戸次氏年表
参考史料
| 西 暦 |
年 号 |
氏 名 |
場 所 |
出 来 事 |
| 12世紀 中期 |
後白河〜高倉天皇 の間と推定される |
戸次 惟澄 |
豊後国 戸次庄 |
豊後大神氏一族 「大神惟澄」 豊後国大分郡戸次庄(へつぎのしょう)に蟠踞 。 戸次氏の姓祖となる。 「戸次二郎惟澄.」と称す。 戸次惟澄は,豊後37氏の祖ともされる豊後大神氏「大神惟基」 (11世紀後半) の玄孫(やしゃご)にあたる。 父は惟基の曾孫「大神惟家」 「豊後大神氏」は、大神良臣に始まる豊後国に起こった一族 「大神惟基」を祖とする豊後に起こった武士集団。 豊後中南部を中心に強力な軍事力を背景に蟠踞した。 中でも 「大野九朗泰基」 「緒方三郎惟榮」らが知られる 「大神惟基」出生に関する「嫗嶽大明神伝説」と云うのが ある(別名、「大神大蛇伝説」) この伝説は「瓜生島沈没伝説」「炭焼小五郎伝説」 と共に豊後三大伝説の一つ。 |
| 1178 |
治承2年正月3日 |
戸次 惟澄 |
筑前国 (西国) |
従兄弟の大神惟榮(1143〜1196?)に従い 平家に謀反 平家追い落としに加担。 「惟榮」は「緒方三郎惟榮」として知られ、豊後の英雄として 扱われている。元は平家の家人であった 源平盛衰記、平家物語に記述有り |
| 1182 |
寿永2年 |
戸次 惟澄 |
豊後国 豊前國 |
戸次惟澄、大宰府に落ち延びた平家追討に加担 平家は芦屋の山鹿城へ逃れる。 大宰府を仮宮とした「建礼門i院」安徳天皇」を惟榮は三方より 攻める。 |
1184 |
元暦元年10月20日 |
戸次 惟澄 緒方 惟栄 臼杵 惟隆 松浦党 |
九州在地武士 藤原 頼経 緒方三郎惟栄、戸次(戸槻)、臼杵、松浦党と 筑紫 高野木庄で戦う |
|
元暦元年7月6日 (惟榮大宰府乱入) |
緒方 惟栄 佐賀 惟康 |
緒方三郎惟栄兄弟、宇佐神宮に乱入。堂塔を壊して薪とし 仏像を破って宝物奪い、眉間を打破して白玉を取るなどの 乱暴狼藉の大罪犯す。 後に、この行為は惟榮の命運を左右する。 |
||
1185 |
元暦2年 (壇ノ浦合戦) |
戸次惟澄の 従兄弟 緒方三郎惟栄 |
「吾妻鏡」記述 正月26日、惟榮は足止めを余儀なくされた源範頼に船82艘 を献上。 3月24日 壇ノ浦で源氏勝利。 平家滅ぶ(平時子、安徳天皇は入水) 1186年緒方三郎惟栄は義経を迎えるため船出すも嵐に 遭遇捕らえられ上野国沼田荘に配流(文治2年11月9日) この時の罪状は宇佐神宮乱入の事であった。 この時期の戸次惟澄のことは不明 |
|
1195 〜 1196 |
建久6年 または 建久7年 |
大友初代 大友 能直 |
豊後国 |
大友系圖には能直の府内下向のことが記されているがおそらく 後世の作為と見られる。 史実は「大友能直」の豊後入りは無かった。 |
1206 |
建永元年 |
大友 能直 戸次 惟澄 古庄四郎重能 |
京 都 |
能直はこのごろ豊後守護職補任となるので、戸次惟澄が能直に 所領を譲ったのはこれ以降と見られる。 仮に、惟澄が大友氏に家督を譲ったとすれば、惟澄は13世紀 初頭まで存命したことになる。 「能直」実弟「古庄四郎重能」が先発として豊後入り。 |
| 1230 |
寛喜2年 |
戸次 重秀 |
京 都 |
大友氏系戸次氏祖となる「大友重秀」 大友親秀二男 として誕生 |
| 1269 |
文永5年 |
戸次 重秀 大友 頼泰 |
豊後 下向 |
「大友氏」の豊後入りは、初代能直、二代親秀までは 下向せず、三代頼泰の時である。 「 大友能直〔初代)の豊後守護職(1206)」 それまでは、初代能直の実弟「古庄四郎重能」一族が大友氏に 代わり守護を務めた。 大友氏の下向は従来1272年ごろとされていたが、1269年ごろ には入府していたとみられている。 「大友頼泰」は在京のまま豊後守護職 仁治3年(1242)に就く。 大友系戸次氏初代「重秀」の豊後入りは定かでないが、頼泰 の弟であり、同時期に豊後入りしたのではないか。 重秀の戸次氏継承は、戸次惟澄に子がなかったので重秀を 養子とした説があるが、惟澄と重秀には少なくとも半世紀以上の 年代の違いがあるので、大友氏が軍事力を背景に強引に取得し たとみられる。 尚、戸次氏家紋は、大神氏が左「巴」紋であることかや、こん日 大神氏系の姓氏が左「巴紋」であることから、もとは左「巴」で あったと見られる。 大友氏系になってからは、大友氏と同じ「杏葉」紋である。 |
1270 |
文永6年 |
戸次 重秀 |
豊後国 戸次庄 速見郡 |
豊後國図田帳には、近部、藤原、井手は戸次氏 眞部井、軒之井地頭職戸次氏とある |
1274 |
文永11年10月20日 文永の役 |
戸次 重秀 |
筑前 博多 |
蒙古襲来、 博多防衛に出陣香椎浜に陣 |
1282 |
弘安5年5月23日 |
戸次 重秀 |
戸次庄 |
大友系 戸次氏初代重秀卒 享年53歳 法名 : 佛阿 弘安8年(1285)説有り |
1285 |
弘安8年 |
戸次二郎重頼 |
豊後国 大野荘 |
豊後國図田帳之記述 大野荘 志賀村、上村、中村、下村、の内 中村76町、下村100町領す |
1285 |
弘安8年 (豊後国図田帳) |
戸次 時親 重頼 |
豊後国 | 時親戸次庄地頭職 戸次庄 90町(戸次時頼に同じ) 豊後国図田帳 |
戸次 時親 |
国東守江浦3町 速見郡大神荘近部藤原、井出村70町 |
|||
| 利根 頼親 (戸次 頼親) |
(戸次頼親)真奈井、野木乃井村30町 |
|||
戸次 時頼 (戸次時親) |
由布院 60町 戸次重親相続 |
|||
| 戸次 重頼 | 柴山村10町、大野荘中村76町 |
|||
1290年代 |
永仁年間 |
戸次 朝直 |
一戸城 深江 |
大神村地頭職 大神氏と改め、戸次氏系大神氏祖となる |
| 1299 |
永仁7年 |
戸次 貞直 |
豊後国 |
鎮西引付衆頭 一番引付衆(鎮西引付記による) |
戸次左近蔵人 |
戸次重頼とみられる、 一番引付衆 |
|||
| 1327 |
嘉暦2年 |
戸次 貞直 戸次左近蔵人 |
鎮西評定衆(鎮西引付記) |
|
1328 |
嘉暦3年 |
戸次 頼時 |
豊後国 阿南荘 |
阿南荘 光一名15町 領主菊池氏に代わり納むべき 領家年貢数年に亘り滞納した |
1330 |
元徳2年 |
大友 貞載 (立花 貞載) |
筑前国 立花山城 |
大友貞宗二男「大友貞載」 西の大友 「立花山城」築城 立花姓の祖となる 貞載の立花城築城の謂れははっきりしないが、博多警護の 大友氏持ち場が香椎浜一帯であったこと、大友氏六代貞宗は 七代惣領を長男貞順、二男貞載を差し置いて「五男千代松丸」 に遺言したことが影響したとも云われる。 以後、立花城は本家の軍事力背景に「西の大友」として広大な 筑前一帯を支配する。 240年後「戸次鑑連」は立花城の謀反を鎮圧し立花城督となる このことが、後年の柳川藩「立花氏」誕生のきっかけとなった。 |
| 1335 |
建武2年 |
戸次 頼尊 (戸次左近 大夫) |
箱 根 |
南朝方 新田義貞の足利尊氏討伐に出陣 箱根竹下の戦いには豊後より、大友千代松丸、大友貞載 らが参戦。戸次頼尊もこれに従ったと見られる。 戦いは、佐々木塩屋判官高貞、大友貞載らが寝返り足利 足利尊氏方勝利。 これにより、尊氏は京入りを果たす。 頼尊の名は系図に確認出来ず おそらく頼時を指すと見られる |
| 1336 |
建武3年3月 |
近江 山城 播磨国 筑前国 多々良浜 |
戸次頼尊は、伊豆君沢より九州筑前多々良浜に戻る間 100余人の手負い若党討ち死を出す.。 南北朝期、それほど不安定な世情であった。 |
|
戸次 朝直 |
豊後国 府 内 |
敷戸孫次郎、賀来弁阿闇梨、府中高国府乱入の時 鎮圧の大将軍務む。 朝直は後に戸次氏系「大神氏」を起こす |
||
| 建武3年8月 |
戸次 朝直 頼尊 頼時 |
玖珠城 (伐株山城) |
玖珠城に篭る大友貞順、入田士叔、加来弁阿闍梨らを攻める |
|
| 建武3年 |
戸次 貞能 | 湊 川 | 南北朝争乱 三代貞直弟「戸次貞能」湊川合戦に出陣討死 |
|
| 1338 |
建武5年 |
戸次 頼時 |
豊後国 阿南荘 |
光一松名の領家年貢15貫文で請け負うが訴訟受く。 年25貫文と6年一度の神宝途10貫文納入で収拾。 |
| 1347 |
正平2年 | 戸次 頼時 大神 朝直 (戸次 朝直) |
府内 | 頼時、朝直 南北朝争乱 大友氏宗に応じ南朝方に協力の起請文を 書く これが将軍家の不興をかう 戸次頼時 譲状 観応2年2月10日(1351) 立花文書 嫡男「福寿丸」へ |
| 1352 |
文和元年 | 豊後国 阿南荘 藤原荘 |
南朝方への起請文が原因して、足利義詮より、領地の 田原直貞への宛行受く。 |
|
| 1353 |
文和2年ごろ |
戸次 頼時 大神 朝直 |
藤原荘 | 頼時、朝直 両名幕府に降参。波多方半分、大神藤原半分回復 |
| 1354 |
文和3年 |
戸次 重親 | 戸次庄 |
戸次重親 戸次庄檀原村、由布院4ヶ名等全地頭職失う |
1359 |
南朝期正平14年 (大保原合戦) |
少弐 頼尚 懐良 親王 菊池 武光 戸次 頼時? |
大保原 小郡原 |
九州最大の南北朝合戦、大保原合戦行わる。 武家方少弐軍6万、宮方菊池4万 合わせて10万が戦った 合戦。宮方の大勝利に終わるが、双方の戦死併せて5450人 負傷25000人の大惨事。 勝利した懐良親王は大宰府に征西府置く 一方名門少弐氏は衰退へ向かう。 大友軍も武家方として参陣するも山隈を動かず、 戸次一族も前後のいきさつから参陣したと考えられる。 |
| 1361 |
康安元年 |
戸次 頼時 |
所領安堵さる |
|
| 戸次 時直 (臼杵 時直) |
戸次 時直 戸次系臼杵氏初代となり所領安堵さる | |||
| 1363 |
貞治2年 |
戸次右馬助 直光 |
豊後国 阿南荘 |
光一松名 所領安堵 |
| 1370年代 | 戸次 直光 |
戸次氏5代直光 将軍小番衆 今川了俊九州探題 の頃 |
||
| 14世紀中期の頃 |
戸次 直時 (片賀瀬直時) |
大野荘 片賀瀬村 |
4代戸次頼時子 「直時」片賀瀬氏初代 豊前守 | |
1375 |
永和元年 |
豊後国 戸次庄 臼杵庄 |
両庄、北朝方より妙心寺玉鳳院 雲上上人へ | |
| 1382 |
永徳2年 |
戸次頼秀? |
戸次庄 松岡 |
戸次庄松岡下野入道跡地、 大友親世へ預け置かれる |
1383 |
永徳3年 |
大友 親世 |
戸次庄 |
大友親世宛 知行所領注文に、戸次庄切畑名はあるが 檀原村は見当たらない |
| 1394 |
応安元年10月17日 |
戸次 直光 |
戸次庄 |
正応3年4月4日、頼時卒 父丹後守(頼時)所領及び諸職等安堵の御判 |
1401 |
応永8年7月11日 |
戸次 直世 |
三重郷 |
戸次直世、奥嶽兵衛四郎入道に対し、智尾地征伐の恩賞 として三重郷より三貫文与える |
| 15世紀 初頭 |
戸次 直世 | 豊後国 | 足利義満(1358〜1408)の勘気受け小番衆解任 主家大友氏の加番衆から戸次氏消える。 以後、戸次氏勢力減退、悲運の時期迎える |
|
1420 |
応永27年8月24日 |
戸次 直世 |
三重郷 |
由原宮に対し、三重郷門田のうち、萩田1町2段80歩寄進 |
| 1425 | 応永32年 | 戸次采女 | 三角畠 | 大友「三角畠之乱」の大友孝親の謀反の諫言に向かい 討たれる この乱は11代親著が家督をいとこの持直に譲ったことから 嫡男の孝親が起こした反乱 |
15世紀前中期頃か |
戸次 親載 |
大野荘 鎧ヶ嶽 |
戸次直世が将軍家の勘気受けて以来低迷の続く戸次氏は、 ついに本貫地戸次庄失い。大野荘鎧ヶ嶽(藤北)に移る。 この時期戸次氏は相当苦しい時期で有ったと考えられる。 家督の相続に混乱(複雑)が見られやがて三家に分かれる。 |
|
15世紀中期と推定される |
戸次氏分か れる 本家 片賀瀬分家 藤北分家 |
片賀瀬 現、竹田市 片ヶ瀬 |
この頃「戸次 親続」片賀瀬城に移る 「親続」は12代「戸次親貞」の長男。13代は弟「親宣」が継ぐ。 当時片賀瀬には「片賀瀬氏」がいた見られるが其の当りのこ とは不明。 こん日、全国の苗字の中に「片賀瀬氏」は見出せない、途絶えた 可能性もある。 |
|
| 1478 |
文明10年 |
戸次 親家 |
鎧ヶ嶽城 |
13代「戸次親宣」の子として誕生 後の戸次氏14代「戸次常陸介親家」 「戸次鑑連」の父 |
| 1511 |
永正8年 |
戸次 親正 (親延) |
肥前国 |
戸次五郎、治部大輔。将軍家への忠誠尽くす。岡山で戦う。 肥前国小坂にて討ち死。享年17歳 法名: 玄清義山 親正は藤北戸次氏の祖 親正の戦死年永正8年は、系図によって天文3年ともある。 何れも、甥子の親家の出生年次らを考えると不自然な気がする。 |
1513 |
永正10年 3月17日 |
戸次八幡丸 |
藤北の里 |
八幡丸誕生 後の 戸次鑑連(立花道雪) 戸次鑑連・ァ千代・色姫 豊後国大野荘藤北丸山 「藤北館」 |
1526 |
大永6年3月 |
八幡丸 (戸次鑑連) |
藤北館 |
八幡丸 14歳で元服 大友義鑑より一次もらい 「戸次伯耆守鑑連」と称す |
大永6年 |
戸次 鑑連 初陣 |
豊前 馬ヶ嶽城 |
戸次鑑連初陣 病気の父に変わり豊前出陣「総大将」務。、中国大内勢が籠る 馬ヶ嶽城夜陰に乗じ落す。 早くも勇将の片鱗 |
|
戸次 親家 |
藤北館 鎧ヶ嶽城 |
戸次14代親家没す 享年49歳 | ||
戸次 鑑連 |
鑑連戸次15代家督継ぐ 鎧ヶ嶽城主(1526〜1554) |
|||
1527 |
大永7年 |
由布 惟信 |
由布院? |
後年の鑑連側近 「由布 美作入道雪下」 誕生 戸次道雪、立花宗茂二代に仕え、立花藩家老 最後まで宗茂と行動を共にした 柳河入国時 酒見城主3500石 89歳で没す |
| 1535 |
天文4年秋 (車返しの戦い) |
戸次 鑑連 戸次 親宗 |
肥後国 | 菊池の謀反に鑑連3000騎を率いて出陣 合志勢が内応してきたがこれを断る。親宗奮戦する |
1546 |
天文15年 |
戸次 鑑連 |
筑前国 古処山 |
秋月 文種大友に反旗 大友義鑑、戸次鑑連、佐伯、臼杵、吉弘ら10000の兵を 差し向けこれを鎮圧 |
1548 |
天文17年 |
吉弘弥七朗 |
豊後国 筧 城 |
後の吉弘鎮理(高橋紹運)誕生 |
1550 |
天文19年 2月10日 (大友 二階崩れの変) |
大友 義鑑 塩市丸 斉藤播磨守 小佐井大和守 田口蔵人佐 津久見美作守 |
豊後府内 大友館 |
大友二階崩れの変 大友20代義鑑は、嫡男の義鎮を廃嫡にして側室の子 塩市丸に家督を継がせることを図る。重臣4人に持ちかけたが 反対され。策略を以って、斉藤、小佐井を切るも。 駆けつけた田口、津久見に「塩市丸」共々討たれる。 田口、津久見らも家臣らに討たれる。 義鑑は二日後に死す。 享年49歳 変の折「義鎮」は別府に湯治に行っていたというが、義鑑に 行かされたものか、自ら行ったのかは不明。 しかし事後処理の義鎮の動きは素早かった。 |
天文19年 2月20日 |
大友 義鎮 | 大友 義鎮 21代大友氏家督継ぐ |
||
| 天文19年3月 |
戸次 鑑連 |
津賀牟礼 城 (入田) |
戸次 鑑連 二階崩れの変、義鎮廃嫡を画策したとされる首謀者 重臣入田親誠を攻める。親誠は阿蘇惟豊を頼り逃亡するも 逆に討たれ、首を豊後に送られる。 鑑連は二階崩れの事後処理で地位を築く。 |
|
天文19年8月 |
肥後国 隈本城 |
戸次鑑連を総大将に大友軍35000は肥後に進出 菊池勢撃破。 隈本城落す |
||
1554 |
天文23年10月 13日〜15日 |
戸次鑑連ら 大友軍 |
門司城 |
大友軍1万5千 毛利勢総崩れ 門司城奪回 |
天文23年 |
戸次 鎮連 |
鎧ヶ嶽 城 |
戸次鎮連は、鑑連の実弟鑑方の嫡男 鑑連の養子となって鎧ヶ嶽城継ぐ(1554〜1583) |
|
1557 |
弘治3年7月7日 〜12日 |
戸次 鑑連 |
古処山城 |
総大将戸次鑑連率いる大友軍2万、秋月古処山に 秋月文種攻める。 秋月文種自刃。 嫡男 種實は中国毛利氏へ避難 |
| 1558 |
永禄元年6月18日 |
大友 義統 |
大友館 |
長寿丸(義統)誕生 |
| 1559 | 永禄2年6月26日 |
大友 義鎮 |
府 内 | 豊前、筑前両守護 薩摩除く九州の守護に |
永禄2年8月 |
戸次 鑑連 |
宗像領 許斐城 蔦 嶽 白山城 |
宗像氏貞の城攻めるも徒労に終わる |
|
| 1561 |
永禄4年 又は 永禄6年の説 |
戸次 鑑連 |
宗像領 |
大友加判衆 臼杵鑑速、吉弘鑑理と共に三老の一人 宗像大宮司家の城攻める |
永禄4年7月15日 (香春岳城合戦) |
戸次 鑑連 田北刑部少輔 田北民部少輔 田原 親賢 |
香春岳城 |
戸次鑑連、毛利勢の原田義種籠る香春嶽落す、 義種自刃 香春岳城とは、現田川市の石灰採鉱山「一の岳」中腹にあった 山城である。香春城は、応永年間は大友の配下、千手興房が 守っていたが、中国大内氏に攻められ婦女子共々自害。 大内後も、毛利大友の間で争奪が続いていた。 |
|
| 永禄4年9月2日 (門司城合戦) 10月10日 10月26日 11月 5日 11月 6日 |
戸次 鑑連 田原 親賢 臼杵 鑑速 吉岡 長増 |
門司城 |
門司城は大友氏の守将怒留湯主人に与えられていた この門司城を元就は義鎮との密約を破って攻め落とす。 おさまらない義鎮は門司城取り返す行動に出るこれが発端で、 二ヶ月に及ぶ門司城攻防が行われる。 鑑連は布刈神社近くまで攻め入る。 ポルトガル船門司城砲撃 明神尾の激戦 大友軍総攻撃 鑑連800丁の弓、鉄砲使用 大友軍は攻めきれず夜陰に乗じ撤退。陸戦は互角であったが、 毛利の小早川水軍の待ち伏せなど大友軍苦戦。 |
|
1562 |
永禄5年 |
戸次 鎮秀 |
豊 前 |
鎮秀は号を宗傑と言う。片賀瀬戸次氏4代 山城守 後に大友義統の加判衆 妻は高橋紹運の妹 |
戸次 鑑連 |
鑑連入道して「麟伯軒道雪」と号す |
|||
1563 |
永禄6年1月 |
戸次 鑑連 |
豊 前 |
毛利勢の籠る豊前松山城攻める 松山城は背後を海に囲まれた要害。攻めきれず 以後大友氏は松山城より手を引く |
永禄6年1月27日 |
足利 義輝、戸次鑑連に対し豊芸和談につき、義鎮に 意見加ゆべく命ず |
|||
1564 |
永禄7年 |
戸次 鑑連 |
酒色に溺れる宗麟の行状諌める |
|
1565 |
永禄8年6月 7月4日 立花城謀反発生 |
立花 鑑載 |
筑前国 立花城 |
西の大友として君臨してきた立花城 立花鑑載最初の謀反 戸次鑑連、吉弘鑑理、立花城包囲 立花鑑載降服 |
1566 |
永禄9年2月吉日 |
戸次 鑑連 |
大野荘 上津神社 |
豊後国大野荘「上津神社」へ「金幣寄進」 |
1567 |
永禄10年8月14日 |
秋月 種実 戸次 鑑連 臼杵 鑑速 吉弘 鑑理 ら大友軍 |
筑前秋月 休山 茄子城 (安見ヶ 城) |
大友軍に攻められ自刃した秋月文種の嫡子「秋月 種実」 中国毛利に身を寄せ優れた武将に成人。古処山に帰還し 旧臣らを集め侮れない勢力となっていた。 大友義鎮戸次鑑連ら三老に2万の軍勢を与え秋月種實攻める、 1日に七度もの鎗あわせ、鑑連も自ら太刀打ちの激戦 秋月も1万2千の軍勢で互角の戦い |
永禄10年8月15日 |
大友軍は秋月の?城休山茄子城落とす 戸次鑑連休山(休松)に陣を敷く 守将坂田越後守諸正自刃。介錯で飛んだ諸正の首の落ちた 首淵(つぶろぶち)の名のつく地名今も残る。 秋月勢居城の古処山に退去 (注) 休松は現在「安見ガ城」と呼ばれているが、明治の頃 までは「休山茄子城」と呼ばれていた |
|||
永禄10年9月3日 9月4日未明 休山茄子城合戦 (所謂休松合戦) |
戸次 鑑連 戸次 鑑方 戸次 鑑堅 戸次 親繁 戸次 親宗 戸次 親久 戸次 鎮連 戸次 鎮秀 |
戦いは二十日に及ぶ中、毛利襲来との噂が大友軍に流される 大友陣中からは理由をつけて筑後勢らが引き上げ始める。 大友軍は一旦軍を筑後まで引くことにする 大友軍撤退の報に秋月種實は4000の軍勢で、撤退前の大友 臼杵、吉弘陣地に夜襲(未明)を掛ける。。 大友軍は大混乱、戸次陣地へなだれこむ、おりしも鑑連陣地 朝飯中。突然のことに同士討ちを演じる混乱、鑑連は悠然と 握り飯を口に放りこみ兵を叱咤励まし陣を建て直す。 鑑連、朽網、清田、一万田、田尻勢が踏みとどまりかろうじて 討ち返し兵を筑後赤司城から山隈城まで引かせる。 この戦いで戸次一族は甚大な被害を蒙る。 家中の討ち死五十余人、中でも鑑連実弟「鑑方」、叔父「親久」 従兄弟「鑑堅」、従兄弟違い「親繁、親宗」の親族5人が首を 取られる 。 (この合戦で戸次鑑連の弟5人が戦死したとするものがあるが、 系図、米多比戦死帳などの検証より、これは間違い) また、田尻家中にも多くの戦死だす。 この戦いは、伝える書によって異なるが、大友軍には負けに 等しい合戦であった。 特に、戸次軍の損害甚大 |
||
永禄10年11月18日 |
吉弘 統虎 (千熊丸) |
吉弘館 |
後の立花宗茂誕生、 父「吉弘鎮理(高橋紹運)」 国東軍都甲荘長岩屋 筧城吉弘館で生まれる。 (筧城の場所ははっきりしない) 統虎は鑑連のァ千代の婿に迎えられる |
|
| 永禄10年12月23日 |
戸次 鑑連 | 大友義鎮、鑑連に対し、宰府社家人の忠意を糺させ不忠の者 に 誅罰を加ゆべく命ず |
||
1568 |
永禄11年2月5日 |
戸次 鑑連 |
上津神社 |
豊後大野市 上津神社(上津八幡大神)鰐口寄進 |
| 永禄11年2月 (立花鑑載謀反) |
立花 鑑載 |
立花城 |
清水左近将監率いる毛利勢8000芦屋に襲来。 立花鑑載、高橋鑑種と示し合わせ再び大友に謀反。 同意しない大友に忠義の薦野三河守、米多比大学を謀殺 立花山白岳守将、怒留湯融泉 脱出して大友へ連絡。 |
|
| 同4月6日 |
立花鑑載挙兵 中国毛利史清水軍8000に高橋軍あわせ 10000余騎にて備え |
|||
| 同4月24日 |
戸次 鑑連 臼杵 鑑速 吉弘 鑑理 戸次 鑑直 戸次次郎兵衛 |
鑑載誅伐の大友軍30000余騎立花城包囲 先陣は切岸まで押し詰める 3ヶ月を要する合戦の始まり |
||
同7月4日 立花城崖下の戦い |
戸次 鑑連 戸次 刑部 戸次 治部 |
総攻撃 鑑連軍は苦戦、敗色濃厚のところへ、戸次刑部、 戸次治部らが駆けつけ挽回。 鑑連は敵の弓撃ち狙撃に至近から狙われるが、内田玄悠の 兄が中にいり身代わりとなって即死。鑑連命拾う。 この戦いでは鉄砲が使われたと言う。 |
||
同7月23日 立花城合戦 立花城陥落 (立花鑑載自刃) |
戸次 鑑連 |
大友軍は要害の立花城を攻めあぐねていた。鑑連は密かに 諜略をまわし、立花鑑載の将「野田右衛門大夫」を内応させる。 右衛門は木戸を開け大友軍を場内へ手引き、立花城は遂に 陥落。鑑載は立花城を僅かな配下とともに脱出、一旦支城の 古子城へ落ち延び立て直しを図ったが、兵が集まらず新宮浜 目指す。途中野田右衛門に見つかり鑑連に追い詰められ、裏 切った右衛門を罵りながら共の者とも自刃す。 238年続いた大友氏直系の「西の大友」は終わる |
||
大友宗麟は立花城の守将として 津留原掃部助、 田北民部丞 臼杵進士兵衛 を配置 |
||||
| 同8月7日 |
戸次 鑑連 |
筑前国 |
大友宗麟 鑑連に対し立花城攻めの功で感謝状 |
|
1568 |
永禄11年8月19日 |
戸次 鑑連 秋月 種實 |
古処山 | 戸次鑑連秋月へ軍進める 種實おそれをなし降参 |
同11月25日 |
戸次 鑑連 |
筑前国 山隈城 |
鑑連山隈城より高良下「トイモト城」へ移る トイモト城の位置は未確認 筑後耳納連山発心山の北の麓「富本」を指す説もあるが 高良下にはずいぶんと遠い。 高良下の麓本村に「城」と言うところがある。この当りでは |
|
| 1568 |
同11月28日 (鑑連 再婚) |
トイモト城 |
門註所鑑豊の娘「仁志姫(西姫)」と再婚。男女二人の子伴う |
|
1569 |
永禄12年正月 |
戸次 鑑連 |
佐賀城 (佐嘉城) |
戸次鑑連肥前佐賀城攻め出陣 同年3月攻撃開始 |
1569 |
永禄12年4月15日 |
立花城 |
毛利軍筑前侵入着陣 立花城包囲 |
|
同5月3日 |
毛利軍立花城の水脈を絶つなどの策を使う 宗麟は一旦城を開けるよう命令 大友軍撤退 |
|||
同5月5日 |
戸次 鑑連 戸次 玄珊 戸次 宗傑 |
博多 |
大友軍30000 博多に集結 |
|
同5月6日 (多々良川の 戦い) |
筑前国 多々良川 |
立花城奪回をかけた戦い 鑑連自ら鎗を手に奮戦 |
||
同5月18日 |
多々良川合戦最大の激戦。両軍鉄砲使用 大友軍35000、毛利軍40000、中世九州戦国史上最大の戦 い。戸次鑑連猛攻撃、毛利軍数町引く。大友軍大勝利。 永禄12年8月「戸次ァ千代」誕生 |
|||
| 同10月12日 | 戸次 鑑連 臼杵 鑑速 吉弘 鑑理 |
芦 屋 |
毛利軍は立花城に野瀬兵部ら200余り残し撤退開始、 大友軍追討、毛利軍3491人の戦死 同10月13日大友の三将は毛利追討し芦屋に入る。 三将は筑前擾乱の元凶は高橋鑑種とし、豊満城を攻め 切腹させることを決める(芦屋会談) |
|
同11月9日 |
立花城 |
立花城に残っていた毛利勢城を開ける 大友軍は、これを芦屋まで送る |
||
| 1570 | 元亀元年3月 |
戸次 鑑連 大友 親貞 |
佐 賀 |
脅威となりつつある肥前竜造寺を攻めるため、大友宗麟出陣 高良山に本陣を置く。 大友軍は60000、佐賀の北へ長蛇に陣を張る。 総大将大友八郎親貞は西の今山に、戸次鑑連は東の柿村へ 迎える竜造寺軍5000。 大友親貞は圧倒的な戦力に勝ち戦とばかりに慢心 戦意低く油断酒宴。 竜造寺軍は緻密な情報収集に加え、地元郷士の士気高く 20日未明、形勢不利と見た鍋島信昌は手勢僅か800余りで 大友親貞本陣の背後山に回り一気に奇襲をかける。 大友軍は酒盛り最中、不意打ちに大混乱。 総大将の八郎親貞も山沿いに逃亡将とするが待伏せに合い 討たれる。 統制の抜けた大友各隊は筑後方面へ逃亡。この中にあって 鑑連は殿を務め陣を動かず防備を固め陣を引いたと言う。 この戦の大友軍の戦死は2000に上った。 この合戦を契機に筑前筑後における大友離れが顕著となる 大友衰退の発端とも言える。 |
| 元亀元年8月20日 (今山合戦) |
鍋島 信昌 大友 親貞 戸次 鑑連 |
|||
1571 |
元亀2年 |
戸次 鑑連 色姫 |
筑前国 | 宗像氏貞の妹「色姫」戸次鑑連の側室となる (実質は和睦の人質) 鑑連 58歳 色姫 23歳 |
| 元亀2年5月6日 |
戸次 道雪 |
立花城 |
戸次鑑連 立花城へ入る 立花城督。 「道雪」と号す 所領94ヶ村 3000町 |
|
1572 |
元亀3年8月15日 |
戸次亀菊丸 |
筥崎座主麟清の養子となる |
|
1574 |
天正2年3月 |
戸次 道雪 |
立花城 |
立花城に石火矢(大砲)二門着く 後に「国崩し」と呼ばれる |
1575 |
天正3年3月23日 |
養孝院 |
立花城 |
戸次道雪養母「養孝院」没す。 墓所は「梅岳寺」 |
同5月28日 |
戸次ァ千代 |
道雪は7歳の「ァ千代」に立花城督を譲る この時の道雪の譲り状が残る。生活用品から武具まで興味を 引く(立花文書) |
||
1577 |
天正5年 |
戸次左京入道 |
緒方荘 |
緒方荘間別調注文 緒方庄300町 小川名80町 戸次左京入道直納分 (入道宗傑のことか) |
1578 |
天正6年 1月 土持氏 攻め |
戸次 鎮秀 |
肥後国 (阿蘇) |
大友主力の日向進出に際し南部衆として肥後に駐在 戸次宗傑鎮秀 山城守 片賀瀬戸次第4代 |
大友 義統 戸次 鑑連 戸次 宗傑 田原 親賢 |
縣城 松山城とも言う (延岡) |
日向の国は長く、伊東氏が日向48城と呼ばれる如く栄華を 誇っていた。 一方薩摩では島津四兄弟が結束して勢力を拡大していた。 この島津に対し、伊東三位入道義祐は、元亀3年5月3日 島津義弘が守る真幸院(えびの盆地)を押さえる為、 伊東加賀守祐安ら3000にて加久藤城を攻める。後年九州の 桶狭間と喩えられる「木崎原合戦」である 伊東軍は義弘の巧みな戦術と、油断が重なり大敗の返り討ち。 この敗戦により伊東氏は一気に求心力失い、地元土豪たちは 島津へと靡く。其の一人が縣城土持親成である。 土持氏は、耳川以北を領地として大友に予同していたが、 この時期大友の顔色覗いつつ島津へ内応していた。 この土持親成を討つべく宗麟は、嫡子義統以下有力重臣率い る30000で一気に縣を攻め六代134年続いた土持氏は滅ぶ。 戸次一族も鎮連、宗傑が第七陣として出陣した 宗麟の土持氏攻めは「耳川合戦」の発端と共に、大友島津の 所謂「豊薩争乱(豊薩合戦)」の発端となった。 豊薩争乱辿る(1) 豊薩争乱辿る(2) 豊薩争乱辿る(3) 参照 |
||
天正6年9月4日 宗麟出陣 天正6年11月9日 〜12日 (耳川の戦い) |
大友 宗麟 田原 紹忍 田原 親賢 佐伯 宗天 田北 鎮周 吉弘 鎮信 ほか |
日向国 高 城 耳 川 |
日向を追われた伊東義祐は、縁戚関係にあった大友宗麟に 日向の領地回復の支援を求める。 この時期宗麟は、キリシタン信仰に強く傾倒、世情急変著しい 戰國の情勢を見極める戰國武将としての気概に疎くなっていた 義祐の要請に宗麟は妄想を抱く。日向国にキリシタン王国を 夢見る。 日向侵攻には軍師を始多くの重臣たちが反対したと言う。 宗麟はこれを 聞き入れず、天正6年9月4日出兵する。 総大将「田原紹忍」以下40000の軍勢 宗麟は海路 縣務志賀(無鹿)に本陣を置く。宗麟はここでも 一大合戦を他所にキリシタン信仰に明け暮れる。 田原紹忍は途中[島津]の防衛陣を退けながら高城に進軍 高城の向かいカンカン原に「松山の営」を中心に陣を張る。 高城は島津の守将「山田新介有信」率いる3000がいた。 多勢の大友軍は周辺の焼き討ち、高城の谷を切り払いこれで 埋めるなど攻め立てたが、高城周辺の地形は中位段丘の侵食 地形のため急崖で比高は低いが要害をなしている。 大友軍は攻めあぐみ日時を費やした。 11月11日大友人では「軍議が開かれた」しかし主戦論の 田北鎮周らと、慎重はの田原紹忍、佐伯宗天らとの間で意見が 分れ「軍議決裂」田原紹忍は軍を統率できなかった。 決戦の日「11月12日」未明、作戦の無いまま大友軍「田北隊」 が切原川の渡河強行、続いて佐伯隊、斉藤隊らが渡河、序戦 大友の勢いが勝り島津の先鋒崩れる。大友の先鋒はなおも 島津陣の奥深くまで深追い。 戦況を覗っていた島津義久は、伊集院隊、戦さ上手の歳久隊、 潜ませていた野伏せを動かし大友隊の側面に一気に鉄砲弓矢 で攻撃、この横入れで大友軍は混乱、形勢一気に逆転。大友軍 は多くの数戦死者出し敗走。島津軍は耳川まで追討、大友軍は ここでもおくの犠牲だす。大友軍の戦死者は4000とも2万とも言 われる。大友軍の死骸は累々と川、街道を埋めたと言う。 大友宗麟はこの敗戦により南部衆中心に家中の求心力失う。 |
|
1578 |
天正6年12月3日 |
戸次 道雪 高橋 紹運 |
岩屋城 |
秋月種實、筑紫広門の連合軍が大宰府に攻め込むが、道雪、 紹運これを撃退するも、道雪軍の被害大 柴田川の戦い |
| 天正6年 |
戸次道雪 森 鎮実 |
猫ヶ城 | 鷹取城「森鎮実」、宗像氏の端城「猫ヶ城」に」押し寄せる |
|
1579 |
天正7年正月11日 |
大友 義統 | 府 内 大友館 |
大友宗麟、家督を嫡子「大友義統」に譲る 義統併せて九州探題となる この後、7月15日宗麟はキリシタンの洗礼を受けキリシタン大名 となる |
天正7年4月 |
戸次 道雪 | 二日市 | 二日市の戦い | |
天正7年8月14日 (天正8年8月23日) ? |
戸次 道雪 |
筑 前 生の松原 |
道雪は志摩半島柑子岳城(254m)の大友方木村鑑實の支援要 請に、食料救援。 帰路この地方の藩大友原田勢に襲撃される 天正8年8月23日とするものあり |
|
天正7年7月27日 |
戸次 道雪 高橋 紹運 |
大宰府 岩屋城 |
再び秋月、筑紫連合軍大宰府に攻め込むがこれを撃退 |
|
| 天正7年8月 |
戸次 道雪 |
箱 崎 |
宗像氏貞、麻生、原田、などの反大友軍、多々良川左岸箱崎に 攻め込むも戸次道雪これを退ける |
|
| 天正7年9月11日 |
戸次 道雪 十時摂津 |
安楽平城 | 佐賀竜造寺 安楽平城攻める。 道雪小田部紹叱救援、十時遣わすもするも落城 |
|
| 天正7年9月18日 |
戸次 道雪 |
鞍手郡 |
戸次道雪、高橋紹運、宗像領鞍手に攻め入る |
|
1580 |
天正8年2月 |
戸次 道雪 十時摂津守 |
筑 前 早良郡 |
立て篭もった肥前竜造寺に味方する郷士討つ |
天正8年2月3日 |
戸次 道雪 |
月隈村 |
砦(切寄せ)築く |
|
天正8年2月16日 |
戸次 道雪 |
立花城 |
道雪、豊後の重臣たちに大友危機を説き奮起を促す檄文発す |
|
天正8年3月 |
戸次 道雪 | 筑前国 | 宗像氏貞大友と和睦。氏貞妹「色姫」どうせつに輿入れ 道雪 58歳 色姫 25歳 |
|
天正8年5月 |
戸次 道雪 森 鎮実 |
筑前 遠賀郡 上底井村 |
道雪は鷹取山城森鎮実に、宗像氏の端城猫城を攻めさせるが 鎮実合図を違えて敗走する、 |
|
天正8年7月 |
戸次 道雪 竜造寺隆信 |
筑 前 |
道雪、竜造寺隆信と和睦。西九郡隆信領。東六郡大友領 |
|
天正8年9月 |
戸次 道雪 |
筑 前 穂 波 |
道雪、紹運 秋月種實と戦いこれを破る | |
| 天正8年冬 (天正7年説 ?) |
木付鎮実 | 柑子岳城 | 原田了栄へ城開城。大友の志摩支配終わる |
|
1581 |
天正9年3月6日 |
戸次 道雪 |
筑 前 那珂郡 麦野村 |
道雪保塁築く |
天正9年8月18日 |
高橋 統虎 (戸次統虎) 戸次ァ千代 |
立花城 |
高橋紹運の嫡男「統虎」養子縁組 立花城へ 統虎 15歳 ァ千代 13歳 後に立花ァ千代 |
|
天正9年11月6日 |
戸次 統虎 戸次 道雪 高橋 紹運 |
穂 波 潤野原 |
戸次統虎初陣(後の立花宗茂) 秋月方の敵将と組討これを討ち取る |
|
天正9年11月12日 〜 13日 (小金原の戦い) |
戸次越中 戸次右衛門 大夫 薦野 増時 足立 式部 由布 惟信 古野神九朗 |
筑前若宮 小金原 |
戸次道雪、統虎親子は、鞍手郡鷹鳥城(630m)城主森鎮實の 飢饉を救うべく、米300表に800の兵で救援に向かわせた。 途中宗像氏貞領内を通過するので、道雪は事前に了解をとった しかしこれには立花、宗像の和睦をよしとしない若宮郷士の不満 根強く、機会をねらっていた。行きに秋月方が襲ってきたがこれは のけ米を届ける。翌13日帰路、若宮の若党郷士が待ち受けてい たが、川の水位の変化に気づきまちぶせを察知。戦いは激戦とな り、夕方にまで及ぶ、立花勢は勝利するが重臣足立式部を始め 多くの戦死者を出す。若宮方は、郷士の殆どが討ち死全滅 応援の秋月方にも多くの損害出す。 この戦いで、足立式部を倒した「古野神九朗」の墓が、現在若宮 ゴルフ場に残る。 道雪は約束破った宗像勢に怒り、立花山松尾城の色姫〔松尾殿) を訪れ、、口汚く宗像勢を罵倒したという。道雪と色姫がうまくいか なかったのは、こうしたことも原因したであろう。 |
|
1582 |
天正10年2月 同4月 |
戸次 道雪 |
早良郡 山門村 生松原 |
山門村の郷士討伐に向かう 帰路道雪、いきの松原で原田勢と鉄砲戦。手負い87人月 戸次統虎、原田の久辺野砦落す |
天正10年3月16日 |
戸次 道雪 小野 和泉 由布 雪下 |
宗像郡 八 並 許 斐 |
小金原合戦のシコリを残す道雪は、宗像への侵攻を命ず しかしこの時は徒労に終わる |
|
天正10年4月16日 |
戸次 統虎 |
那珂川筋 岩戸村 |
筑前の志摩、糸島に勢力を広げる高祖城「原田信種」は筑紫広門と 示し合わせ、大友方猫峠城へ手をのばす。道雪はこれを討つため 重臣の薦野増時ら1000余騎で攻め込む。 原田勢も必死の抵抗見せたが、立花勢が切り込み原田勢退去 立花勢の討ち取った首は150首に上ったと言う。 |
|
1582 |
天正10年11月18日 |
戸次 道雪 戸次 統虎 |
立花城 |
戸次道雪、大友宗麟より「立花姓」許される 立花氏の名跡継ぐ。 「立花道雪」と称す 立花城西の御殿にて道雪重臣二十数名えお招き御旗名字を 継ぐ祝宴開く。この時の着座順が「米多比文書」に残る 家老七人 「由布甲斐守家続」「堀越後守入道東雲」 「十時興五郎連秀」「安東助五郎家栄」 「由布源兵衛尉惟延雪下」 「森下備中守入道釣雲」「安東紀伊介宗忠」 また重臣に、戸次越中守、戸次次郎兵衛(立花次郎兵衛) 戸次右衛門大夫(立花右衛門大夫)らが見える |
天正10年ごろ |
戸次 鎮連? |
豊後国 三重郷 松尾山 |
この時期、島津の北上に備え、「三重松尾城」築く 柴田紹安の宇目「朝日ケ嶽城」も築かれる |
|
1583 |
天正11年3月15日 |
立花 道雪 |
許斐城 |
立花道雪3000の兵で、宗像氏貞の支城許斐城を攻める 宗像民部逃亡、宗像氏貞も白山城へ退去。 許斐は立花勢が入る |
1584 |
天正12年3月24日 |
色 姫 道雪側室 |
立花城 |
色姫は、立花、宗像の和睦の証として、道雪の側室となって いたが悲運の生涯閉ず 享年39歳 「當院開基竹龍院妙渭大姉」 墓地は古賀市青柳石瓦にある 墓標は一枚岩の転石で立派である |
天正12年7月 |
立花 道雪 高橋 紹運 |
筑 後 黒 木 |
盛夏の中道雪、紹運、3000の兵引連れ黒木家永籠る猫尾城 攻める。 家永自刃、娘が介錯。 この時道雪は「輿」で進軍したと言う |
|
1584 |
天正12年 |
戸次 統貞 |
入田郷 津賀牟礼 城 |
豊後入田津賀牟礼城は、入田氏の居城であったが、入田氏が 親誠の誅伐後、重臣戸次統貞に与えられていた。 親誠の子義實は許され、九重野緩木城にいた。義實は九重野 を拠点に旧領回復を図った。大友義統は戸次統貞に命じ誅伐 させた。 義實は焼き討ちにあうなど激しく攻められ和睦 |
1585 |
天正13年 |
戸次 鎮秀 |
肥後 |
戸次鎮秀、島津の阿蘇侵入に対し阿蘇惟光の要請で支援 |
天正13年3月 |
立花 統虎 |
立花城 |
秋月種實、道雪筑後出陣の留守突き立花城攻めるも、統虎 これを撃退 |
|
天正13年9月13日 (立花 道雪死す) 立花道雪の死(1) |
立花 道雪 |
筑 後 北野 天満宮 陣中 |
道雪の筑後出陣は長期になっていた。高良大社を本陣に各城 攻め、筑後鎮圧中がであった。天正13年夏、道雪は酷暑の中 北野へ陣替え北野天満宮へ。道雪は高齢のうえ暑い中での陣 替えの疲れで発病、一旦は持ち直すが重臣たちの見守る中 遂に没す。 享年 73歳 13歳の初陣以来、大友宗麟の片腕として主家に忠義を貫き、 生涯を合戦に身を投じた誠の戰國武将であった。 道雪は生涯37度の合戦に臨み一度も敗れなかったと言う。 晩年下半身不随となっても輿にて出陣したと言われる 道雪の死によって大友の筑後制圧は頓挫する。 道雪の遺体は敵味方見守る中、1000人の兵に守られ立花城 へ送られる。 道雪の終焉を大友興廃記は次のように書く 「國中野心の武士も道雪開陣と聞き、矢一筋も射る ことなし・・」 道雪の墓は、新宮町立花口の梅岳寺に。養母「養孝院」 側近「薦野増時」とともに眠る 法名:梅岳院福厳道雪大居士 福厳院殿前丹州太守梅岳大居士 |
|
1586 |
天正14年 |
戸次 鎮連 戸次 鎮秀 (戸次宗傑) |
豊後国 |
そろって大友家加判衆 |
天正14年3月4日 |
宗像 氏貞 |
宗 像 蔦岳城 |
宗像大宮司家80代「宗像氏貞」没す 享年 42歳 氏貞に世継ぎ無く、秀吉により廃絶される 宗像大宮司家滅ぶ |
|
天正14年6月1日 |
戸次 宗傑 志賀 道輝 志賀 道雲 朽網 鑑康 田原 親家 |
豊後国 緒方荘 政所 |
大友義統 緒方荘、緒方政所へ国分けの御倹視が派遣されるので 一勢(助勢)を出せと命令 |
|
| 1586 |
天正14年7月12日 |
高橋 紹運 |
岩屋城 | 島津忠長岩屋城囲む |
天正14年7月27日 (岩屋城玉砕) |
高橋紹運 道雪と共にに大友氏へ忠義を尽くす。紹運は降伏を勧める 島津忠長の大軍を前に悠然とこれを拒否。 家臣も全てが紹運と運命を共にすることを決意。岩屋城は 強固に抵抗。合戦は二週間に及び島津の損害が広がる。 しかし遂に763名全員が壮絶な玉砕。これは戰國合戦史上 稀に見る合戦である。 島津軍がこの岩屋城に日にちを費やしたことは、島津の九州 制覇の戦略に微妙に影響するのである 島津軍の損害は、戦死3000、手負い1500、実に岩屋城 篭城者の6倍に上る。紹運の凄まじい抵抗が覗える。 高橋紹運の墓は、岩屋城二の丸跡に、首塚は二日市にある 法名:天臾院殿性海紹運大居士 |
|||
天正14年8月24日 |
島津忠長 |
立花城 |
岩屋城に時間を費やした島津忠長は、遂に主目的の立花城 攻略をあきらめ、囲み解く |
|
同 8月25日 (統虎鳥居城攻め) |
立花 統虎 戸次次郎兵衛 |
高鳥居城 |
島津に応じ立花城の押さえとして、高鳥居城に居た星野吉實 星野吉兼兄弟は、島津に置いていかれる。 立花統虎は間いれず出陣。星野兄弟討つ 兄弟の首は吉塚に葬られている。現「吉塚地蔵」 「吉塚」地名の起こり この合戦では戸次次郎兵衛の武勲が伝えられている。 次郎兵衛は、戸次鑑連(立花道雪)の妹の夫「戸次親行」の子 次郎兵衛2歳の時父早世、鑑連によって厳しく育てられたという。 次郎兵衛は後の「立花次郎兵衛」、清廉実直、義を重んじる武将 であったが肥後「加藤清正」の罪人をかくまった事がきっかけで 引き取りに来た加藤家の者の約束違反に激高、加藤家の侍を 切ってしまう。これの責任を問われ自刃する。 |
|
1586 |
天正14年10月20日 (島津豊後侵入) |
戸次 鎮連? (戸次氏) 島津 家久 柴田 紹安 |
三重町 松尾城 |
島津は、耳川、沖田畷で勝利し、九州制覇をたくらんでいた。 耳川で大友に勝利したとはいえ、豊後大友氏は依然脅威である 大友攻略にに島津は、肥後口、日向口より豊後へ侵入 日向口の島津家久は「縣」、北川、八戸をへて、国境「梓峠」を 越え宇目「柴田紹安」の朝日ガ嶽城無血開城。、三重郷に侵入 柴田紹安は家臣の反対を押し切り夜陰に乗じ逃亡、島津へ走る 三重では、かねてより島津に内通していた、馬喰商人「麻生紹把」 の手引きで「戸次氏」が守る「松尾城」を落とし、此処に本陣お置く 島津軍が到着した時、麻生紹把一族は家族総出で迎えたと言う。 島津家久軍は「松尾城」を拠点に集結。 戸次氏十六代「戸次鎮連」は島津に内応したとして「義統」の誅伐 を受け、大野で自刃したとされている。推測だが、松尾城に居た 可能性が高い。 |
天正14年10月22日 |
島津 義弘 新納 忠元 新富 新介 志賀 親次 戸次 鎮秀 |
片賀瀬城 (片ヶ瀬原) |
肥後口より豊後侵攻の島津義弘は、肥後高森野尻より豊肥國境 越え、九重野高源寺「入田宗和」の緩木城へ入る。 10月22日島津の先鋒「稲富新介」率いる5000は片賀瀬戸次氏 の片賀瀬城を落とし侵入。続いて島津の主力集結 先鋒は、岡城下「滑瀬口」まで侵攻する。 |
|
天正14年10月24日 |
戸次 統貞 |
津賀 牟礼城 |
島津義弘は、津賀牟礼城の戸次統貞(玄珊)に策を巡らし 下城させ入城。玄珊は島津に内応したとされる。 恐らく、片賀瀬城の統貞父「戸次鎮秀(宗傑)」も同様と見られる |
|
天正14年12月7日 |
利光 宗魚 |
鶴賀城 |
豊後入りした島津家久は、佐伯「栂牟礼城」、臼杵の宗麟の居る 「丹生城」と攻めるが、何れも攻め倦み損害出して撤退していた。 三重松尾城発った「島津家久」18000は、「豊後府内」への 玄関口「戸次庄利光 鶴賀城、別名 利光城」を囲む 義久は、鶴ヶ城の南1キロほど「梨尾山」に本陣を置く 一方、鶴賀城の利光宗魚は柵を築くなど警護を固め、、将兵、 男女3000余りで篭城作戦。家久軍は二の丸までは攻め入るが 鶴賀城は 強固に抵抗、島津軍の戦死は増える一方、見かねた 家久は、一旦兵を5町ばかり引く。これを櫓上で見ていた宗魚は 狙撃され戦死。敦賀城は、宗魚の死を隠して抵抗、 双方合わせて6000もの戦死を出す。 島津家久は、敦賀城攻めに勝利しなかった。 |
|
天正14年12月12日 (戸次川の戦い) |
戸次 統連 戸次 鎮時 戸次 鎮直 長宗我部 信親 仙石 秀久 大友 義統 |
戸次川 (大野川) |
鶴賀城危うしの中、大友宗麟の嘆願により「豊臣秀吉」の派遣 した四国勢「長宗我部信親」「仙石秀久」らが救援に到着。 四国勢に、戸次統連などの大友軍8000は戸次川挟ん竹中に 本陣を置く。 これに島津義久、市村と利光村の境当り、戸次川の右岸に集結 島津義久は、大友軍をみて一旦陣を引くが、家久は案外大友勢の 手薄なことを見て取っていた。三段の備え引く。 大友方では、敦賀城の危機に仙石秀久が渡河を主張、大友陣 は意見が分かれる。これには、豊臣秀吉から救援の本隊到着迄 決して軽率な行動をとらぬよう戒められていた。 長宗我部らの反対を押し切って、秀久は渡河を強行。これに 長宗我部らもやむ終えず渡河する。序戦は大友勢が押し込み 島津はさがるが、家久は全軍に生きて薩摩へ帰ると思うなと檄を とばし、二番手、三番手と繰り出し大友軍に襲い掛かる。 遂に大友勢は総崩れ、長宗我部親子戦死、十河一族らにも多数 討ち死。大友義統は吉弘統幸に助けられ、高崎山さらには龍王城 まで落ち延びる。仙石秀久も逃亡、秀吉の怒りかう 戸次氏最後の当主「戸次統連〔統常)」は、島津に内応した父鎮連 を恥、汚名を晴らさんと一族挙って参陣。2000名が壮絶な戦死 「統連」は合戦にあたり、討ち死覚悟、決死の覚悟を以って累代の 家宝書物悉く焼き払って出陣したという。 統連(統常)の墓は、豊後大野市藤北「常忠寺」にある 統常 享年22歳 法名 : 常忠寺殿節宗義圓大居士 |
|
| 1587 |
天正15年3月1日 |
豊臣 秀吉 |
大坂 |
「秀吉」島津討伐に20万の兵を引連れ出立 |
天正15年3月17日 |
島津 家久 |
松尾城 三重郷 |
島津家久は秀吉の九州入りに、松尾城、城下にひを放ち退去 島津は撤退に際し、多くの三重の住人を人質にしたという。 戸次氏の築いた松尾城の短い使命終わる |
|
天正15年5月8日 |
島津 義久 |
薩 摩 川内 |
島津義久「秀吉」に降伏 |
|
天正15年5月23日 (大友宗麟 没す) |
大友 宗麟 |
津久見 |
「大友宗麟」 没す 享年 58歳 豊後の王と呼ばれ、九州 6カ国の守護にまで上った宗麟も 晩年は、キリシタン信仰に傾倒し治政を疎かにした。 急変する戰國の世に対応できなかったと言っていい 加えて、嫡男「義統」は臆病で戰國武将としての器量を備えて いなかった。 後年、義統は挑戦の役での敵前逃亡をとわれ失脚 400年続いた大友氏の豊後支配は終わる。 さらに1600年「石垣原合戦」の敗退で大友家は滅ぶ |
|
1587 |
天正15年6月15日 |
立花 統虎 ァ千代 |
柳 川 |
立花宗茂(統虎)は秀吉より筑後「柳河」132200石を与えられる 宗茂は15日立花城を発ち17日柳川へ入る。 ァ千代は父「立花道雪〔鑑連)」の眠る、住み慣れた立花山を 離れたくないと拒むが、過信に諭され1日遅れで柳川へ。 戸次氏一族も多くが柳川に同行しtと見られる 戸次山城守鎮秀(宗傑) 戸次親良(鎮秀嫡男) 戸次鎮林 戸次統直 戸次次郎兵衛(立花統春) 次郎兵衛は「立花次郎兵衛」として知られ、道雪妹の婿 「親行」の子、道雪の甥にあたる。2歳の時父が死亡 道雪に育てられる。 実直な武将であったが悲運の自刃 |
1600 |
慶長5年9月14日 鶴見原合戦之事 (所謂石垣原合戦) |
大友 義統 吉弘 統幸 黒田 如水 |
豊後國 石垣原 (別府) |
関ヶ原合戦の前日に行われた合戦 大友家再興を掛けた大友義統は「黒田如水」との「石垣原合戦」に 破れ、400年続いた豊後大友氏遂に滅ぶ |
慶長5年9月15日 (関ヶ原の戦い) |
立花 宗茂 |
大阪 |
関ヶ原の戦い。 ァ千代は「徳川」に味方するよう勧めるが 宗茂は秀頼へ 結局 豊臣方敗戦 宗茂領地失う 関が原合戦後、筑後八院、江上表の戦いにて「戸次右衛門大夫」 次男「善四郎」戦死 |
|
| 1600 |
慶長5年10月20日 | 戸次右衛門 大夫 同 善四郎 親雄 |
筑後国 江上 |
関ヶ原敗戦後、肥前「鍋島直繁、勝繁」の乱入の邀撃に 親子で出陣討ち死。八院の戦い |
1601 |
慶長6年5月3日 |
戸次 宗傑 (戸次 鎮秀) |
柳 川 |
片賀瀬城 4代山城守没す 入道宗傑 大友加判衆務めた重臣 父 「親方」 母 道雪の妹 妻 高橋紹運妹 墓は 玉名市石貫「広福寺」 法名 : 節心院岩雄英甫宗傑大居士 |
1602 |
慶長7年10月17日 (ァ千代 没す) |
立花 ァ千代 (戸次ァ千代) |
肥後長洲 腹赤村 庄屋伊蔵 納屋 |
柳川でのァ千代は宗茂との折り合い悪く、宮永に別居 宗茂が領地召し上げられてからは、寂しい余生であった。 長洲腹赤(はらか)、庄屋「古庄九朗右衛門」屋敷に住み 此処で没した。 享年 34歳 気が狂ったとも、井戸に身投げしたとも言われる。 墓は、没後柳川藩に復帰した「宗茂」が14年をへて建立したという 法名 : 光照院殿泉誉良清大禅尼 神号 : 瑞玉院 ァ千代の墓はその形から「ぼたもちさん」と呼ばれている |
| 1620 | 元和6年 (柳川復帰) |
立花宗茂 | 柳川藩 | 立花宗茂20年かけて旧領「柳川」に復帰 11万石 |
| 1634 | 寛永11年 (ァ千代墓建立) |
立花宗茂 | 長州腹赤 | 「立花ァ千代」没後32年にして墓建立される 墓碑は「ぼたもちさん」と呼ばれ、墓柱の上に平たく丸い石が 乗っている。 墓碑に「慶長七年壬寅十月十七日」とある。 |
1642 |
寛永19年11月25日 (立花宗茂 没す) |
立花 宗茂 (吉弘統虎) (戸次統虎) |
立花藩 江戸屋敷 |
立花宗茂は 1620年(元和6年) 苦節20年経て柳川へ復帰。 柳川「立花藩」109600石 立花飛騨守左近将監宗茂 享年 76歳 法名 : 大円院殿松蔭宗茂大居士 墓所 : 東京都練馬区 広徳寺 京都府大徳寺大慈院 福岡県柳川市福厳禅寺 |
1643 |
寛永20年8月21日 (戸次親良 卒) |
戸次 親良 |
立花藩 | 戸次親良は、片賀瀬城第4代「戸次鎮秀」の三男で、宗茂に従い 父と共に柳川へ。 大阪城屋敷の留守居役など務めたとされる。 由布雪下と共に、宗茂を守った。) 享年79歳 法名: 巧誉宗徳居士 |
(余談 1 ) 1575年(天正3年)戸次右近広正という者が加賀国大聖寺城 を修復、守将となったと言う記事を見た。 大聖寺城は一向宗の城であったが廃城となっていたものを、 織田信長の加賀侵攻に際し、柴田勝家の家臣ともされる戸次 広正が修復して守将となったと言うものである。 この戸次広正は「戸次」を「別喜」とも書いてあり、豊後の「戸次」 に繋がるものか不明。 実は熊本県の菊陽町に「戸次」の地名があるが未調査。 こちらは「トツギ」と読むようである。 (余談 2 ) 1652年(承応元年9月) 俗に言う「承応の変」 戸次庄左衛門と言う「兵法者」が居た。由比正雪の弟子という この時代江戸は大名の改易、減封相次ぎ、牢人者が増え 世の不満が渦巻いていた。 戸次庄左衛門は、これらの牢人者を集め政変を起こそうと図る 4代将軍「家綱」の行う、増上寺での2代将軍秀忠夫人27回忌 混雑に紛れ増上寺に火を放ち、駆けつける老中襲撃を企てるが 事前に発覚捕縛され浅草で「磔」の刑となる。 この事件は、その後幕府の牢人対策の転機となる。 (余談 3 ) 1870年(明治3年) フランス 柳川藩士「戸次親任正三郎」(1854〜1872) 陸軍留学生としてフランスへ。現地にて病死 墓は、パリ近郊の フォンテブローにあると言う。 (西日本新聞 2003、7、7) |
||||