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《 改訂版 》 【 交響曲 第3番 ニ短調 】 「詩と音の芸術の前人未到の世界的に著名なすぐれた大家である、 ワーグナー閣下に、深甚な敬意をもって 「交響曲第3番ニ短調」を捧呈いたします。」 これは、ブルックナーがこの曲をワーグナーに献呈するために 日記に書いた草案の文面である。 ワーグナーは、出来上がった楽譜を受け取り、詳細に検討した結果、 この申し出を受託することにし、その後終生、この交響曲の 総譜を読むのを楽しみにしていたという。 特に、第1楽章の冒頭のトランペットの動機がワーグナーを非常に 喜ばせたといわれ、ワーグナーの家ではブルックナーに「トランペットの ブルックナー」という、あだ名さえつけたといわれる。 ワーグナーを喜ばせた理由は、ブルックナーの交響曲の特徴である 宗教性、自然的情緒が、ワーグナーの愛好したベートーベンの 「交響曲第6番」(田園)や、「交響曲第9番」(合唱)に 共通するものをもっていたこともあるようだ。 ブルックナーの作品は何度も改定をしているが、この交響曲も 3回の改補の後、改訂版の初演は、作曲してから17年後の 12月21日にウィーンで行われた。 世を去る6年前で、彼は66歳になっていた。 《 黄昏どき 》 【 交響曲 第4番「ロマンティック」】 ブルックナーの音楽が世人に認められ、その名声が内外に高まったのは、 60代に入ってからだった。 人生の黄昏どきともいえる時期に入って、あたかも落日が壮大な残照を 残すかのように、すばらしい傑作を生み出している。 30歳を過ぎてから和声楽、体位法、管弦楽法、楽式論といった作曲理論を 本格的に学んでいるが、音楽史のなかで珍しい存在だといわれている。 彼は敬虔なカトリック信者で、子供のような純真な心情をもっていて、 物質生活は質素で、まったく世俗を超越した芸術生活を送っていた。 ブルックナーの交響曲は9曲あるが、最後の輝きとなった第9番は、 終楽章(第4楽章)を完成させることなく、72歳の生涯を閉じた。 50歳の 時に作曲した「ロマンティック」は、ロマンにみちた ドイツの森の気分を表現したものと説明され、9つの交響曲中 最も有名なもので、私も好きな交響曲だ。 《 癒しの音楽 》 【 交響曲 第4番 変ホ長調「ロマンティック」】 どこにも行かなかった夏を癒すなら深い森へ誘うブルックナー第4番がいい・・・ ある雑誌に書かれたヴァイオリニストの千住真理子さんの見出しに誘われて、 再登場の「ロマンティック」となった。 ブルックナーの交響曲は9曲あるが、ほとんど1時間以上もある大曲ばかりで、 第4番も60分テープには収まりきれない。 彼の交響曲総譜には、原譜と改作譜がある。 改作譜は、あまりに長い演奏を聴かなければならない聴衆のために、 彼の弟子レーヴェが編んだものだが、しだいに原譜による演奏が おこなわれるようになったようだ。 「ロマンティック」という名称は、作曲者自身が命名したもので、 ロマンに満ちたドイツの深い森の中から鳥の声や狩りの角笛も聞こえてくる。 ゆっくり歩きながら深呼吸をし、森の空気を吸ってみよう。 秋の初め、夏の疲れをとりたい方や夏に都会を離れられなかった人に ブルックナー第4番が、かなり良い。 《 出世作 》 【 交響曲 第7番 ホ長調 】 第7番は、ドイツでブルックナーを有名にした曲で、 巨匠の全ての交響曲が認められる原動力となった。 彼の出世作であり、作品中の最高峰に位するものといわれている。 彼は、60歳にして初めて交響曲作家としての地位を得ることが できたが、真価を認められたのは、疲れた目を静かに閉じてから、 20年もたった第一次世界大戦後のことだった。 「非常に荘厳にかつ緩徐に」と指定された第2楽章はこの交響曲中で 最も有名な楽章であるが、ワーグナーの病気と死とから生まれたものである。 この楽章は、1883年1月22日から4月21日の間の書かれたが、 ワーグナーは1882年夏頃から病弱となり、 翌年の2月13日に世を去っている。 「私は家に帰ったが、非常に悲しかった。巨匠がもう長く生きることは不可能 だと思ったからである。だから嬰ハ短調のアダージョ楽章を思いついた」 と手紙に書いているが、完成したのはワーグナーの死後だった。 テューバの敬けんな葬送曲が悲し気だ。 《 教会音楽家 》 【 交響曲 第8番 ハ短調 】 ブルックナーは、十九世紀後半の最大の教会音楽家として有名だが、 最近では最大の交響曲作家として評価されるようになった。 彼は厳しく熱心なカトリック教徒として、生涯独身で通した。 若いときは、教師だった父と同じ職業を選び、 学校に勤めながら音楽の勉強をした。 教師の生活を捨てて、音楽家として立つことを決心したときは、 32歳になっていた。 リンツの教会のオルガン奏者から、ウィーンの宮廷オルガン奏者、 音楽院の教授となったが、作曲した作品が認められるようになったのは、 60代に入ってからだった。 交響曲第8番は63歳のときに完成したが、指揮者の友人や最も親しい 芸術上の友人たちも、口を揃えて改作を要求した。 この結果、ブルックナーはそれまでの激しい創作力を失い、自己批判的になり、 神経衰弱気味になってしまい、自殺の考えさえ抱くようになった。 しかし、その後精神力で立ち直り、補筆をし、完成させて5年後の 12月18日に初演され、かなりの成功だったといわれる。 旋律の動きの美しさは、ブルックナー自身も気に入っていたようで、 自作の交響曲の中で、最も美しいものと考えていたという。 《 最後の輝き 》 【 交響曲 第9番 ニ短調 】 ブルックナーは交響曲を9曲書いたが、 第1番を完成させたは42歳のときだった。 最後の輝きとなった第9番は、終楽章(第4楽章)を完成させることなく、 72歳の生涯を閉じた。 初演は、ブルックナーの死後7年経ってからだった。 彼の交響曲は、ベートーベンに範を求めた形式感と、オルガンを 想わせるような響きの分厚さ、そして宗教的なたたずまいをもっている。 彼が13歳のときに病気で亡くなった父親は教師で、若いときは父と 同じ職業を選び、学校に勤めながら音楽の勉強をした。 教会音楽家として活躍したブルックナーは、厳しく熱心な カトリック教徒として、生涯独身で通した。 68歳のときにウィーンの宮廷オルガン奏者を、70歳のときに 音楽院の教授を退職していたが、オーストリア皇帝からたまわった、 ウィーンのシェーンブルンの家で永遠の眠りについたのは、 1896年10月11日のことだった。 葬儀はウィーンの全市民層の参加による盛大なものになった。 最大の交響曲作家として評価されるようになったのはブルックナーの死後 20年もたった、第一次世界大戦後のことだった。