安楽平落城  筑前大友五城

      「安楽平城(あらひらじょう)」は中世戦国期、福岡市早良区「荒平山(395m)」に
      在った山城のことである。豊後大友氏筑前支配五城の一つでもある。
      当時は筑前国早良郡重留村に属していた。
      筑前国続風土記の記述より推測するに、大手口は北の重留村にあったと見られる。
      本丸は荒平山の頂上にあって、二の丸は西の一段低いと所にあったようだ。
      東の油山との谷を大谷と呼び、広い谷下を城の原と呼んだ。続風土記では荒平山とは、
      峰部分を指すのではなく広がる麓全体を指すとしている。
      麓には「小笠木、脇山、内野、東入部、重留」らの五村が在った。
      「安楽平城」が大友氏の早良支配の拠点となったのは、天文22年「小田部民部少輔鎮通
      入道(法名:紹叱)」が入城してからである。名前については鎮元、鎮道とするものも
      あり。また官職も、筑前国続風土記では、民部大輔とある。
      以後「安楽平城」は「柑子岳城」と共に、大友の筑前西部統治の重要な城の一つとなる。
      この安楽平城も天正期に至り転機をむかえる。
      元亀元年8月「今山合戦」、さらに天正6年11月「耳川合戦」と雌雄を決する主要な戦い
      で豊後大友氏が大敗すると、これまで大友氏に従ってきた、筑前筑後の国人領主たちの
      大友離れが顕著となる。
      高祖城の「原田弾正了栄」は、天正2年父「親種」の自殺により、一旦は苦境に陥るが、
      嫡男は優れた武将で原田を再興、肥前「竜造寺」と結び安楽平への干渉を強めていく。
      天正7年4月18日には、安楽平攻撃にはいったが、安楽平「小田部民部少輔」も城兵

      り出し防戦、安楽平城は落ちなかった。
      天正7年秋、肥前国「竜造寺隆信」は二万騎を率いて筑後勢を従え肥後へ出陣した。肥前
      佐賀では留守を任された「隆信」の三男「江上下総守家種」自分も手柄働きしたいと、
      筑前高祖城「原田弾正入道了栄」と謀り「安楽平城」攻めを決意。
      肥前勢は「執行越前守種兼」を大将に、神代対馬、同弾正。曲淵河内守を従え、其の勢
      都合五千余騎。国境の、三瀬峠、小爪、椎原峠越え「背振」の北麓に陣を敷いた。
      竜造寺勢は、城下に悉く火を放ち方々を焼き払った。是に小田部民部少輔は怒り心頭で
      あったが、そこは多勢に無勢、安楽平城の備えを固めて籠った。
      「小田部民部少輔」には一つの読みがあった。竜造寺勢は旅陣勢、長陣は困難と見たの
      である。
      このため固く城を閉じ籠城戦を覚悟したのであった。この小田部の籠城戦に、攻め手の
      大将「執行」も詮方なしと長期戦をとることにした。膠着状況の中、安楽平勢が大手口
      (重留村)より度々人数を繰り出しているとの情報が執行のもとに聞こえた。このため
      執行は、脇山の枝村池田(現、脇山小学校付近)を、「大教坊」と称す「山伏」の一味
      百人ばかりに預けおいて、執行は、内野村の本城(現、早良区六丁目付近)の枝村に陣

      を置いた。
池田を守らせた「大教坊」は、もとはと言えば「小田部民部少輔」の配下で
      あったが、小田部に恨みごとがあって、竜造寺勢が攻め込んだ時、いち早く池田の砦を
      空けわたし、竜造寺へ下ったのである。
      本城に陣を置いた執行は、飯盛岳を「原田了栄」に城をとらせ、人数を荒平の里に押し
      出し、小田部の所領を押さえ、兵糧攻めを強めた。
      こうして「小田部民部少輔」の籠城戦は三ケ月にもなろうとしていた。
      (風土記には「漸三とせに成にければ」とある。一般に「三とせ」とは三年を指すが、
      管理人の解釈は、この風土記の書く「三とせ」とは、「三十世・みとせ」即ち「丗」を
      「せ」と読み、「三丗」のことを指し九十日、三ケ月と解すべきと考える)
      長引く籠城に、安楽平城では兵糧も盡き、籠城も叶いがたしとなっていた。
      この窮状に「小田部鎮通」は、我腹掻っ切って城中の者を救おうと覚悟をきめた。
      このことを那珂郡「鷲が岳城」の「大鶴宗雲」が聞きつけ、急ぎ「立花山城」の
      「
戸次道雪」へ使いを立て、小田部の難儀を告げ「人数加勢あるべし」と頼んだ。
      これに「道雪」は重臣「十時摂津」を大将に、急ぎ加勢を送ると回答する。
      さらに宗雲は、加勢の者を今夜のうちに「入部」の神社へ伏せおき、明日の「辰の刻
      (午前八時)」押し寄せて欲しいと頼んだ。「宗雲」の使いは急ぎ安楽平へ戻りこの事
      「鎮通」に告げると、この報に「鎮通」親子は大変に悦んだのである。
      「鎮通」のには二人の男子が居た。嫡男を「九郎」といい十九歳。次男は「源次郎」と
      いって十一歳の少年であった。鎮通は、道雪の加勢の報を得てその夜、城には源次郎を
      残し、家中の者は老若に拘らず皆「引具(戦備え)」して城を下り「脇山川」を境に空
      屋敷(おそらく城の原付近と見られる)に籠った。
      これに気づいた佐賀勢は、小田部は兵糧尽きて攻勢に出ると騒ぎ、若い兵らは走り出て
      行ったが、安楽平勢は忽ち隠れて姿を出さなかった。安楽平勢は幾度もこれを繰り返す
      が、一向に軍(戦)する気配がを見せないことから、攻め手の大将の執行は「皆、諸所
      に陣取って干し殺しにせよ」と下知。
      さらに竜造寺勢は、どうせ死する命なら「合戦」に出て来いと口々に揶揄した。
      これを聞いた「小田部民部」は、我慢して忍んでいるとはいえ「悪口雑言は口惜しい」
      と言った事から、「小田部」の若士二〜三人、鉄砲持ち立出て、「口のさがなき奴らを
      撃って倒さん」と鉄砲を撃ちかけた。これに辺りに居た二〜三十人の者も一斉に鉄砲を
      撃ちかけたのである。
      これを見ていた、竜造寺に寝返った「大教坊」に周りの者も、長刀をおっとり安楽平勢
      めがけて寄せて懸かった。
      これに「小田部民部」の兵は、大教坊は小勢、間近くに寄ってきた時こそ好機、討って
      とると気色ばんだ。これに「小田部」は、「以後の戦い、時を定めて軍するため、態と
      これに控えておる、一人も出てはならぬ」と固く制した。
      しかし足軽たち、此の制止聞き入れず、四方へ追散し、「大教坊」へ切って懸かる。
      大教坊はこれを事ともせず、三十人許を率い安楽平勢と激しく闘うも、所詮多勢に無勢
      安楽平勢は「大教坊兄弟、亀井新七、箱田弾正」らを討ち取り首を挙げた。小田部民部

     
 は早速、大教坊の首を「鷲の岳」の「宗雲」に送った。
      鷲の岳よりは、加勢の侍大将に舎弟の「宗逸」を遣わしていたが、此の合戦で「小田部
      の家中の者共は、首分捕り高名をしたりしに、宗雲加勢の者共が、首の一つも取らざる
      事、無念至極に思う也。しからば池田の城を支える敵兵の者を。宗逸が手にかけて攻め
      落とす。九郎も同心したまえ」と引き立てた。鎮通はこれを制すも抑えきれずについに
      同心。夜も明けぬ脇山川を渡り、攻め込んだ。しかし鎮通は老武者、昨晩よりの合戦で
      疲れ酷く休み休みの戦となった。
      内野の本城よりこれを見ていた大将「執行越前」は、火の手が上がったのは、大教坊が
      城へ攻め込んだと早合点し、本城の守りに「神代(くましろ)」を残し、自ら馬立打っ
      て出た、多勢をもってで「小田部親子」含む安楽平勢へ襲いかかる。

    
  小田部親子も火の出るほど戦ったが、安楽平勢は老武者多く、多勢に無勢、多くが討た
      れる。「小田部民部」安楽平城へと引こうとするが、遂に力尽き自刃して果てる。
      其の頃「
戸次道雪」の支援「十時摂津」率いる応援の六百余騎、椿瀬の川岸まで至って
      いたが、「小田部親子」討ち死の知らせに、「もはや小田部親子戦死では、これ以上の
      合戦無益。内野の城攻め落としても、二〜三百は討ち死せねば落城すべからず。小田部
      のために遣わされた加勢なれば、小田部討ち死した中で、この小城攻め落とすに多くの
      人数殺すこと、兵乱半ばに道雪への不忠也」静かに引き上げた。
      安楽平城には、小田部の内室、源次郎、老いた者、女たちが籠っていたが、降参の女を
      執行に遣わし、城を明け渡した。こうして27年間の大友の早良支配は終わる。

      尚、「小田部の妻」「小田部源次郎」は家老「鬼倉対馬」によって立花山城「
道雪」の
      もとに送られ「源次郎」は成人し「立花宗茂」に仕え、代々立花範に奉公したという。


       
 
              城の原(脇山口)登山路途中にある「小田部民部少輔鎮元(鎮通)」自刃の地


                                           引用資料   筑前国続風土記(貝原益軒)

                                  トップへ