俳句読本」に登場した俳諧師達(一)元禄期まで

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山崎 宗鑑(やまざき そうかん)
生年不詳〜天文八年、九年(1539.40)
近江の国(滋賀県)の人、氏名・経歴の詳細は不明。

「さむくとも火になあたりそ雪仏」
「手をついて歌申しあぐる蛙かな」
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谷 宗牧(たに そうぼく)
生年不詳〜天文十四年(1545)
泉州(大阪府)堺の連歌師。
諸国を遊吟して多くの紀行文や連歌を残した。

「夏かけて山路や花の遅桜」
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荒木田 守武(あらきだ もりたけ)
文明五年(1473)〜天文十八年(1549)
伊勢神宮の神官の家に生まれた。
山崎宗鑑とともに俳諧の始祖といわれる。

「落花枝にかへると見れば胡蝶かな」
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豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)
天文六年(1537)〜慶長三年(1598)

「春の日や日永の宿の霞酒」
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野々口 立圃(ののぐち りゅうほ)
文禄四年(1595)〜寛文九年(1669)
京都に生まれた。

「天も花にゑへるか雲のみだれあし」
「明後夜の月の名や聞き及びごし」
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松江 重頼(まつえ しげより)
慶長七年(1602)〜延宝八年(1680)
出雲の国(島根県)松江に生まれた。

「醤油もて目ざしぬらすや燠の上」
「落潮に鳴門やつれて暮の春」
「花も見ん男やまめの浮かれ者」
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西山 宗因(にしやま そういん)
慶長十年(1605)〜天和二年(1682)
熊本の人、諸国を旅したが43歳の時
大阪天満宮の連歌宗匠として迎えられた。
晩年は談林風の中心人物として名を成した。

「竹の子や井垣の内へ抜け参り」
「そばきりのまず一口やとし忘れ」
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半井 卜養(なからい ぼくよう
(1607−1678)
幕府の御番医師

「山田守る僧都はわらは姿かな」
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安原 貞室(やすはら ていしつ)
慶長十五年(1610)〜寛文十三年(1673)
京都の人で鍵屋と称して紙商を営んだ

「これはこれはとばかり花の吉野山」
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椋梨 一雪(くらなし いっせつ)
元和六年(1620)〜延宝八年(1680)
京都の人で、江戸や阿波徳島にも住んだ。
俳諧は貞徳に学んだ。

「不時にのぼり行者か月の影法師」
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北村 季吟(きたむら きぎん)
寛永元年(1624)〜宝永二年(1705)
近江の国(滋賀県)野洲郡祇王村の人。通称は久助。

「一僕とぼくぼくありく花見哉」
「腰をふる門の柳やかぶきもの」
「夏山は目の薬なるしんじゅかな」
「夏やせとこたへて跡は泪哉」
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伊藤 信徳(いとう しんとく)
寛永十年(1633)〜元禄十一年(1698)
京都の人

「雨の日や門提げて行くかきつばた」
「湖や鳥のくはえて行く早苗」
「衣装もやみな白妙の富士詣」
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田 捨女(でん すてじょ)
寛永十一年(1634)〜元禄十一年(1698)
丹波の国(兵庫県)氷上郡柏原の豪族の家に生まれた。

「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」
「月や空にいよげに見えてすだれごし」
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井原 西鶴(いはら さいかく)
寛永十九年(1624)〜元禄六年(1693)
大阪の町家に生まれ、本名は平山藤五と称したといわれ、別号を鶴永、西鵬、松寿軒などといった。
十五才のころ、貞門の俳諧を学び、後に宗因につき、談林派も代表者の一人ともなった。
中年で俳諧から小説に転じ、「好色一代男」他、好色物・武家物・
町人物にそれぞれ傑作を残した。

「天地広し立春なににさはるべき」
「長持に春ぞくれ行く更衣」
「蝉聞きて夫婦いさかひ恥づるかな」
「大晦日定めなき世の定めかな」
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岡西 惟中(おかにし いちゆう)
寛永十六年(1639)〜正徳元年(1711)
因幡国(鳥取県)の生まれた。
はじめ備前国岡山に住み、後大阪に移る。
幼少のころから俳諧を好み、他に和歌、連歌、
漢詩、書道等を学んだ。俳諧は、宗因に入門して
から大いに活躍し、いわゆる「俳諧寓言論」をとなえた。

「かきのから藻にすむ虫のやどりかな」
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山口 素堂(やまぐち そどう)
寛永十九年(1642)〜享保元年(1716)
甲斐国(山梨県)素封家(酒造業)に生まれた。
二十歳のころ江戸に出て儒学を学び、和歌、書道、
茶道、能などの素養もあった。
俳諧は季吟門と伝えるが、延宝年間は談林作家として
活躍した。芭蕉とも親好があり、その脱俗清雅な人柄は
芭蕉も推重し、芭蕉の客分として重きをなした。

「目には青葉山ほとゝぎすはつ松魚」
「枇杷黄なり空はあやめの花曇り」
「長雨の空吹出せ青嵐」
「日照年二百十日の風を待つ」
「人待つや木葉かた寄る風の道」
「市に入てしばし心を師走かな」
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小西 来山(こにし らいざん)
承応三年(1654)〜享保元年(1716)
大阪淡路町の薬種商の家に生まれ、通称は伊右衛門。
豊臣秀吉の重臣小西行長の後裔。
十八歳で判者の資格をを許された俊才。
のち上島鬼貫らと親交して伊丹派を樹立した。

「白魚やさながらうごく水の色」
「春風や」堤ごしなる牛の声
「精進すなといはれし親の彼岸かな」
「先ず三つ神にたむけて菰粽」
「さし出づる朝日の友や若楓」
「行水も日まぜになりぬむしのこゑ」
「辻相撲みな前髪を贔屓にけり」
「関照るや紅葉にかこむ箱根山」
「袴着や子の草履とる親ごころ」
「音するは立居の友やさら紙子」
「お奉行の名さへおぼえずとし暮れぬ」
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池西 言水(いけにし ごんすい)
慶安三年(1650)〜享保七年(1722)
奈良に生まれ、通称は八郎兵衛。別号は紫藤軒・兼志など。幼少より俳諧を好み、
十六才で法体となって、俳諧に専念したという。

「猫逃げて梅ゆすりけり朧月」
「ふかぬ日の風鈴は蜂のやどりかな」
「馬子の袖に昼顔かかる仮寝かな」
「毛虫落てまゝ事破る木陰かな」
「沖膾箸の雫や淡路島」
「凩の果はありけり海の音」
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椎本 才麿(しいのもと さいまろ)
明暦二年(1656)〜元文三年(1738)
大和の国(奈良県)宇陀郡の人で、本性は谷氏。通称は八郎右衛門

「笹折りて白魚のたえだえ青し」
「卯の花や仏の母は月に似て」
「白雲を吹きつくしたる新樹かな」
「里の子の麦藁笛や青葉山」
「鳥は浮き魚はしづみて冬の月」
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上島 鬼貫(うえじま おにつら)
寛文元年(1661)〜元文三年(1738)
摂津国(兵庫県)伊丹の酒造業者油屋の一族に生まれた。
八歳の時に「こいこいといへど螢がとんでゆく」という
句を作ったといわれ、十三歳の時に重頼の門に入って
俳諧を学び、十六歳の時には談林派に心を寄せた。
二十五歳の時に大阪に出、蕉風より先に
「まことの外に俳諧なし」と悟って、率直平明な
俳風で無季や口語調を試みたりした。
高潔な人柄で、芭蕉の没後は惟然とも親しく
、芭蕉を崇拝していたようである。

「朝日かげさすや氷柱の水車」
「ひうひうと風は空行く冬牡丹」
「数珠くりて春を待つこそ仕事なれ」
「春立や誰も人よりさきへ起き」
「鶯の鳴けば何やらなつかしう」
「草麦や雲雀があがるあれ下がる」
「桃の木へ雀吐出す鬼瓦」
「葉桜に心ゆかしや鞍あぶみ」
「麦つきやむしろまとひの俄雨」
「恋のない身にも嬉しや衣がえ」
「飛ぶ鮎の底に雲行く流れかな」
「さわさわと蓮うごかす池の亀」
「水無月や風に吹かれに古里へ」
「そよりともせいで秋立つ事かいの」
「朝も秋夕も秋の暑さかな」
「にょぽりと秋の空なる富士の山」
「行水の捨てどころなきむしのこゑ」
「風もなき秋の彼岸の綿帽子」
「御所柿のさもあかあかと木の空に」
「あらたのし冬たつ窓の釜の音」
「麥まきや妹が湯を待つ頬かぶり」
「いつも見るものとは違ふ冬の月」
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松尾 芭蕉(まつお ばしょう)
正保元年(1644)〜元禄七年(1694)
伊賀の国(三重県)上野に生まれた。
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「春や来し年や行きけん小晦日」
「大津絵の筆のはじめは何仏」
「瓶わるゝ夜の氷のねざめ哉」
「いざ子供はしりありかん玉霰」
「いかめしき音や霰の檜木笠」
「いざさらば雪見にころぶところまで」
「馬をさへながむる雪の朝かな」
「君火をたけよきもの見せむ雪まろげ」
「寒菊や粉糠のかかる臼の端」
「初春まず酒に梅売るにほひかな」
「おもしろやことしの春も旅の空」
「衰ひや歯に喰いあてし海苔の砂」
「凍解けて筆に汲干す清水かな」
「梅が香に追ひもどさるゝ寒さかな」
「春もややけしきととのふ月と梅」
「紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ」
「猫の恋やむとき閨の朧月」
「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」
「ねはん會や皺手合する珠數の音」
「咲きみだす桃の中よりはつ桜」
「よく見れば薺花咲く垣ねかな」
「落ざまに水こぼしけり花椿」
「父母のしきりに恋し雉子の声」
「雲雀より上にやすらふ峠かな」
「初ざくら折しもけふはよき日なり」
「遠う来る鐘のあゆみや春霞」
「思い出す木曽や四月の櫻がり」
「花の雲鐘は上野か浅草か」
「辛崎の松は花より朧にて」
「阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍」
「春の夜は桜で明けてしまひけり」
「声よくば歌はうものを桜散る」
「丈六に陽炎たかし石の上」
「さまざまの事おもひ出す櫻かな」
「灌佛の日に生れあふ鹿の子かな」
「ほろほろと山吹散るか瀧の音」
「菜畠に花見顔なる雀かな」
「草臥て宿かる比や藤の花」
「八九間空で雨降る柳かな」
「行く春や鳥啼魚の目は泪」
「駿河路や花橘も茶の匂ひ」
「いざ共に穂麦食らはん草枕」
「世を旅に代かく小田の行き戻り」
「若葉して御目の雫ぬぐはゞや」
「鰹売いかなる人を酔すらん」
「ほたる見や船頭酔ひておぼつかな」
「草の葉を落つるより飛ぶ螢かな」
「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」
「ほととぎす消え行く方や島一つ」
「曙はまた紫にほとときす」
「杜若語るも旅のひとつかな」
「手ばなせば夕風やどる早苗かな」
「夏草や兵共がゆめの跡」
「おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉」
「降る音や耳も酸うなる梅の雨」
「五月雨の降り残してや光堂」
「五月雨をあつめて早し最上川」
「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな」
「柚の花や昔偲ばん料理の間」
「無常かな紙燭の烟破れ蚊屋」
「行く末は誰が肌ふれむ紅の花」
「象潟や雨に西施がねぶの花」
「紫陽花や藪を小庭の別座敷」
「清滝の水汲ませてやところてん」
「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
「さざれ蟹足はひのぼる清水かな」
「楽しさや青田に涼む水の音」
「雲の峰いくつ崩れて月の山」
「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」
「山も庭もうごきいるゝや夏座敷」
「なき人の小袖も今や土用干し」
「家は皆杖に白髪の墓参」
「此の秋は何で年寄る雲に鳥」
「枝振りの日毎にかはる芙蓉かな」
「荒海や佐渡によこたふ天の川」
「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」
「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」
「此の寺は庭一盃芭蕉かな」
「旅がらす二百十日も船支度」
「吹き飛ばす石は浅間の野分かな」
「猪もともに吹かるゝ野分かな」
「菊の香や奈良には古き佛達」
「鶏頭や雁の来る時猶赤し」
「硯かと拾ふやくぼき石の露」
「三日月に地はおぼろなり蕎麦の花」
「名月や池を巡りて夜もすがら」
「一つ家に遊女もねたり萩と月」
「十六夜や海老煮る程の宵の闇」
「物いへば唇寒し秋の風」
「此道や行く人なしに秋の暮」
「石山の石より白し秋の風」
「稲雀茶の木畠や逃げどころ」
「世の中は稲刈る頃か草の庵」
「こもり居て木の実草のみひろはゞや」
「湯の名残今宵は肌の寒からん」
「秋深き隣は何をする人ぞ」
「野ざらしを心に風のしむ身かな」
「留守のまに荒れたる神の落葉哉」
「ふぐ汁や鯛もあるのに無分別」
「旅人とわが名よばれん初時雨」
「初しぐれ猿も小簑をほしげなり」
「都出て神も旅寝の日数哉」
「鷹一つ見つけてうれしいらご崎」
「鞍壺に小坊主乗るや大根引」
「たび寝よし宿は師走の夕月夜」
「生きながら一つに氷る海鼠かな」
「ひつじ田に霜の花見る朝かな」
「初雪や水仙の葉の撓むまで」
「面白し雪にやならん冬の雨」
「冬の日や馬上に氷る影法師」
「冬籠りまたよりそはん此のはしら」
「たのむぞよ寝酒なき夜の紙衾」
「旅寝して見しやうき世のすゝ払い」
「年暮れぬ笠着て草鞋はきながら」
「うかうかと年よる人やふる暦」
「有明も三十日にちかし餅の音」
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服部 土芳(はっとり とほう) 明暦三年(1657)〜享保十五年(1730)
伊賀国上野の人、芭蕉の弟子、芭蕉の親友とも言われる

「茸狩や山のなじみのはひり口」
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小杉 一笑(こすぎ いっしょう)
元禄元年(1632)〜寛永九年(1668)
加賀国金沢片町の葉茶屋の主人。
蕉門に入ったが芭蕉と出会う事はなかった。
芭蕉が「奥の細道の」帰途金沢に来遊したときは
その前年に一笑は死去していた。
このことをしり芭蕉が詠んだ追悼句が
「塚も動けわが泣く声は秋の風」である。

「忙しや野分の空の夜這星」
「秋の夜やする事なくて寝入られず」
「秋耕に釣瓶落としの入日かな」
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伊藤 風國(いとう ふうこく)
生年不詳〜元禄十四年(1701)
京都の医者、向井去来の甥に当たる。
蕉門の人。

「松茸の市の盛や後の月」

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江左 尚白(えさ しようはく)
慶安三年(1650)〜享保七年(1722)
江州大津(滋賀県)柴屋町に代々医を業とした。
貞享二年春「野ざらし紀行」の旅の途中に
大津を訪れた芭蕉に入門した。

「星月夜空の高さよ大きさよ
「一まはり待人遅き踊かな」
「大風や鳴しずまりて秋の雨」
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槐 諷竹(えんじゅ ふうちく)
生年不詳〜正徳元年(1711)
初号は東湖、之道、のち蟻門亭。
大阪修道町の薬屋の小店主。大阪蕉風の有力者。
元禄七年十月芭蕉が病死する際にここで発病し
て介護している。

「月涼し百足の落る枕もと」
「あれ聞けと鳴子ならして子守哉」

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河野 李由(こうの りゆう)
寛文二年(1662)〜宝永二年(1705)
近江犬上郡平田村(滋賀県彦根市)
光明遍昭寺(明照寺)の十四世住職、
律師に任ぜられた。俳諧をはじめ尚白、
ついで基角らとかかわり、元禄四年五月、
京の落柿舎に芭蕉を訪ねて入門した。

「永き日や大仏殿の普請声」
「下帯のあたりに残る暑さかな」
「菜大根に二百十日の残暑かな」
「踊るべき程には酔うて盆の月」
「念仏の聲に実の入る夜寒かな」
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中村 史邦(なかむら ふみくに)
生没年不詳
尾張国犬山に生まれた。医名は春庵。
俳諧は初め貞門系に属したが、去来の世話で
芭蕉門下に入り学んだ。

「泥亀や苗代水の畦づたい」
「うき雲や左右にわかれて青嵐」
「酒しぼる蔵のつゞきや葡萄棚」

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西島の妻(にしじまのつま)
生没年不詳
元禄時代の人で江戸浅草に住んでいて、
夫婦で俳諧をたしなんだと言われている。
一説に野沢凡兆の妻とも云われている。

「わが子なら供にはやらじ夜の雪」

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宮崎 荊口(みやざき けいこう)
生年不詳〜享保十二年(1725)
美濃大垣藩士。美濃地方の蕉門代表的俳人。

「畦ぬりや蓑ふりすすぐ流れ川」
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宝井 基角(たからいきかく)
寛文元年(1661)〜宝永四年(1707)
もとは榎本といい、江戸に生まれた。
14,5歳頃芭蕉門に入る。23歳、俳諧集「虚栗」刊行。
翌年京坂への旅に出、西鶴をはじめ多くの他門の知己
も得て、幅広い蕉門俳諧師として活躍した。
蕉門十哲の一人。

「此の木戸や鎖のさゝれて冬の月」
「たゝく時よき月みたり梅の門」
「鶯の身を逆に初音かな」
「駒とめて雪見る僧や蕗のとう」
「うすらひやわずかに咲ける芹の花」
「猫の子のくんずほぐれつ小蝶かな
「この雨はあたたかならん日次かな」
「さかさまに鷺の影見る柳かな」」
「河上は柳か梅か百千鳥」
「水影やむささびわたる藤の棚」
「傾城の夏書やさしやかりの宿」
「奥や滝雲に涼しき谷の声」
「雨がえる芭蕉にのりてそよぎけり」
「鉾にのる人のきほひも都かな」
「水うてや蝉も雀もぬるゝ程」
「朝酒に片肌ぬくやひとへもの」
「此の松にかへす風あり庭涼み」
「夕すずみよくぞ男に生まれける」
「小屋涼し花火の筒の割るゝ音」
「見る人も廻り灯籠に廻りけり」
「稲づまやきのふは東けふは西」
「投げられて坊主なりけり辻相撲」
「名月や畳の上に松の影」
「秋の空尾上の杉をはなれけり」
「暮の山遠きを鹿の姿かな」
「冬来ては案山子にとまる烏かな」
「あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声」
「初霜に何とおよるぞ舟の中」
「酒ゆへと病を悟るしはすかな」
「蕪汁や霜のふりはも今朝は又」
「我が雪とおもへば軽し笠のうへ」
「ねる恩に門の雪はく乞食かな」
「何となく冬夜隣をきかれけり」
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服部 嵐雪(はっとり らんせつ)
承応三年(1654)〜宝永四年(1707)
江戸の湯島に生まれた。初め新庄隠岐守に出仕
以後30年にわたり転々と諸侯に仕えたが、22、3歳のころ
芭蕉に入門、次第に頭角現し、元禄三年には武士を廃して
俳諧師となり、基角と並ぶ江戸蕉門の中心として重きをなすようになった。
蕉門十哲の一人。

「梅一輪一りんほどのあたたかさ」
「順礼に打まじり行く帰雁かな」
「しほひくれてこ蟹の裾引なごり哉」
「手習の師を車座や花の兒」
「山ぶきのうつりて黄なる泉かな」
「竹伐は日のあたりけり花薔薇」
「竹の子や稚児の歯くきのうつくしき」
「七夕や加茂川渡る牛車」
「はぜつるや水村山郭酒旗の風」
「名月や烟這ひゆく水の上」
「夕風や箸のはじめの酢橘の香」
「凩の吹きゆくうしろ姿かな」
「君見よや我手いるゝぞ茎の桶」
「ふとん着て寝たる姿や東山」
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杉山 杉風(すぎやま さんぷう)
正保四年(1647)〜享保十七年(1732)
江戸日本橋小田原町で幕府に魚類を納める
お納屋を営み、鯉屋と号した。
俳諧ははじめ談林風であったが、
芭蕉が江戸にきて入門。芭蕉の後援者であり、
深川の芭蕉庵も主として杉風の世話による。
篤実な人柄で、京都の去来と並んで芭蕉の信頼も厚かった。
蕉門十哲の一人

「襟巻に首引き入れて冬の月」
「ひとり居て独り物いふはなのもと」
「飛ぶ胡蝶まぎれて失せし白牡丹」
「天も地も一つになりぬ五月雨」
「おぼつかな土用の入りの人ごころ」
「風のたひ道付変替るすゝきかな」
「はつ雪やふところ子にも見する母」
「原中やうしろ歩みに冬の風」
「七十の暮行く年ぞつれなさよ」
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向井 去来(むかい きょらい)
慶安四年(1651)〜宝永元年(1704)
長崎の聖堂祭酒(大学の頭の唐名)、
向井元升の次男で、性は藤原、氏は向井。
八歳の時父と京都に住み、後は母方の叔父久米諸左衛門に
養われ、各種の武芸学識を修めて、秀才の誉れが高かった。
一時堂上家に仕えたが、二十四五歳で浪人生活に入り、
貞亨元年上京して基角を知り、蕉門に入った。
高潔篤実な人で芭蕉および同門の敬愛をあつめ、
師風には忠実であった。京都嵯峨の「落柿舎」には、
芭蕉もたびたび訪れている。芭蕉の信頼も厚く
「鎮西の俳諧奉行」といったいう。
蕉門十哲の一人。

「元日や家に譲りの太刀佩かん」
「春や今水に影ゆく鳥と雲」
「うごくとも見えで畑うつ男かな」
「何事ぞ花見る人の長刀」
「知る人にあはじあはじと花見かな」
「一畦はしばし啼きやむ蛙かな」
「郭公なくや雲雀と十文字」
「石垢になほ食ひ入るや淵の鮎」
「湖の水まさりけり五月雨」
「見し人も今や孫子や墓参り」
「魂棚の奥なつかしや親の顔」
「稲妻のかきまぜて行く闇夜かな」
「君が手も交じるなるべし花芒」
「あき風や白木の弓に弦はらん」
「岩端や爰にもひとり月の客」
「朝あらし頭の上を渡り鳥」
「松茸や人にとらるる鼻の先」
「古がらしの空見直すや鶴のこゑ」
「賽銭を落として払ふ落葉かな」
「鳶の羽もかいつくろひぬ初しぐれ」
「山畑や青みのこして冬がまえ」
「鴨なくや弓矢を捨てて十余年」
「尾頭の心もとなき海鼠かな」
「病中のあまりてすゝる冬ごもり」

かな(去来の妻)
「行く春のうしろ姿か藤の花」
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内藤 丈草(ないとう じょうそう)
寛文二年(1662)〜宝永元年(1704)
尾張犬山藩士、通称林右右衛門。
元禄元年(1688)遁世。京都に移って翌二年
蕉門に入る。漢学や禅のの教養があり、
去来と並称されるようになった。
句風には高潔洒脱なものがある。
蕉門十哲の一人。

「淋しさの底ぬけて降るみぞれかな」
「酒売りのもどりは樽に野梅かな」
「うぐいすや茶の木畑の朝月夜」
「三月や冬の景色の桑一本」
「大原や蝶の出てまふ朧月」
「うかうかと来ては花見の留守居哉」
「葬の火の渚に続く鵜舟かな」
「雨乞に先たつけふや破れ笠」
「夕立に走り下るや竹の蟻」
「夕立に飛のく月や松の上」
「火をうてば軒に啼きあう雨蛙」
「稲妻のわれて落つるや山の上」
「しらぬ火や我が湖の螢とも」
「悔やみいふ人の途切れやきりぎりす
「鹿ずれの松の光や夕月夜」」
「幾人かしぐれかけぬく勢田の橋」
「はつ霜の泥によごれつ草の色」
「水底の岩に落ちつく木の葉かな」
「船待の笠にためたる落葉哉」
「水底を見て来た顔の小鴨哉」
「渡り鳥鳴くは故郷の咄かや」
「うづくまる薬の下の寒さかな」
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森川 許六(もりかわ きよりく)
明暦二年(1656)〜正徳五年(1715)
近江国彦根藩士、初めは絵画漢詩に親しんだが、
三十歳前後から俳諧に傾き、基角・嵐雪の指導を受けて
元禄五年江戸に出て蕉門に入った。
芭蕉の晩年の門人であったが芭蕉からも尊重された。
蕉門十哲の一人。

「脇差しを横にまわして雑煮かな」
「掃きだめを捨てかけておく春の雪」
「清水の上から出たり春の月」
「菜の花の中に城あり郡山」
「藤の花さすや茶摘みの荷ひ籠」
「清水の上から出たり春の月」
「胴亀や昨日植えたる田の濁り」
「鯉鮒のこの世の池や蓮の花」
「涼風や青田の上の雲のかげ」
「夕顔や一丁残る夏豆腐」
「朝顔をながめて居たり今朝の秋」
「極楽も地獄も盆は月夜かな」
「三男の三郎出たり無理相撲」
「夕食も盆の急ぎや墓参」
「菜畠に残る暑さや瓜の苗」
「十団子も小粒になりぬ秋の風」
「西瓜ほど未だひずみあり小望月」
「童部の独り泣き出て秋の暮」
「入相の瀧に散り込む紅葉かな」
 「落雁の声のかさなる夜寒かな」
「新藁の屋根の雫や初時雨」
「行きあたる谷のとまりや散る紅葉」
「餅搗や犬の見上ぐる杵の先」
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越智 越人(おち えつじん)
明暦二年(1656)〜不詳
北越に生まれ、名古屋へ出て染物屋を営んだ。
享保の初め頃芭蕉に入門した。
美男で有名。
蕉門十哲の一人。

「うらやましおもひ切る時猫の恋」
「行秋のさてさて人を泣かせたり」
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立花 北枝(たちばな ほくし)
?〜享保三年(1718)
加賀国(石川県)小松に生まれた。
のちに金沢へ移り、兄牧童とともに研刀を業とした。
元禄二年、奥羽行脚中の芭蕉にあい入門。
松岡まで随行した。
蕉門十哲の一人

「飛び乗るや春の雪散る二歳駒」
「四日には寝てもや春の花心」
「大空も見えず若葉の奥深し」
「はつきりと亡き人かなし青葉山」
「釣竿に鮎のあはれや水はなれ」
「横雲のちぎれて飛ぶや今朝の秋」
「かまきりの虚空を睨む残暑かな」
「鰯雲鯛も鮑も籠もりけり」
「語るにも夜長くなりて別れけり」
「夜寒さや舟の底する砂の音」
「年こしや余り惜しさに出てありく」
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志太 野坡(しだ やば)
寛文三年(1663)〜元文五年(1740)
越前国(福井県)福井の商家に生まれた。
江戸に出て越後屋(今の日本橋三越デパート)の
番頭となる。俳諧ははじめ基角に学び、
後に芭蕉に師事した。元禄七年「炭俵」を共編して
より俳名を高めた。
蕉門十哲の一人。

「五月雨にぬれてやあかき花柘榴」
「行く雲を寝て居て見るや夏座敷」
「長松が親の名で来る御慶かな」

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各務 支考(かがみ しこう)
寛文五年(1665)〜享保十六年(1731)
美濃国(岐阜県)山県郡北野の人、幼くして
両親に別れ、九歳のころ僧籍にはいったが、
十九歳の時還俗して各務氏を称した。
二十六歳で芭蕉に入門、芭蕉没後は美濃派を興して
全国的に蕉風をひろめたが、その俳風は卑俗低調に
はしり、後年蕪村によって伊勢の麦林(乙由)とともに
「支麦の徒」と蔑称されるに至った。
蕉門十哲の一人。

「起さるる声も嬉しき湯婆かな」
「水仙や門を出づれば江の月夜」
「船頭の耳の遠さよ桃のはな」
「つつがなき母の便りやころもがえ」
「梢まで来て居る秋の暑さかな」
「秋の夜やあの世の話嘘八百」
「しかられて次の間へ出る寒さかな」
「此里は山を四面や冬籠」
「すゝはきや何を一つも捨てられず」

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天野 桃隣(あまの とうりん)
寛永十六年(1639)〜享保四年(1719)
伊賀上野の人で、芭蕉と血縁関係にあった。
江戸へ出て蕉門となったが句風は特にすぐれたものではなかった。
清貧に甘んじ洒脱な人柄で、江戸蕉門では名を知られていた。

「世の中や大根の花も藤色に」
「躑躅さくうしろや闇き石燈籠」
「翡翠(かわせみ)のまぎれて住むか杜若」
「三日月やはや手にさはる草の露」
「行秋や紅葉の寺に我を客」
「古寺や紅葉も老て幾昔」
「大名のしのび出立ちも小春哉」
「から風の吹きからしたる水田かな」
「埋火に酒あたゝむる霜夜かな」
「山炭に冬を隣や焼栄螺」

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河合 曾良(かあい そら)
慶安二年(1649)〜宝永七年(1710)
信濃の国(長野県)上諏訪に生まれた。
伊勢の国長島藩に仕えたが、辞して江戸へ出て
貞享のはじめ蕉門に入った。
江戸深川の芭蕉庵の近くに住んで芭蕉に仕え、
貞享四年(1687)には、「鹿島紀行」に、
元禄二年(1689)には「奥の細道」の旅に随行した。
後に将軍家宣が、諸国に巡国使を派遣したとき、
曾良は岩波庄右衛門として、その一員に加えられたが
壱岐(長崎県)の勝本で客死した。

「月鉾や兒の額の薄化粧」
「鳥ばかり静にならぬ冬の朝」

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野沢 凡兆(のざわ ぼんちょう)
生年不詳〜正徳四年(1714)
金沢の人、京都に出て医を業とした。

「呼びかへす鮒売り見えぬあられかな」
「鷲の巣の樟の枯枝に日は入りぬ」
「鶯や下駄に歯のつく小田の土」
「野馬に子供あそばす狐哉」
「初潮や鳴門の浪の飛脚舟」
「竹の子の力を誰にたとふべき」
「渡り懸けて藻の花のぞく流れ哉」
「市中は物のにほひや夏の月」
「上行くと下くる雲や秋の天」
「稲かつぐ母に出迎ふうなひかな」
「禅寺の松の落葉や神無月」
「里々に米つく音の師走かな」
「門前の小家もあそぶ冬至哉」
「古寺の簀子も青し冬構」

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坪井 杜国(つぼい とこく)
承応二年(1653)〜元禄三年(1690)
尾張名古屋御園町で町代を勤めた富裕な米穀商。
貞享元年の「冬の日」五歌仙のひとりに加わり
、その折り芭蕉に入門した。

「うれしきは葉かくれ梅の一つ哉」
「馬はぬれ牛は夕日の村しぐれ」
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川合 智月尼(かあい ちげつに)
寛永十一年(1636)〜宝永五年(1708)
山城の国(京都府)宇佐に生まれた。元禄三〜四年頃蕉門に入り、
近江における蕉門の女流俳人として重きをなした。

「水仙の花の高さの日影かな」
「やまざくら散るや小川の水車」
「盆に死ぬ仏の中の仏かな」
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田上尼(たがみのあま)
寛永二十年(1643)〜享保四年(1719)
本名は久米かつ。実家は簑田氏。
長崎の俳人で、蕉門の人。
向井去来の弟牡年の養母で、卯七の叔母。

「秋の道一日かなしもみち谷」
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山本 荷兮(やまもと かけい)
慶安元年(1648)〜享保元年(1716)
名古屋の医師。貞享元年、野水、杜国らと
芭蕉を迎え、蕉門に帰した。
俳諧七部集のうち「冬の日」「春の日」「曠野」の
三編は荷兮の編であり、尾張蕉門の代表者であった。

「さうぶ入る湯をもらひけり一たらひ」
「簾して涼しや宿の入り口」
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斎部 路通(いんべ ろつう)
慶安二年(1649)〜元文三年(1738)
京都の人らしく、神職の家に生まれた。
いつの頃からか漂白の僧として乞食生活をした。

「ここちよや御座も早藺の旅の宿」
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岩田 涼莵(いわた りょうと)
万治二年(1659)〜享保二年(1717)
伊勢の国(三重県)山田の人。
神職だったという。天和以来の作者だが
蕉門に帰したのは芭蕉の晩年。よく旅をし、
北越、九州、中国地方に勢力を扶植し
いわゆる伊勢派の基礎を築く。

「傾城の畠みたがるすみれかな」
「早乙女の祭のように揃ひ出る」
「うれしさよ鬼灯ほどに初茄子」
「畠うつ黒き背中や雲の峰」
「山々や一こぶしづつ秋の雲」
「燃えるかと立ちよる塚や曼珠沙華」
「鴨一羽帯にはさむや年の市」

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水間 沾徳(みずま せんとく)
寛文元年(1661)〜享保十一年(1726)
江戸の人、露沾門、基角一派に親しみ
点取俳諧を盛んにし、基角没後は
江戸俳壇の中心になる。

「元日も旅人を見る大路かな」
「折て後貰ふ声あり垣の梅」
「帯程に川のながるゝ汐干潟」
「冬たつや御所柿の手にひゆる程」

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貴志 沾州(きし せんしゅう)
寛文十年(1670)〜元文四年(1739)
江戸の人、沾徳門。

「梅が香や雨吹く夜の肘枕」

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斯波 園女(しば そのめ)
寛文四年(1664)〜享保(1726)
伊勢国(三重県)山田の神官の家に生まれた。
同地の医師斯波一有に嫁す。
元禄三年芭蕉に師事。

「手を延べて折り行く春の草木哉」
「五月雨や色紙はげたる古屏風」
「おうた子に髪なぶらるゝ暑さ哉」

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秋 色(しゅうしょく)
寛文八年(1668)〜享保十年(1725)
本名は小川おあき。俳諧は基角指導を受け、
晩年は基角の後継者となり、美人点者としても有名であった。

「行春や野猫の痩も恋の果」

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大高 子葉(おおたか しよう)
寛文十二年(1672)〜元禄十六年(1703)
通称源吾、名は忠雄。赤穂義士の一人。
武芸をたしなんだが、風流も好み俳諧は沾徳門であったが
基角らとも交際があった。
義士としての他、母への孝行や酒豪ぶりなども伝へられている。

「山をぬく力もをれて松の雪」

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中川 乙由(なかがわ おつゆう)
延宝十二年(1675)〜元文四年(1739)
伊勢に生まれた。蕉門の人

「遊ぶにはふさがりもなし初暦」
「燕や何を忘れて中がへり」
「針ありと蝶に知らせん花薔薇」
「涼しさや心太売り氷売り」
「泣きて来て子も飯喰ふや稲の中」
「落穂拾う鶴が夕日の影法師」
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苗村 千里(なえむら ちり)
正保三年(1647)〜享保元年(1716)
大和国(奈良県)に生まれ、江戸浅草に来住した。
俳諧は芭蕉に学び、貞享元年八月に旅だった
芭蕉の「野ざらし紀行」に同行する。

「旅枕鹿の突合う軒の先」
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菅沼 曲翠(すがぬま きょくすい)
〜享保二年(1717)
近江膳所藩の中老職、俳諧は江戸出府中に基角を通じて
芭蕉門下になる。また幻住庵を芭蕉に提供し、生活面でも
多くの援助を行い、東の杉風と共に東西の両横綱格と言われた後援者。
芭蕉没後、藩の家老の不正を暴き、家老殺害の後自害した。

「啄木鳥の柱をつゝく住居かな」
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釋 浪化(しゃく ろうか)
寛文十一年(1671)〜元禄(1703)
京都の東本願寺第十四世琢如の異腹の子。
七歳で越中井波(富山県)の瑞泉寺十一世住職となり、
三十三歳で没した。元禄七年、上洛中に向井去来の
紹介で芭蕉に会い入門した。

「のら猫の声もつきなや寒の内」
「初春のおちつくかたや梅柳」
「待春や机に揃ふ書の小口」
「朝立つや鳥見かへれば雲にいる」
「一本をくるりくるりと花見かな」
「霊前に新茶そゆるや一つまみ」
「首立て鵜のむれのぼる早瀬哉」
「釣りそめて蚊屋のにほひや二三日」
「秋深し昼も馴れたる小夜着哉」
「賑やかに菊は咲きけり初しぐれ」
「柊の花のこぼれや四十雀」
「久々で野に出る馬や大根引」
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広瀬 惟然(ひろせ いぜん)
?〜宝永八年(1711)六十余歳
美濃国(岐阜県)関の人。
富家に生まれたが、感ずるところがあって
妻子をすて、風狂ののうちに生涯を終わった。
元禄元年頃芭蕉に入門した。

「朝起きて顔ふきさます青田哉」
「別るゝや柿喰ひながら坂の上」
「更け行くや水田の上の天の川」
「悲しさやをがらの箸も大人なみ」
「蜻蛉や日は入りながら鳰の海」
「待宵や流浪の上の秋の雲」
「汐風の中より鵙の高根かな」
「引張りてふとんぞ寒き笑ひ声」
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河井 乙州(かわい おとくに)
享保五年没 享年六十四才
近江の国大津の人。
芭蕉の愛弟子の一人で経済的な援助者でもあった。
芭蕉死去の際、遺骸を自宅へ引き取り仮供養をした。

「皆子也みのむし寒く鳴尽す」
「やゝ寒く人を覗ふ鼠かな」
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梅津 基雫(うめつ きだ)
(1671−1720)
秋田佐竹藩の家老

「大名の巻きてくたるや青葉山」
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水田 正秀(みずた まさひで)
近江の国膳所の人。
享保八年没 享年六十七才
近江国膳所伊勢屋町の医師。
元禄四年「義仲寺」内に無名庵を建て
芭蕉に贈呈するなど芭蕉の熱心な信者であった。
芭蕉臨終の折、芭蕉に付き添い看護に当たる。

「おもい寄る夜伽もしたし冬ごもり」
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望月 木節(もちづき もくせつ)
生没年不詳
近江の国大津の人、医師
芭蕉の臨終に付き添い看護した。
芭蕉には「木節が薬を死ぬまで」と
厚く信頼されていた。

「籤(くじ)とりて菜飯たかする夜伽哉」
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早野 巴人(はやの はじん)
延宝五年(1677)〜寛保二年(1742)
下野の国(栃木県)烏山に生まれた。
蕪村が門下生であったことでも知られる。

「若竹や筑波に雲のかかる時」
「伊勢近し尾花が上の鰯雲」
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額田 風之(ぬかた ふうし)
貞享三年(1686)〜延享四年(1747)
京都の俳匠で、俳諧は志太野坡の門人。

「夕暮れを惜しみ惜しみて秋の野良」
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仙石 廬元坊(せんごく ろげんぼう)
元禄元年(1688)〜延享四年(1747)
美濃国(岐阜県)北方の生まれ、俳諧を
蕉門の支考に学び獅子門道統第三世
(芭蕉を第一世、支考を第二世)となって
、忠実な後継者となった。支考の系統の、
いわゆる美濃派の発展に尽くした功績は大きい。

「鶯のいくつも捨てて初音かな」
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参考文献
俳句評釋 潁原退蔵(角川文庫)
近世俳句俳文集(岩波書店)
近世俳句俳文集(小学館)
俳諧歳時記(改造社)
分類俳句全集(アルス)
図説俳句大歳時記(角川書店)
カラー図説日本大歳時記(講談社)
古今俳句の鑑賞・永田義直編著(金園社)
俳句人名辞典(金園社)


「俳句読本」に登場した「俳諧師達」と「発句集」その二 元禄期以降

「俳句読本」に掲載した俳句集[春]

「俳句読本」に掲載した俳句集[夏]

「俳句読本」に掲載した俳句集[秋]

「俳句読本」に掲載した俳句集[冬]

「西国山人のつれづれ草」


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