箱崎人形飾り

保存会 調査研究部会にて平成15年度の各家庭の人形飾りの状況を調査しマップとしてまとめました。
平成8年に箱崎校区青少年育成連合会 主催により人形飾りをはじめた当初、各家庭の人形飾りは15軒程度でしたが現在40軒近くまで増えてきています。
各家庭の皆様のご協力に心より感謝申上げます。



箱崎の夏を彩る祭り“箱崎人形飾り”

各家庭の人形飾り

古田鷹治 様(下社家町) 戸部田 巌 様(本場場町) 中村文具店 様
(茶屋小路)
明石政七 様(茶屋小路)
永野廣志 様(茶屋小路) 山崎正人 様(御茶屋跡) 山崎義正 様(御茶屋跡) 長尾久義 様(網屋立筋)
明石正二郎 様(網屋立筋) 藤野久江 様(白浜町) 藤野 至 様(新屋敷) 山本タバコ店 様(汐井町2)

ご寄贈いただいた人形

桃太郎 鬼退治
寄贈 ; 九州電力東福岡営業所
製作 ; 博多人形師 「山村延Y」様
箱崎と福岡市
寄贈 ; 箱崎校区自治会連合会
製作 ; 博多人形師 「高野幸博」様
箱 崎 浦
寄贈 ; 長生園人形教室
指導 ; 博多人形師 「稲富昭満」様
赤穂浪士討入り 永代橋凱旋の場
寄贈 ; 長生園人形教室
指導 ; 博多人形師 「稲富昭満」様


参考資料

箱崎の人形飾り

稿 古田鷹治(下社家町)

箱崎には「人形飾り」という子供の地蔵祭りがある。お地蔵様の縁日に因み、7月23日・24日の両日、子供たちの無病息災を祈って、海門戸でも、本町でも、今福の通りも、阿多田の街も、箱崎の各家々では人形を飾る習わしがある。
博多には「いけどうろう」といって、同種の行事があっていたが、これは盆の祖先の御霊迎え行事の一環であったようで、8月13日から18日の間にかけて行われた。博多のいけどうろうも、箱崎の人形飾りも、実施の時期を除いては、殆ど同じような形態である。ただ博多のいけどうろうが、太平洋戦争を境に消えていったのに対し、戦災を免れた箱崎の人形飾りは、戦前から今日まで絶えることなく続いている。しかし戦前までのような
大規模なものではなく、まことに細々とである。それは一つには、飾る人形を作るひねり人形の職人芸がなくなったことが最大の原因であろうが、街並や家の造りなどが変わったことにも、多少の原因があるように思われる。
箱崎の中でも比較的纏った形で、今日まで続いているのは網屋地区である。ここは浦分で、いわゆる漁師町である。箱崎網屋(現箱崎二丁目内)には、竪筋、本町、新屋敷、天神、上の番と、五つのお地蔵様が祀られていて、ご縁日の7月23日・24日には、お地蔵さまの世話人が、竪筋の網屋地蔵大菩薩に集り、詣ってくる子供たちに菓子などを配り、祭りを盛りたてている。
箱崎の人形飾りは、地区によりいろいろの言い伝えがあるが、網屋の古老から聞いたところでは、ここでは宗教性が強く、言い伝えによると、多田良川合戦のあと、正平11年(1356年)2月、追われて落ちのびた菊池能登守、同播磨守の霊を弔うためというのであるが、一説には、箱崎浜での遭難者の霊を供養するためのものともいわれている。
箱崎の原田地区も、昔からなかなか盛んであった。昨年(昭和57年)地域の人々が話し合って、原田地区全体で人形飾り復活の第一歩を踏み出した。「藤下 勝」町世話人はじめ、町会役員や、人形師「多田利治」氏の指導もあって、子供たちに人形をひねらせ、窯で焼いて着色、時間をかけてやっただけあって、見事な出来栄えの人形が数多く出来上がった。復活行事はそれぞれの努力が結集され、地域の連帯を深め、大成功であった。広場に飾られた人形の前の立札には、その起源を原田町人形飾りの由来として「建武3年3月2日(1336年)
今からおよそ650年前、多田良川合戦にて、足利尊氏と菊池武敏との戦いは、足利勢が勝利を収めたが、現在の浜田と原田の線に横たわる須恵川(原田川)のほとりの丘は、激戦の地となり、両軍の戦死者でいっぱいだったと言う。そこで、原田先住の人達が、多田良川及び須恵川の石を、家に持ち帰り、毎年7月23日・24日の二日間、子供達は自分の家の門口に、思い思いの箱庭に人形を飾り、戦死者の霊を慰めていたと伝えられている」と説明している。何れにしても、合戦による戦死者や遭難者の霊の供養と、お地蔵さまが子供の守り神であるので、その無病息災を祈願することと習合した祭りと思われる。
 人形飾りになると網屋の各家では、それぞれのお地蔵様の境内にある地蔵石を借りてくる。そして、その石を中心にして人形を飾りつけるしきたりがある。縁日が済めば、石は再び元の境内の返し納められる。私の生れ育った社家町(現箱崎一丁目内)では、地蔵石は、日頃はそれぞれの家の大黒柱附近の床の下に置いてあって、祭りになるとここから取り出し、同じように祀り飾る。ひねり人形とは、かって博多人形師たちが余暇を利用して、即興的に巧まずひねり造った素焼きの人形で、泥絵の具が使ってある。単純であるだけに、まことに素朴な土の香りのする人形である。私が小さいときから飾っていた、赤べこかいたクマやイノシシの人形が先年まであったのだが、どこに仕舞ったのかどうしても見つからない。残念である。その人形の表情が素晴らしく懐かしい。私は現在でも、昔からの人形の少し欠けたのやらを飾っているが、楽しいものである。盛んであった戦前の頃を想い起こしてみよう。
 7月23日・24日は人形飾り。子供たちはこの日を夏休み前から指折り数えて待っている。子供らは箱崎浜や郷口川(宇美川)に行って美しい砂を採ってくる。時には地蔵松原や九大横の砂地から、いわゆる銀砂を掘ってきて使うこともある。飾りつけは家によって多少違うが、トロ箱などを使って箱庭のようにするところもあるし、農家も多かったから土間一面に、広々と飾ることもあった。子供たちもあれこれ知恵を絞るが、子供たちばかりでなく大人も一肌脱いで、石や苔や草などをあしらい、時には雪に見立てて石灰などを使っていろいろと工夫する。水人形とするところもあるが、ご本尊のお地蔵さまの石を中心に川を必ずつくる。主体はお宮の祠や鳥居、灯篭などであるが、民家とか橋は必ず飾るようである。きつねの酒盛りの場面や、忠臣蔵の討ち入りや清水一角の活躍の見せ場、岩見重太郎のヒヒ退治、亀に乗る浦島太郎もあって楽しい。しかし時代が反映するもののようで、私たちの子供の頃は戦争ものが多く、日本の兵隊は勇ましく突進し、相手は逃げ腰ポーズの人形が普通であった。旗は見方は○、敵軍は×で単純に区別され、肉弾三勇士があったり、タンクや大砲もあって、敵の城壁の炸裂するのもあった。細工して飛行機を糸で吊るしたりしたこともある。毎年同じものを飾るので、足や手がとれて針金が出てしまったのやらを、うまく飾っていた。後の方では、野球選手やボートの選手の人形も出て来たように思う。人形は本通りにあった井上人形屋(「井上行義」氏、山笠際物第一人者、伝統工芸師)に買いに行っていた。
子供たちは、昼頃から砂にまみれて懸命に飾りつける。飾り終わると、お地蔵さまには親が桃やちぎりたてのトマトなど、お供えものを上げてくれる。蟻が甘味につられて列を作って這いのぼることもある。夏の日は長い。夕暮れになるのを、子供たちは心待ちしている。燃えるような大きな夕日が博多湾上はるかに沈むと、小ざっぱりした浴衣を着た子供たちは、下駄をカタコト鳴らして、男の子も女の子も、手に手に線香を持って、二・三人連れだっては、玄関先や軒下に飾ってある各家のお地蔵さまと、人形にお詣りに出かける。それぞれ線香を上げて廻るのだが、先にいっぱい立ててあるので仲々立てづらい。子供たちは小さな手を合わせて、何やら無心に祈っている。あちこちと狭い路地を子供たちが激しく行き交い、暗い夜の帷の中に、線香の光だけがゆっくりと、様々の模様を画いて、幾条も幾十条にも流れて行く。線香の匂いが街中に漂う。煙いくらいのときもある。大人たちは道にバンコを出して、団扇でパタパタと蚊を追いやりながら、将棋などを指している。打ち水が涼風を運び、夏の夜の星が降るように美しく輝いている。腕白坊主が、ガンドウをふりかざして、夜の更けるまで走り廻る。平和な夏の夜である。私たちの子供の頃の人形飾りは、ほんとうに楽しく嬉しかった。それは夏休みに入って直ぐでもあるし、あと40日も休みがあるという気持ちが強く働くのか、解放感とともに、こみあげる喜びを感じ得なかった。あの頃は、まさに平和なよき時代であった。
なお、隣接の馬出、白山権現社でも、7月23日・24日、お堂に子供たちが篭もり、境内裏に大規模に人形を飾り、今日でもお祭りが行われている。 (昭和58年 著)


博多のいけどうろう


本年(平成17年度)の人形飾りは、7月23日(土) ・24日(日) 網屋天満宮境内を核として盛大に開催されました。
博多まち家ふるさと館 館長「長谷川法世」様の他、博多町人文化連盟より多数の方々や筥松 ・松島地区からも見学に見えられ、箱崎の夏の風物詩を感じていただきました。
箱崎人形飾りは、自治会・公民館をはじめ青育連・体協・子育連・PTA・交通安全協会・消防分団など箱崎校区諸団体のバックアップにて開催できております。関係各位のご支援・ご協力に厚く御礼申上げます。


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