6 学歴主義の裏には、何があるのか?

アンチ能力主義です。一般に、良し悪しが判別できない分野に、学歴や資格が発達します。例えば、歌謡曲や大相撲の世界は、出来不出来が素人にわかるので、学歴や資格が問題にされない能力主義です。スキーがそうでない原因のひとつは、参加者が少ないこともあるのでしょう。スキーと無縁の人に腕自慢するには、ゲレンデで見ないとわからない能力主義は意味をなさず、書類上のタイトル類が必要になるわけです。


7 そもそも国内の狭いゲレンデでは、大自然の遊びをイメージしにくいが?

コースが小さいと、舞台俳優のようにかしこまって滑りたくなります。コース幅の狭さが特にそうで、例えば広島のある人気スキー場では、ゲレンデが白いカーペットを敷いた長い道のようで、20メートル四方に5〜10人もの大混雑です。人の林を駆け抜ける上級者と、ボーゲンスキーヤー、座り込んだボーダーでゴチャゴチャ。密度がこれほど高いと、まるで器械体操の採点のように精度良く見せようとするスキーヤーの虚栄心が露骨に現れます。


8 国内と国外では、コースの規模だけでなく、目に入る遠景もスケールが違うが?

国内でよく見るゲレンデ風景に、松林がバリカンを通したように白い帯状となったコースがあります。さらにガケの赤土が見えたりすると、郊外の新興住宅地でも見る感覚です。こうまで目に入る景観が日常に近いと、解放感は小さいしリゾート気分も出てこないでしょう。赤い安全ネットで狭く囲われた人工的な風景が、気持ちをお稽古事に向かわせるとの仮説です。


9 海外の大スキー場へ行くと、それが起きないのか?

巨大スキー場では、滑走姿勢の細部にこだわる意味がありません。森林限界を超えたゴツゴツの山岳や、氷河やクレバスなど自然の威容に包まれると、人の心理も変わります。欧米のスキー界にも、当然パラレルの壁はあり、スクールやトレーニングキャンプもあります。しかし例えば、ストックを短く持って、しゃがんでチョコチョコ回るなどは、広大な山岳に囲まれたロケーションではあまりやる気にならないでしょう。


10 海外と日本では、雪質も違うはずだが?

海外体験談を総合すれば、雪質はむしろ北海道の方がよさそうです。ただ問題は、どのゲレンデもピステ車で圧雪したぺったりと平板な光景が、まるで「スキーリンク」とでも言えそうな人工的な雰囲気を強調している点です。雪山が運動場のごときになって、新雪を求める人は禁止ゾーンに侵入するしかないスキー場が日本には多いのです。


11 欧米ではスキー場で丸1日ゆったりなのに、なぜ日本はセカセカなのか?

国民性と文化の違いでしょう。スキーライフ24時間あたりの貧弱さ、アフタースキーの広がりのなさは、日本のあわただしいレジャーの特性そのものです。やはり簡単には説明できません。パラレルに届かないとバタバタやめる初級者の行動パターンも、貧弱レジャー文化の風土に沿ったように思えます。


12 練習の虫は継続、のんびり屋は撤退、という世知辛さは改善できないのか?

「パラレルの壁が、事実上、スキー継続を決めるボーダーライン」という法則ができ上がっていること自体、せっかちスキー文化が産んだ結果論だと思います。ここではそれを逆に利用し、「パラレルまでは訓練色を強め、パラレル以降にゆとりを満喫する」という順応でサバイバルを提案しています。


13 欧米のゆとりを形だけでも真似て、パラレルに遠いなりに楽しく続けられないか?

実際には32日でパラレルに届くし、カービングスキーなら短縮する上、途中の楽しさも違います。ただし日本では、スキーが真に国民的スポーツになっていません。「自分も一応スキーぐらいできます」というベーシックな雰囲気がないのです。日本のスキーは今も特殊な一過性の世界で、入門者は短期で成果が出ないと速やかに縁を切ります。かじって終わり。ならば32日だけ集中し、補助輪なしで自転車に乗れるレベルまでは行こう、という戦略的な解決法になるのです。


14 修学旅行のスキーも、しばらくはブームだったが?

1980年代に、九州の中学、高校の修学旅行でスキーが急増したのは、平成バブルのスキーブームより前であり、一度やりたかった教師たちの意向もありました。当時の「荒れる学校」に手を焼いて、他校とケンカしないなど生徒を管理しやすい説は後付けした結果論であって、当初の目的ではありません。未体験のスキーに、皆行きたくて行ったのです。


15 修学旅行は、スキーを国民的スポーツにする基盤になったのか?

旧式スキー時代は、やっぱりダメでした。中学や高校の教師たちも、旧式スキーの関門に引っかかり敗れ去っています。生徒も、足を突っ張って暴走を防げばベリーグッドという低次元の練習に終わり、雪上をビュンビュン滑る楽しさを知る機会にならずじまいです。どこで切っても、旧式スキーの難易度がネックになって、カービングスキーと出会う前にほとんどの人はスキーライフを終えました。


16 旧式スキーでも楽しんでいた欧米に比べ、レジャー産業側に責任はないか?

悪いのは、リフトを増やさず客を増やすスキー場だ、過密スケジュールの旅行会社だ、大味メニューのゲレンデ食堂だ、清潔感のない旅館だ、といくつも指摘はあるでしょう。しかし総じて、海水浴場の「夏の家」に似た「仮」の雰囲気がスキー場にただようのは、国民の需要の細さのせいもあります。国民の多数派が十分な裕福感を得ていないという、政治経済にまで関係していくと思います。


17 そういえば、女性は旅館の清潔感を気にしていたが?

私も気になりました。例えば風呂場までの廊下が食材の段ボール箱置場だとか、裏方ゾーンが混じって殺風景な旅館が目立ちました。ある旅館では夕食の席がリザーブされず、小人数グループが飛び飛びに座って食べ始めており、最大団体の我々は座れませんでした。普通は「誰々様ご一行」の札を立てて、客がどこでも勝手に座るのを防ぐものなのです。食堂内がシーンと静まって重い空気が流れた後、おぜんに並ぶ料理が回収され旅館の家人の台所に移され、我々は薄灯りと電気ストーブの寒々と隔離された夕食となりました。


18 ゲレンデに近い旅館が、かえって小汚かったり、生活臭丸出しなのはなぜか?

おしゃれで小粋なペンションは、なぜゲレンデから離れているのか、とも関係があります。ゲレンデ・ステイの旅館街には、客が自動的に集まる仕組みがあります。旅行会社の宿泊付きパックツアーでは客は旅館を選べず、現地の旅館組合の案内センターが割り振ります。組合に入っている昔からの旅館同士に競争原理がなく、客のもてなしもラフになる道理があるといえます。もちろん改善に動いた旅館街もあります。