龍ヶ城夜襲之事

        「岩屋城結束強化の契機となった。北原鎮久の誅殺

     「筑前国続風土記」によれば、「龍ヶ城」は吉木村(現、筑紫野市吉木)に有った伝えている。天正8年8月夏、
    この龍ヶ城で「高橋紹運」策略による夜襲戦が行われた。「筑前戦国史」には「蘆木の惨劇」として取り上げられ
    ている。
    こんにちの地図上には「蘆木(あしき)」の地名は見出せないが、吉木の南に「阿志岐」の地名があり、近年この様
    に宛て字が変化したと見られる。
    続風土記・巻之二十四 古城古戦場(那珂郡)には「蘆城村古城(あしきむらこじょう)」の記述があり、城主の詳し
    くは分らないとしている。また、「あまが城」と別称を記してあり、おそらくは隣接する「天山(あまやま)」の地名が関
    係していると見られる。(天山には、筑前国続風土記によれば「筑紫氏」の端城「柴田城」があって、村山近江守が
    守将として置かれていたとされているが、関連は不明。)
    さらに、同巻之九・御笠郡には、「蘆城(あしき)」の記述があり、「宰府の南にあり蘆城の駅として、宰府より都に
    通じる馬次の宿、米の山(筑紫野市と飯塚市との境界・米の山峠)に至る」旨のことが書かれており、位置関係は
    龍ヶ城の推定位置と整合する。
    これらのことを総合すると、当時この一帯は「蘆城(あしき・蘆城村城)」と呼ばれていたと見られるが、こんにちの
    地図上で見ると、本道寺、吉木、阿志岐(蘆城・蘆木)の位置関係は、南北に5kmに亘っており、正確な龍ヶ城の
    場所、夜襲戦の行われた場所は不明。また「龍ヶ城」とは「蘆城城または蘆木」と同一の城なのか、「龍ヶ城」の
    名称の由来は調査できていない。

    続風土記 「龍ヶ城」は高橋紹運の「端城」としている。恐らく西の「秋月氏」の押さえとして築かれたものであろう。
    守将は「北原鎮久」。この男、宝満城主「高橋鑑種」の旧臣であったが、鑑種が降参したときあっさり見限り、退散
    「大友宗麟」に下り、高橋紹運の岩屋入りには最大の功労があった武将である。このため紹運も鎮久を重用した。
    しかし筑前国続風土記(巻之二十四・古城古戦場 1)によれば「此鎮久と云し者、勇あれ共智無く、唯貧欲無道の
    由」と鎮久の愚将ぶりを伝えている。 この鎮久の性格を伝え聞き、うまく利用したのは「秋月種実」であった。
    種実は、家臣の内田善兵衛を使って鎮久へ持ちかけた。
    「近日種実大宰府に発向すべし、其方龍ヶ城に此の方の人数呼入れ置、岩屋の城裏切りせよ。左あれば紹運忽
    に滅ぶべし。其の賞には岩屋城を可遣由」と伝えた。即ち、近く種実が大宰府に攻入るので、秋月勢を龍ヶ城に入
    れ其の方紹運を裏切レ、さすれば岩屋城は容易に落ちる。そうなれば恩賞として岩屋城を与える。」というもので
    ある。この種実の誘いに、信義を持たない鎮久は仔細無く同心する。
    甘い誘いに慢心の鎮久、落ち目の大友を見限り、紹運、統虎親子を筑前から追い出す企てを種実に伝える。
    此処までは種実の思惑どうり進んだ。しかし慢心した鎮久は、この企てをわが胸に腹に収めておくことが出来なか
    った。企てを配下漏らしてしまう。
    このことは、紹運の漏れ聞くところとなった。鎮久はそ知らぬ顔で岩屋城へ登城してきた所を、紹運の伏せておい
    た重臣らに討たれる。
     鎮久には嫡子「北原進士兵衛種興」がいたが、鎮久は謀反の企てを進士兵衛に明かしてなかった。その訳は
    定かでないが、鎮久は宗麟に忠実に奉公する進士兵衛の身を按じたか、あるいは必ず謀反は成功すると考えた
    のかも知れない。またその一方では、場合によっては謀反が失敗した時「種興」へ累が及ぶことを按じたことも頭
    にあったのではないかとも思える。
    紹運は、父の企てを知らなかった進士兵衛を咎めなかった。当時、謀反の一族は男女、子供問わず斬罪が常で
    あったが、進士兵衛の日頃の忠勤を知っている紹運は、進士兵衛を生かして活用すことをを考えた。
    進士兵衛もまた家臣らの意見により、父の無念を晴らそうと考えたようだが、紹運は進士兵衛に文書認め、鎮久
    が秋月種実と通じ謀反を企てやむなく誅伐したことを説き、非は種実にあり。進士兵衛をなんら疑っていない事を
    書き送り、常々の忠勤を賞賛、一層の忠勤を諭した。
    進士兵衛も非は種実、わが父にあることを悟り、大友氏への忠誠を誓った。状況判断に鋭い紹運はこの機を逃さ
    なかった。そして進士兵衛に、種実を懲らしめる策を練らせた。
     
     以下「筑前国続風土記」の書くところである。
    「北原進士兵衛」は父の不義を恥じて、秋月勢をたばかり寄せんとして、秋月へ使いを遣わし、秋月の将「内田
    善兵衛彦五郎」介して書状を送った。宛先は「秋月種実」。
    「父鎮久の密謀が顕れ命を失いぬ。此の憤り黙止がたし、鎮久が志だし空しく成り候こと是非なく候。何の日にか
    軍勢を本堂寺村(本道寺:現在の地図では、吉木の北、宝満山の東に位置する)に軍勢を差越し被せ候へ。 某
    (それがし)手立をめぐらし、岩屋の城に夜討を仕る可と申しける。」
    種実は此の進士兵衛の書状が謀略であることを疑わず、おおいに喜び書状を返した。
    種実は合図の天正8年10月18日と定め、「内田彦五郎」を大将に、究意の武士三百人(500人とも)に夜討の
    支度をさせ、その日の暮れ方に蘆城(あしき:阿志岐)の龍ガ城に着陣した。北原進士兵衛は、秋月勢に会釈し
    て回り酒をすすめ、そこ此処と場所をしめし宿をとらせた。酒に酔った秋月勢は路地に草臥し、前後不覚に寝入
    った。「紹運」と「進士兵衛」は手筈を決めていた。その夜の夜半過ぎ、進士兵衛からの合図に、紹運の手勢に、
    進士兵衛の手勢、加えて近辺の郷士どもも語らい都合六百静かに進み、寝入る秋月勢を取り囲み、一斉に鬨
    を作った。夜半のことゆへ秋月勢方向もわからず、周章(しゅうしょう:うろたえること)騒ぬるは理(ことわり)なり、
    慌てふためいた。大将の「内田彦五郎」は北原勢の一人と組討となり、刺し違えて戦死。他の秋月勢は、谷に落
    ちる者、峰に逃げあがる者と混乱、かねて地形案内の北原勢は此処かしこの切所におって、逃げくる秋月勢を
    切り伏せ突き伏せして討ち取った。秋月勢三百余人の殆どが戦死、逃げ帰った者は僅か三十人ばかりであった。
     まんまと紹運に謀られた種実は此の後、内田彦五郎の弔い合戦と、一万を超える大軍で古処山出立したが、
    此の情報を聞いた高橋紹運は、応援の立花道雪手勢と併せ、休山茄子城付近まで討って出て激しい戦いとなっ
    たが、種実は此の戦いでも「道雪・紹運」の智略に翻弄され敗戦を期すのである。

                                                   参考  筑前国続風土記
                                                        筑前戦国史

    北原鎮久誅殺の評価

     
紹運の「岩屋」入りに功労のあった「鎮久」であったが、紹運に重用されて行く中、高橋鑑種以来の重臣という
    自負から、その行動は自立専権的となっていった。鎮久は勝手に他の重臣との婚姻を進め、被官を強化するなど
    行動がエスカレートしていった。こうした中、鎮久の謀反は発生したのである。
    (大友興廃記では、北原珍休切腹之事と書き「北原種元入道珍休」紹運の家老としている)
    高橋紹運には700を超える家臣団がいたが、その構成は複雑であった。紹運譜代の者、、義統が与えた者、
    鑑種以来の旧臣団、是には北原鎮久はじめ、屋山、伊藤、福田、村山、今村な有力武将が多くいたのである。
    これらはともすれば「秋月・筑紫」らと通ずる危険性を絶えず孕んでいた。批判的勢力は侮れなかった。
    これらの家臣を統制し、大友家へ忠誠を徹底することが紹運の使命であった。
    こうした紹運を取り巻く情勢の下、批判的勢力の中心「北原鎮久」の誅伐は、紹運を制約していた批判勢力を押さ
    え家臣団を統一し、これらの者の大友への忠義を強化する上で大きな意味のあった事件であった。
    「高橋紹運」の優れたところは「屋山」ら旧高橋時代からの老臣の功労をも、その都度大友総家へ報告し、義統な
    どの感状を受けさせていることである。自身の大友氏への忠勤とともに、家臣の働きを逐一伝えることによって、
    家中の大友氏への忠節心を創り上げていったのである。このことが岩屋玉砕の時、一人の脱落も出さなかったと
    見てよい。



                                           (引用:中世九州の政治・文化史:川添昭二 著)

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