石碑は歴史を語りかけます。
(表題は私が適当に付けました。調べた碑文にも誤りがあるかと思います。)
クリッカマブルマップなるものを作りました。図の中の絵記号をクリックすると,該当の箇所の先頭に 移動します。
(前)古戦場有縁勇士之○碑(1字未詳:日の下に火という字。漢和辞典を調べてもわかりません)
(後)古戦場跡ニ戦没全霊ヲ収集シ之ヲ祀ル
(右)昭和四十九年八月吉祥日 施主(氏名)
※ 戦国時代に合戦があった山であり、「はるの城」と呼ばれていました。
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2 第1次世界大戦碑(左底側)(大原野神社)
(前)大正三四年○戦○紀念碑(2字不明 之,役か)(7名氏名連記)
※ 世界大戦に従軍した人が、復員後に記念に建てたものでしょうか。
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3 第1次世界大戦碑(野田側)(大原野神社)
(前)大正三四年戦役紀念碑
※ これも2と同じ趣旨のものであり、なぜすぐそばに二つ並んでいるのか疑問でしたが、 おそらくこの神社
が野田地区と左底地区の境界に位置するため、それぞれの地区の人々が 別に建てたのではないかと思わ
れます。
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4 参道改修記念碑(大原野神社)
(前)参道改修並橋梁架設 総費 一金四百六拾八圓四拾五銭也
(右)昭和十四年十月竣工 左底区長(氏名) 石工(氏名) 同(氏名)
※ 左底地区からの参道は、苔むした石段が続き霊妙な雰囲気です。
(前)野田公園
(後)大正十三年春
※ そんな昔からこの公園があったとは驚きです。
(前)三十七八年戦役凱旋紀念碑
(後)明治四十年十月建之 時津村奉公会
※ 凱旋の2文字に、当時の高揚した国民意識がうかがえるようです。
(右)→ 長崎
(左)← 長与
(左後)明治三十三年九月建設
(右後)時津村 字市
※ 時津は古くから大村湾によって長崎に至る玄関口として栄えてきました。道標もまあ石 碑の仲間と言えるでしょう。
(前)慰霊碑
(後)昭和六十一年四月吉日建立
※ 時津町による慰霊碑です。周囲の石壁に戦没者の名前が刻まれています。 表にすると次のとおり
| 郷 名 | 陸 軍 | 海 軍 | 準軍属 | 小 計 |
|---|---|---|---|---|
| 子々川 | 28 | 6 | 6 | 40 |
| 日 並 | 38 | 18 | 8 | 64 |
| 久留里 | 14 | 4 | 6 | 24 |
| 左 底 | 18 | 3 | 8 | 29 |
| 元 村 | 40 | 12 | 11 | 63 |
| 野 田 | 30 | 9 | 6 | 45 |
| 浦 | 46 | 15 | 30 | 91 |
| 浜 田 | 44 | 16 | 13 | 73 |
| 小島田 | 8 | 9 | 2 | 19 |
| 西時津 | 25 | 12 | 7 | 44 |
| 合 計 | 291 | 104 | 97 | 492 |
の兵器、造船、製鋼等に動員されていた人達が多いようです。
何らかの形で軍籍のあった方々でしょう。
※ 碑の背面に銅板があり、左のような図と銘文が記されています。
「この慰霊碑は、中心の柱を旧陸軍の善行章を表し、中程のドームを飛行機のプロペ
ラと平和の鳩の羽根を、全景は軍艦を表しているもので、昭和32年4月 (総工費1,7
23千円)現在地に建立されていたものであります。」
なぜ現在のものに改められたのかは不明ですが、恐らく30年の風雪で老朽化した
のでしょう。
9 原爆碑(浦郷)
(前)原爆慰霊碑
※ 8と同じ場所にあります。こちらは軍籍の無い原爆死没者の方々を 祀ったものと思われます。
(前)日本二十六聖人上陸の地
※ 大村空港に通う船着き場にあります。ここから長崎の西坂の刑場までを歩きました。
(前) 鬼塚道男君ハ 長崎自動車株式会社ノ車掌トシテ乗務中 昭和廿二年九月一日朝
長崎市打坂付近ノ坂上ニ於テ木炭バスガ故障シ断崖ニ転落セントスルヤ咄嗟ニ車体ノ
下ニ挺身 以テ大惨事ヲクイトメ 自ラ乗客三十有余ノ生命ニ代ワリテ散華セリ
享年二十一歳
君ハ性温良至醇 ソノ孝心ノ厚キハ社内之ヲ周知セリ 而シテ大事ニ臨ミテ揮イシ
大勇猛心モ君ガ胸中ニ秘メシ責任感ノ発露ナリシヲ疑ウモノ莫シ 嗚呼 殺身成仁
之ヲ仰ゲバ弥ニ高シ
茲ニ小碑ヲ建テテ聊カ 威霊ヲ慰ムト云爾
(右)昭和四十九年十月吉日 長崎自動車株式会社代表取締役社長 松田q一建之
(左)秋吉茂撰 小曽根星堂書
※ 長崎市と時津町の境の打坂という峠にあります。お地蔵様も交通安全を
見守っています。
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