大友悪逆之事

       
       「大友記」によれば、切支丹宗信仰へ傾注する「大友宗麟」へ、側近たちが豊後国多くの社寺神事の
      仔細について申し上げたことがあった。
      宗麟は静かにそれを聞き言葉を発した。「世の障りとなるような祭礼をいつまでも大切に守り執り行うこ
      とはない。何故取り止めないか、未来永劫に中止すべきである」と。
      是を聞いた側近たちは「古来より、豊作の時も凶作の時も滞ることなかった祭礼を、このまま長く廃止す
      れば、神はなんと思し召すであろうか」とおおいに心配した。
      しかし宗麟は「あらゆる佛神は、我が切支丹宗にとって魔宗である。然れば豊後国中の大寺、大社一宇
      残らず破却せよと
」命じたと伝えている。
      以下に記す事件は、「宗麟」が命じたか否かは判らないが「住吉大明神の炎上」「彦山焼き討ち」「万寿
      寺炎上」等は歴史上の事実である。
      
      「住吉大明神破却
      そしてまず「住吉大明神」の破却を「山森紹庵」へ命じた。紹庵は直ちに馳せ向かい社屋、玉躰を打ち崩
      したのであった。がその祟りであったか、紹庵は3日後には急死してしまったという。
      (住吉大明神とは、こんにち大分市住吉町にある住吉神社を指すと見られる。豊筑乱記には、御祭神は
      地神五代・鵜萱不合尊・とある。この神社は大友義鑑によって再建されたともいわれ、宗麟が破却を命じ
      たか俄かには信じがたい。また、豊筑乱記は義統は邪宗に傾かず、住吉大明神の焼き討ちを憂いたと
      伝えている。)

      「彦山焼き討ち
       天正九年秋(1581:豊筑乱記は天正四年のこととしている。また襲撃は宗麟の命となっている。)、
      「大友義統」は宗麟の切支丹入信に反目する彦山(日子山、英彦山)を襲撃する。発端は嗣子に恵まれ
      ない彦山座主に義統の弟を押し込もうとしたものであったが、秋月種実との関係をつよめていた彦山は
      義統の死者を惨殺する。(従来彦山は、豊前、豊後、筑前を支配下におく大友氏の監視下にあったが、
      大友氏の豊前、筑前の支配衰退と共に大友離れが顕著になっていた。)
      使者を殺された義統は激怒。彦山一山の宗徒行者が、秋月に与力すること許し難しと「清田阿波守鎮忠」 
      「上野権守鎮俊」を大将に、都合四千三百の兵を与え日田郡へ陣を進めた。
      清田、上野の両将は彦山へ使者送り、是までの如く大友旗下に降参せよと言い使わしたが、彦山よりの
      応答なく、遂に攻撃開始する。戦いは、別所、落合あたりを皮切りに、大友軍は盛んに鉄砲を撃ち掛け
      4千三百の軍が攻め上がった。
      彦山一山の宗徒三千余人も、皆々甲冑に身を固め太刀、鑓、弓を手に烈しく応戦したが、大友勢は生死
      構わず鉄砲撃ち掛け攻めあがった。大講堂を占拠した大友勢は一山の宗坊悉くに火を放った。これに
      より彦山は一宇も残らず炎上した。この状況において山伏二人声高に呼ばわり、大友七代までも怨霊と
      ならんと罵詈(ののしり)腹掻っ切り火中へ飛び込んだ。
      一ヶ月に及んだ大友の彦山襲撃は全山焼却、彦山は降参した。
      この「彦山焼き討ち」は、信長の「比叡山焼き討ち」とともに、戦国期の二大法難とされる。

      「万寿寺炎上
       「万寿寺」とは、元は今の大分市元町付近にあった大寺院で其の規模は六町〜八町(870m)四方の中
      に大伽藍が林立していたという。開基は徳治元年(1306)、大友五代「貞親」により「直翁和尚」を開祖と
      して開かれたとされる。三百町もの社領があった。大友氏の菩提寺でもあった。
      (現在の寺は、大分市金池町にある)  
      万寿寺焼き討ちの発端は二つあるとされる。
      一つには、宗麟、義統親子の切支丹入信にある。
      二つには、宗麟の近従「工藤帯刀」が狼藉をはたらき、万寿寺に潜んだ僧が是を渡さなかった。 とする。
      万寿寺は、度々戦火、火災にあっているが、義統の焼き討ちは天正十年(1582)のこととされるが、大友
      豊筑乱記では元亀元年二月二七日(1572)とある。
       襲撃の指揮を取ったのは「橋本五右衛門は佐竹」「清田因旛守」率いる二百余騎。橋本正竹は寺に向
      かうと山門より火を放った。おりしも辻風強く、たちまち「回廊、本堂、、常行堂」へと燃え広がり、往古より
      の三百余箇所の大伽藍は一瞬にして灰塵と化した。仏像、経論、聖教、は忽ちに煙として立ち上った。
      東堂、西堂の僧徒は皆迷い出て、行方知れずとなった。
      この万寿寺焼き討ちは、稀代の悪逆と世間の者たちは眉をひそめた。 しかしその焼き討ちの罰と思える
      奇怪な出来事が、大将の橋本正竹に身辺に現れた。
      正竹俄かに病に犯され、涼しい風に当たろうとすれどもその風は熱風のごとく、冷たい水を飲もうとしても
      沸き返る湯のごとくにして、高熱に耐え難くうなされ、助けよ叫び悶絶した。苦しむ正竹に看病の者に医者
      も近づかんとするが、正竹の辺り四、五間の中は燃え盛る炎の中のように熱く、看病に遂に近づける人は
      いなった。こうして発病して五日目「正竹」は悶えあがき死んでいった。
       
      「吉弘内蔵助悪逆之事
       「吉弘内蔵助」には、国中の佛神を薪にせよと、非道の仰せ付けがあった。内蔵助は山々在々を駆け巡
      り、佛神の尊容(そんよう:尊いお姿、即ち神形、仏像)を日々五駄十駄と集めては打ち割り薪となした。
      ある日内蔵助が、「阿弥陀観音釈迦如来」の尊容を取り集めて湯を沸かそうとした時、釜の中で鉄砲を放
      った時のような響きがあった。下人(下働き)ども驚き、このことを内蔵助に告げると、内蔵助「それは膠の
      焼ける音」といって少しも騒がなかった。ところが再び雷の程に動揺して、燃え指し一つ屋根の上に飛び
      あがり、おりしも魔風炎を吹き果て、猛火余煙既に十方全てを覆い尽くした。
      内蔵助あわてふためき逃げんとしたが逃げ場失い終に焼死した。七転八倒、女音呼喚大呼の声して焦死
      する有様は八大地獄の罪人が剣樹に貫かれ、猛火鉄湯に身を焦がす姿は、かくの如しかと思えるほどで
      あった。

         これらの社寺破却は、総て義鎮、義統親子のときである。このような親子の神仏への狼藉が、
         家臣団や民心の離脱に繋がった。


                                           参考資料    大友記
                                                     豊筑乱記
                                                     筑前戦国史

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