箱崎の伝統文化

人 形 飾 り
◎箱崎人形飾り概況
人形飾りは、7月23日・24日のお地蔵様の縁日に行われる。我が子や孫の健やかな成長を願って家の玄関先に博多人形の捻り人形やお地蔵様の石を飾って箱庭を作り、子ども達が線香を持って地蔵堂や各家庭の人形飾りをまわる風習がある。子ども達にとって夏休みに入っての最初の行事であり、日の暮れるのを待てずに手に線香と大きな紙袋を持って地蔵堂や各家庭の人形飾りをお参りする。お参りされた所では子供たちにお菓子や花火などがふるまわれる。
戦前までは箱崎の町全体で行われていたが、現在では網屋町周辺でわずかにその面影を残すのみとなっていたのを平成8年に箱崎校区青少年育成連合会により網屋町の中心にある網屋天神社境内に人形を集め、この場を「核」として人形飾りを開催してから年々盛大になってきており、箱崎漁協や地元町内が全面的に協力していただいていることも成功の要因と考えられる。
人形飾りが年々盛りあがってきたことは喜ばしいかぎりですが、その反面人形を飾っていただいている各家庭での経費の増大は大きな問題です。人形も販売されておりませんので新たな人形を作って発売することも必要です。一番大切なことは人形を飾る家庭を増やすことです。今後とも御協力をお願い申し上げます。
何はともあれ、この人形飾りを箱崎伝統文化保存会が開催することになったことは素晴らしいことです。箱崎の地に残るこの人形飾りを箱崎校区住民全体で守り育てていきましょう。
◎地蔵祭りの由来
地蔵祭りの由来は、今から600年以上も前、多々良川合戦(足利尊氏と菊池武敏の戦い)で激戦地となったときの戦没者を弔うために始まったというのが起源といわれています。
また網屋(箱崎の漁師町)では戦死者や漁における遭難者の霊の供養と、お地蔵様が子供の守り神であるので我が子や孫の無病息災を祈願した祭りと考えられます。
◎人形飾り
地蔵祭りに人形を飾る風習ができたのは、江戸時代に博多人形の出現からと考えられる。日清日露の戦闘人形、忠臣蔵の討ち入りや牛若丸と弁慶、桃太郎・金太郎・浦島太郎の昔話の人形等も多数あった。
博多には「いけどうろう」と言う同種の行事が有名です。戦前までは、お盆の供養行事で盛大に行われていましたが戦災で焼失し、現在では残っておりません。箱崎の人形飾りも博多のいけどうろうを写した行事と考えられる。
筥松の原田地区でも箱崎同様に行なわれています。 他には、前原市加布里町の「二十六夜様」で同じように人形を飾る行事が残っているが、古い人形はほとんど消失している。
◎いけどうろう
博多では、庭園・山水などを模して作る箱庭のことを「いけどうろう」といった。
博多の「いけどうろう」は、お盆の供養として戦前まで盛んに行なわれていましたが、博多大空襲と町の都市化でほとんどなくなっていると聞きます。
故 「西島 伊三雄」先生が、箱崎の人形飾りを毎年楽しみにお見えてになっていましたが 「博多にのうなっとうもんが箱崎には残っとうバイ」と嬉しそうにおしゃっておられました。




河童の宴会 野球人形 狐の宴会







割烹 梅嘉 様(網屋立筋) 小森与一郎 様(茶屋小路) 山崎愛子 様(御茶屋跡)



大 絵 燈 篭
7月15日、恵比寿祭(漁祭り)にて行われていた網屋恵比寿神社の大祭で、箱崎網屋町の漁師の祭りである。この日は休漁として夜になると網屋立筋・網屋本町・御茶屋跡・白浜町・新屋敷の各路地に大絵灯篭が飾りつけられ、各家の玄関先には御献灯の灯篭が灯った。昭和40年代まで盛大に行われていたが、各町の大絵灯篭は路地の舗装により飾りつけが困難になり、筥崎宮に寄進され放生会のおり絵馬堂に展示されている。
博多大浜町の「流潅頂」とほぼ同じ祭りで、流潅頂は地獄絵の仏教的な絵に対し、箱崎の大絵灯篭は武者絵がほとんどである。現在では、箱崎漁業協同組合の御好意で人形飾りに併せて一部飾りつけられている。ただ、絵の傷みが進んでおり裏打ちなどして修復する必要がある。
◎大絵燈篭の由来(筥崎宮説明板より)
昔、箱崎の網屋の町内に疫病が大流行し多くの人々が亡くなりました。その後、供養と疫病退散を祈念して旧暦の6月15日に網屋町内一帯に武者の大絵燈篭を掲げた。これを町内の人々は潅頂とか施餓鬼と呼び親しんでいましたが、時代の変遷により継続が困難となり、昭和30年代に本宮に奉納されました。



幕 出 し
稿 古田鷹治(下社家町)
◎幕出しと幕出
博多町人文化連盟の復活行事、放生会の「幕出し」も、歳月を重ね、すっかり定着した感じがする。
いつだったか、田村筥崎宮宮司とお会いした折「幕出し」は「まくだし」か「まくで」か、どちらが正しい呼び方か調べておいて欲しい、と依頼された。同文化連盟が「幕出し」を始めたところ、宮司のところに、地元の二三の古老から「自分たちは小さいころ“まくで”と言っていたが‥‥」という問い合わせがあったそうだ。
そう言えば私の父も、少年時代友達を誘って「浜の“まくで”ば見げいこうや」と言って箱崎浜に遊びに行った、と言うことを聞いたことがある。
最近、機会があって博多に詳しい郷土史家の「波多江五兵衛」先輩に、このことを尋ねた。先輩の話では博多ではやはり「まくだし」と言っていたということだった。収納箱にも「幕出し」用と書いてあったそうだ。とすれば「まくで」と呼んでいたのはだれであろうか、私は箱崎の人たちとみる。
つまり博多の人にとっては、長持ちをかついで行くのだから「まくだし」能動的響きがある。これに対し筥崎宮の地元箱崎の人は迎え入れる側で、受動的と言える。博多から大挙してやってきて騒ぐのを、地元の人は面白がって見物する。その人たちが受動的に「まくで」と呼んでも不思議ではない。

結局「幕出し」も「幕出」も立場によって呼び方が異なるだけで、どちらも誤りではないと思う。白砂青松の箱崎松原に、博多から繰り出す一大レクリェーションが「幕出し」。ご婦人方は放生会着物で着飾り、老若男女、三味、太鼓で飲めや歌えやの幕の内。地元箱崎・馬出の子供たちは「幕出」が来るのを、見世物小屋が建つのと同じように待ちわび、大賑わいのあちこちの幕を覗き込んで、はしゃぎ回っていたのだろう。「幕出し」を心ゆくまで楽しみ「幕出」を心待ちにしていた明治・大正の博多・箱崎の平和な秋の一コマに思いをはせる。
ここはナーエー、ここは箱崎よ、ヤロヤロ‥博多長持唄とやってくる行列は、豊穣(ほうじょう)の秋にふさわしい風物詩であっただろう。
筥崎放生会と幕出し
博多の三大祭りといえば、博多ドンタク、博多山笠、そして筥崎放生会である。どんたくがこのところ大いに賑わって、五月のゴールデンウィークにおける日本最高の人出を恣いままにしている。また博多総鎮守櫛田神社の博多山笠も、豪華絢爛の飾り山と、男の祭典らしく勇壮な舁き山、追い山で700年の伝統を誇っている。そして今一つ秋の訪れを告げる筥崎宮放生会である。私は代々箱崎の生まれ育ちであるが、それだけに放生会には人一倍の愛着と郷愁がある。
周知のとおり放生会は、毎年9月12日から18日の一週間、筥崎宮並びにその周辺で繰り展げられる祭りで、筑前地方における秋祭りのトップである。放生会とは、殺生を戒めるために生物を活かし放つ仏教習俗で、その起源は古い。筥崎宮の創建は延長元年(923)である。穂波郡(現嘉穂郡)大分宮から箱崎の地に遷座されたものである。放生会はそれよりさらに4年前に始まったと「健仁寺塔中如是院年代記」は伝える。今から1072前のことである。私たちの先人たちが営々と守り伝えてきたこの放生会も、明治元年の維新のあと、廃仏棄釈によって仏教的な放生会行事が禁じられ、祭りの名称も放生会ではなくなった。筥崎宮での正式な祭りの名は“仲秋祭”というようになったのであるが、博多・箱崎で仲秋祭と呼ぶものはまずいない。
◎博多長持唄 解説
元唄は箱根の篭舁き歌、参勤交代の大名が箱根越えをするとき、荷を常駐の人足では運びきれないため、助郷といって近在の若者が臨時に呼び出される。しかし、この若者たちは日常荷運びに馴れていないため、歌を唄って調子をとらせ小休止をとらせる。これが長持唄である。この歌は明るく調子がいいので参勤交代で聞いた武士たちが、それぞれの国で唄っていたのがその土地に定着し、『嫁入道中唄』『座敷歌』などになった。博多にこの歌が入ってきたのは明治中期といわれる。小田原から博多にきて魚屋をしていた人が酔って唄ったのがはじまり。
博多の長持唄が箱根のものとフシが全く同じなのは、次のようなことから。日本各地で唄われる長持唄は、嫁入道具入りの長持ちを担いで嫁に行くときの道中唄だが、博多の長持歌は筥崎八幡宮の秋祭り放生会の幕出しをするときに、その炊事用具や食器を入れた長持ちを担いでゆく道中歌である。
幕出しとは筥崎宮前の松原に、思い思いの幕を張りめぐらせ、中で御馳走を食べ、飲めや歌えの大さわぎをする。いわば博多っ子の秋のレクリェーション。お宮の前の沿道には今も露天や見世物小屋が延べ1q前後並び、その数はゆうに3百を越えていたが、現在は松原がなくなりすたれた。
また、放生会は博多の女性が年に一度、主人や父親に着物の新調をねだっていいとされていたため、博多の呉服屋さんは年間売上げの大部分を「放生会着物」でさばいていたという。
なお、この長持唄は、行くときやや早めに、帰りはゆっくりと唄い方が違っていた。



博 多 仁 和 加
稿 古田鷹治(下社家町)
◎博多仁和加と箱善組 
筑前地方には、博多を中心に仁和加という素晴らしい伝統芸能がある。これが博多仁和加と呼ばれるもので、江戸時代から博多に伝わる大衆芸能で、独特の半面をかぶり当意即妙の博多ことばのやりとりや、滑稽なしぐさで時の政治や世相を鋭く風刺し、軽妙な落しで結ぶものである。
箱崎には「箱善組」という立派な博多仁和加の組があって明治30年ごろ結成された。この初代「箱善組」は明治中期、時の町会議員(明治22年に箱崎町誕生。当時糟屋郡唯一の町)、大店の大将、地区のリーダー格などで結成され活動した。
戦時中一時中断していたが、戦後も社会情勢の安定とともに町民のなかより仁和加復活の機運も興り、有志によって活動が再開された。初め「笑栄会」といっていたが、三代目「箱善組」となって現在10名足らずで活動しているが、高齢化時代の例にもれず座員の年齢も高い。そのため現在、後継者育成やゆとりユーモアの涵養のため、箱崎小学校のクラブ活動や成人の仁和加同好会で指導育成にあたっている。
町の敬老会や夏祭りなど地区行事にも参加しているが、何といっても「箱善組」は歴代段もの(芝居仕立て)を得意としている。



乙 子 様 (お籠り)
本年、昔懐かしい乙子様(お籠り)行事を復活しました。
昭和30年代まで各町内で行なわれていた乙子様(お籠り)は、我々戦後生まれの団塊の世代に育った者にとって、美味しいものが食べられて町内の子ども達と遊べる最高の行事でした。他には放生会・提灯灯し・人形飾り等、楽しみにしていた行事です。
本年、この乙子様(お籠り)の行事を5月21日(土)午後3時より筥崎宮東末社にて筥崎宮のご協力により、子ども30名・大人の方も30名程の参加があり、当保存会にて数十年ぶりに復活して開催致しました。
東末社の乙子宮(おとごきゅう)にて神官のお祓いの後、子供たちの健やかな成長を願って箱崎小学校「手嶋俊明」校長と子ども代表により玉ぐしが奉納され、副会長「古田鷹治」氏より乙子様についての解説では、乙子宮は筥崎宮のご祭神である応神天皇のお子「仁徳天皇」の弟君で「菟道稚郎子皇子」( ウジノワキノイラツコノミコ)を祀ってありますとの説明に聞き入りました。
また、箱崎食生活改善推進協議会より卵焼きやガメ煮・筍・ピースご飯等の季節料理が用意され、子ども達が美味しそうにいただいていました。大人の方も昔懐かしい三角錐形のおにぎりを味わっていました。
筥崎宮東末社中央 乙子宮
箱崎まちづくり協議会の"箱崎四方山話"より 稿 古田鷹治(下社家町)
箱崎に住む年配の者にとっては、「乙子様」の名は、日常の会話の中にも、子どものころの懐かしい想い出の一つとしてよく話題に出る。
「乙子様」とは、筥崎宮境内東末社の中央に祀られている子どもの神様 乙子宮のことである。五月二十七日の海戦記念日や、九月十五日の放生会大祭の夕刻、「乙子様」の前庭や廻廊に思い思いにゴザなど敷き、弁当を神前に供え、お参りのあと、家族打ち揃って食事を頂戴する。周囲には近所や箱崎内輪の知り合いでいっぱいである。薄暗いが灯明のローソクの灯りが幻想的である。
春などにはお籠りもある。飽食、美食の今日からみれば、とくにご馳走というほどでもないが、しかし季節のものがいっぱい重箱に詰められていた。これがまた食べざかりの子どもには、とに角 美味かった。ピースご飯、タケノコ、フキ、ツワ、ササゲ、レンコン、サトイモ、等々、これに玉子焼、糸ゴンニャク、カマボコといった類が重箱を飾った。
乙子様をいつまでも懐かしく思うのはみんなで食べる旬の弁当が楽しかったためでもあろうが、或いはそのあと親たちに手を引かれて浜の露店めぐりが楽しかったためでもあろうか。
乙子宮について筥崎宮 田村権宮司に伺ったところでは、乙子宮は筥崎宮ご祭神応神天皇のお子仁徳天皇の弟君で菟道稚郎子皇子( ウジノワキノイラツコノミコ)というお方をお祀りされている。応神帝もよく可愛がられたそうであるが、生来 徳を備えられた聡明な方であったという。百済からの学者 王仁から直接教育も受けられた由であるがとくに重要なことは兄 仁徳天皇を心広ろく優しいお心をもって、一歩下がって常に立てられたことであるという。
子どもの神様といわれる所以は菟道稚郎子皇子のように、心優しく思いやりのある身体強健な子どもに育って欲しいとの願いからであろう。



筥崎宮伶人座箱崎組
筥崎宮には、箱崎組・馬出上組・馬出下組の伶人座が3座あり、放生会の御神興や筥崎宮祭典のおりに奏楽奉仕を行っております。
現在、箱崎組では高校生から60才代まで幅広い年齢層の中で女性も含めて24名の会員が在籍し、笙・篳篥・龍笛の管楽器、琴・琵琶の弦楽器、太鼓・鉦鼓・鞨鼓の打楽器等で心に響く美しく重なり合う演奏を目指して、毎月一週間ほど筥崎宮社務所にて練習を行っています。

保存会が開催する箱崎伝統文化公演会では、地域の方々に雅楽の演奏をご披露いたしております。


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