秋月種実


  貝原益軒の書くところでは、秋月氏の祖について、「漢高祖」の末孫にて「原田」「高橋」「江上」
 「秋月」は兄弟としている。
 一男「原田」、二男「秋月」、三男「江上」、四男「高橋」とある。 また「秋月」の起こりについて、
 その祖は、後漢の献帝十五代の末孫「阿多倍王」なる者が日本に帰化し、播磨国明石の近所 「大暗谷
 (おおくらや)、大蔵、大倉」と云う所に着き、「大暗谷氏」と号して代々相続してきた。とある。
 ある時、「天子(天皇)」が明石の月を御覧になるための行幸があった。そのとき大暗谷氏もお供した。
 そのおり、「明石」の近辺には「大暗谷」と云う「名字」は相応しくない、「秋月」とせよと仰せられ
 た。以来、代々「秋月」と号し、その後筑前国に来てからも、所の地名も{秋月」としたとある。
 以上は筑前国続風土記の記載であるが、秋月氏の祖が渡来帰化人であったことは間違いないと思われる。

 こんにち「秋月氏」の祖について通説となっているのは、天慶4年の「藤原純友」の乱にてこれを討伐
 した「大蔵春実」がその恩賞として九州筑前原田に所領を得て土着し、地名原田郷より九州大蔵氏系の
 「原田氏」を号するようになったと言う。その後、「春実」より数えて系図上のつながりは、はっきり
 としないが(七代後・種成の子)「原田種雄」が原田氏より分れ「秋月氏」の姓祖とされている。
 原田、秋月、高橋を以って、九州大蔵氏系三大豪族と呼んだ。

  時代は下って、戦国時代秋月氏は中国大内氏に従っていた。
 天文15年(1546)秋月氏十五代「文種」は豊後の大友氏に反旗、これに大友義鑑は友三老とも称される、
 戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理。これに佐伯、朽網、一万田、志賀など一万の軍勢で古処山の「文種」
 を攻める。
 古処山は、現朝倉市秋月の北、嘉麻市との市境に位置する標高859mの山城で戦国時代、秋月氏の本城
 であった。古処山は岩場多く険阻であるが、本城より下がった辺りに水船があり、1000人を養う湧水が
 あった。。秋月にある黒田五万石の城址にある「秋月黒門」は、古処山搦手門にあったものを移したも
 のと云う。        

 「秋月氏」は大内氏の滅んだ後、大友氏と通じたこともあったが、「毛利元就」が中国を掌握すると、
 毛利氏と通じ常に大友氏と対抗した。大友と元就との間には、中国は筑前には干渉しないと言う密約が
 あった。しかし元就の、味方すれば「筑前、豊前」を与えようという甘言に、「秋月文種」が呼応。
 弘治3年7月(1557)古処山で兵を挙げ、再び大友に対峙する。
 これに「大友義鎮」は
戸次鑑連を総大将に、高橋三河守、臼杵鑑速、田原親宏、志賀親度らの二万の
 大軍で古処山へ向かわせた。
 弘治3年7月7日より大友軍は古処山への攻撃開始、麓の邑城(さとじろ)落とし峰伝いに古処山本城へ
 と迫った。篭る秋月文種が手勢は二千余騎、古処山の岩場地形を利用したこの山城は、天嶮の要害で
 あったが多勢に無勢よく戦うも秋月勢の多くが討ち死。文種の嫡男「晴種」も戦死。古処山城は遂に
 落城「文種」は自刃する。
  この古処山の落城には、「小野九朗右衛門という者と、その従兄弟「和泉」と云う者が裏切って
 大友勢を城内に入れ、城が落城「文種」も討ったともいわれている。
 秋月の損害は、「坂田和泉」「桑原内膳」の老臣や侍大将含む、数百人が戦死し、秋月は壊滅した。
 しかし秋月にとって幸運であったのは、当時十三歳(九歳とした書もある)の「種実」(天文14年生
 まれだと13歳となる)ら三人の遺児は家臣「大橋豊後守」らに守られ、密かに中国「毛利」の許へ逃
 げ「庇護」された事である。「秋月文種」の死によってひとまず筑前を取り巻く情勢は混乱が収まる。
 この秋月攻めの功労に対し「大友義鎮」は「
戸次伯耆守(鑑連)」に領地の宛行状を送っている。
 永禄2年(1559)6月26日には「義鎮」は、豊前、筑前の守護となり、11月に九州探題となる。
 中国では、1555年「陶晴賢」を滅ぼした「毛利元就」が急速に力を蓄え、豊前筑前への干渉が際立っ
 てくる。この毛利の中で庇護されていた秋月種実は永禄2年には十五歳に成人していた。種実は元就
 の嫡男「隆元」と義兄弟の契りを結んでいたと云う。
 密かに旧臣と連絡を取り合っていた種実は、大友勢の秋月配備の手薄を突き、遂に秋月古処山に帰参
 する。(帰参の時期は。永禄2年、10年などあるが筆者は、高橋鑑種の大友へ反旗した永禄9年の前、
 永禄4年前後あたりと見る。仮に永禄4年とすれば、種実は十七歳、凛々しいの青年武将であった
 ことになる)帰参に当り毛利より兵二〜三千に軍資金八十貫が付けられた。
  
 秋月に帰参した「種実」は一気に力を蓄え、父「文種」の仇敵「大友氏」に対抗していく。その大友
 の先頭にあって常に対峙したのは「戸次鑑連」「高橋紹運」であった。
 「秋月種実」は若くして豊前、筑前、筑後を通して最強の武将となる。その所領は三国の大半を占め
 、三十万石を越えたと言う。
 「秋月種実」には名家「秋月」の血を引く以って生まれた「武将」としての器量を持ち合わせていた
 と思えるが。知将「毛利元就」の許で過ごし数年で学んだことが大きかったのではないか。

    
    秋月種実 墓所(串間市西方 西林院)   右「種実」中「五男 石見守種守」左
種実室」

 
 「種実」の墓は串間市西方「西林院」にある。寺名「西林院」は「種実」の戒名院号
  である。串間市西方は大変に広く西林院の場所は少し分り辛い。北部九州からは大変
  に遠い、凡そ見当つけて行ったがよい。運転で疲れた中での寺探しは大変。


 
    以下、その後の「秋月種実」「戸次鑑連」「高橋紹運」の関連を年表に整理する。

    元  号    西 暦         出  来  事
 永禄4年ごろ     1561  
 秋月種実、三千を率いて秋月に帰参
 永禄7年    1564  
 英彦山座主、秋月と同盟
 永禄10年9月3日
  (休松の戦い)
   1567  休松合戦、戸次鑑連率いる大友軍二万秋月攻め
 序戦、中盤と大友軍攻勢
 秋月一万二千で対抗。秋月勢損害大
 しかし、大友開陣の透き突き「種実」夜襲決行
 大友軍混乱。戸次軍、田尻軍被害甚大
 中でも、戸次鑑連の身内、弟鑑方含む五人戦死
 双方の決着はつかなかったが、大友、秋月共に
 損害は 大きかったと見られる
 このことは、後の種実の行動にも見て取れる
 
 永禄11年8月19日    1568  この年、
 立花鑑載の謀反が鎮圧され、毛利の立花城奪回
 が挫折。戸次鑑連、秋月激しく攻める。これにより
 種実、あっけなく降参。
 この種実の降参には、先年の休松の合戦における
 秋月勢の損害は意外と大きく、大友の力の大きさを
 感じていたともいわれる。

 このあと、筑前における大友の体制が確立する
 
 元亀元年5月    1570
 高橋鎮種(紹運)、豊満、岩屋城督となる
 元亀2年1月    1571
 戸次鑑連、立花城城督となる
 「道雪」と名乗る
 天正3年5月28日 ァ千代立花城城督となる
 天正6年11月11日    1578
 大友氏日向耳川の戦いに大敗
 大友氏に翳り
 この敗戦機に、筑前筑後での大友離れ顕著
 天正6年12月3日
  (柴田川合戦)
   1578
 秋月種実、筑紫連合、岩屋城高橋紹運攻める
 「柴田川合戦」 戸次道雪、高橋紹運は一旦退却
 深追いしてきた秋月種実軍を待ち伏せ攻撃
 秋月勢総崩れ敗走
 天正7年3月    1579
 高橋紹運、秋月、筑紫勢と二日市口で戦う
 秋月敗走。
 天正7年9月    1579  
 秋月、筑紫勢大宰府に出陣、立花勢と戦うも
 撃退される
 天正8年10月2日    1580  
 高橋旧臣「北原能登守鎮久、秋月に内応謀反
 企てるも紹運に誅伐されろ
 天正8年10月18日
  (蘆木山襲撃)
  (奈須美合戦)
   1580  
 紹運と父を切られた「北原進士兵衛」は、秋月の
 内田彦五郎を使い「父の敵を討つと」「種実」に
 策略しかけ、これにだまされた秋月勢、500あまりで
 岩屋城に出陣する。
 夜となったので一隊は、蘆木山と言うところに分散
 し陣を張る。これに進士兵衛h酒を振舞い。秋月勢
 の寝入った所を高橋勢襲い秋月惨事となる。

 この敗戦に、種実は弔い合戦とばかり一万二千もの
 軍勢を「奈須美」と云うところに繰り出し、豊満、岩屋
 を覗う。
 これに「道雪、紹運」の両将も奈須美に陣を進め両軍
 相乱れて戦う。しかし、紹運の知略に「綿貫」らが奮戦
 秋月勢は崩れ古処山へ引く
 天正9年7月    1581  秋月種実大宰府観音寺口へ押し出す
 天正9年8月18日    1581  「統虎」立花城へ婿養子
 天正9年11月6日
  (石坂の戦い
    統虎初陣)
   1581
 筑後における大友勢の秋月攻勢を支援する。
 戸次道雪高橋紹運の撹乱作戦
 両将は、六千の兵で嘉穂、穂波に打って出る
 八木山、石坂,大日寺あたりで秋月勢と衝突
 立花、高橋勢、秋月の首級760挙げる
 しかし、秋月の新手の投入で立花、高橋にも
 300の討死  
 この双方の戦死者葬った「千人塚」が八木山の
 残る

 この合戦に「戸次統虎」初陣。 秋月勢の中で
 武勇をもって知られる「堀江備前守」と組討ち
 これを討ち取る
 
 天正10年10月3日    1582   
 秋月種実、豊満城の米ノ山砦の手薄突き占拠
 するも、紹運直ちにこれを奪回
 天正13年正月    1585  種実 家督を「種長」に譲る
 天正13年10月    1585  種実「島津義久」に進言
 天正14年7月    1586  
 岩屋城落城。 高橋紹運自刃 39歳
 秋月勢は二手に分れ、一隊は日田方面の大友
 の押さえに。一隊は岩屋へ参陣したという
 天正15年4月4日    1587
 秋月種実「豊臣秀吉」に降伏
 伝家の秘法、茶碗「楢柴」米二千石、金百両献上。
 人質「娘16歳」
 筑前、筑後、豊前の所領返上


 秀吉に下った秋月種実、種長親子は家は、秀吉の
 国割りにより日向櫛間三万石へ
 種実は、飛び地櫛間城へ入り、種長が当時の財部城
 へ入る。
 後に整備し高鍋城と改名。
 秋月氏は、小藩ながら徳川の時代を生き抜き名門
 大蔵一族を守り通した
 「種実」は慶長元年伏見の屋敷で、波乱の生涯を
 終えたという。

 「宗像氏貞と並ぶ、永禄、天正期の筑前を代表する
  武将であった」 合掌
            
       法名: 「西林院殿笑翁宗ァ大居士」
 
  


                                参考資料   筑前国続風土記    貝原益軒 書
                                                筑前戦国史       吉永正春 著
                                                九州戦国の武将たち    同




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