戸次氏の城・館

    「
大野荘藤北周辺・館豊後大野市藤北)  (注)鎧ケ嶽城は別ページ

 
    豊後大野市大野町には14箇所の中世山城、館跡が確認されている。多くは戸次氏に関する遺構と見られ、
     他は重臣十時氏らのものと見られる


  
  「鎧ケ嶽城」のページにて書いたように、現地調査で見た地形では鎧ケ嶽に城は造られなかったと確信した。
     豊後国志(唐橋世濟・岡藩・元禄時代)によれば、「鎧ケ嶽」について
      「・・・山きわめて嶮峻、北に臨み豊府眼下に有り、故に戸次氏山半(なかば)に城し・・・」とある。
     これは、この山の頂上にはに城は築かれなかったことを意味している。
    「砦」や「塁」のようなものは、標高550m、四辻峠より藤北側に下った、高野より以下の麓にあったのでは
     ないか。
従って、「鎧ケ嶽城」はここに書く「藤北」周辺の「戸次館(やかた)、砦、塁」を含めた辺り一
     帯の総称とするのがよい。


      
          鎧ヶ嶽と藤北の位置関係                  鎧ヶ嶽頂上                  
              
    ・ 藤北館跡   豊後大野市藤北

            
戸次氏本家の館(やかた)跡とされる場所。
            戦国期、戸次氏の鎧ケ嶽城とはこの「藤北館」を含め指すと思われる。
            鎧ケ嶽は険阻急峻な狭い岩場となっていて、城の建物は築かれなかった。
            藤北館跡は、資料より「常忠寺」左手背後の山とされ、現在は雑木や竹林
            に覆われている。確認してないが、掘りきり、横堀、竪堀が残るとされる。

 

                 
                    戸次氏菩提寺常忠寺(藤北)        戸次氏藤北館のあった常忠寺裏左手の山林風景
                                                   左方向へ迂回した坂道の先に「古屋敷」と云う所あり
                          
                            戸次氏藤北館跡古屋敷と呼ばれるあたりの風景

   ・ 城門跡(松尾城)豊後大野市大野町宮迫
     
             
戸次五郎修理亮親延(親正)が築いた。親延は、
             戸次本家13代「親宣}の実弟。藤北戸次の祖である 
             親延は天文三年肥前小坂 17歳戦死  治部大輔
             土塁、切り岸あり


   
・ 浅草山塞    豊後大野市大野町宮迫

             
「陣の峠」という。「親延」に関係するのではないか

  
 ・ 雷山塁跡    豊後大野市田中

             
戸次氏支城と推定されている
             戸次鑑連の雷に撃たれた砦跡とも推測されている
                  

  
 ・ 最乗寺     豊後大野市田中

                  
戸次館跡(現在 寺地)

                  
                      戸次館の有った最乗寺

   
・ 田中城     豊後大野市田中

                
 戸次氏の平時の居城とも、田中氏の城とも? 
                 大神氏時代緒方氏が築いたとも
                 土塁

   
   
・ 高畑砦     豊後大野市大野町藤北字高畑

                            不詳
                            


   「片賀瀬城竹田市片ヶ瀬
 

     片賀瀬といっても知名度はない。今は片ヶ瀬と書く。唯一歴史に登場するのは
     天正14年10月、肥後口から侵入した島津義弘の先陣稲富新介率いる5000に続き義弘の主力が集結した時である。
     片ヶ瀬は「荒城の月」で知られる岡城址の南の谷滑瀬川(大野川)を挟んだ向かいの台地で、標高は岡城址とほ
     ぼ同じ、周囲は豊後國八郡見稲簿(碩田叢史本)によれば片ヶ瀬村470石ほどであった。当時は大野郡緒方庄に
     含まれていた。
     片賀瀬には口伝にて「片賀瀬氏」の一族がいたとされ、その場所が伝えられている。大友系図や戸次系図に、戸
     次氏第五代直光の弟「直時」に片賀瀬豊前守とあるので、戸次直時が片賀瀬氏の初代と推測される。片賀瀬氏に
     関わる資料は全く無く、詳しいことは不明。こんにち全国の苗字の中に「片賀瀬」の苗字は断念ながら確認でき
     なかった。途絶えた可能性もある。情報があれば知りたい。
     その後戸次氏十三代親宣のとき、兄「親続」が戸次姓を持って「片賀瀬城」に入った。
     片賀瀬城は、親続〜親久〜親方(親善)〜鎮秀と四代続いた。最後の鎮秀は「宗傑」といい、「鎮連」とともに
     大友氏の加判衆を勤めた重臣で、筑前、豊前、肥後と転戦、後に立花宗茂に従い柳河へ。
     鎮秀の子、「統貞(玄珊)」は入田の津賀牟礼城の守将であったが島津に内応した。また五代とされる鎮秀の子
     「親良」は柳河藩の大阪城屋敷の留守居を勤めたとされる。片賀瀬城に関する歴史資料は皆無である。これは、
     天正14年の島津軍によって火を放たれ消失した。

  
                  
                      片賀瀬(戸次城)城址                    初代 親続墓(傳)

                             
                               戸次鎮秀(宗傑)墓(玉名市石貫広福寺) 右の塔


   「津賀牟礼城竹田市入田矢原     (豊薩争乱1 参照)

    
元は入田氏の本貫の城であったが、二階崩れの変による失脚により、「戸次統貞」に与えられた竹田市の調査に
    より、多数の空堀、味噌蔵跡、大手門跡、古井戸、姫墓、など確認されている。

   
          
            津賀牟礼城見取り図(竹田市史)       津賀牟礼城遠望(竹田市矢原・手前緒方川)


   「
松尾城  豊後大野市三重町松尾(豊薩争乱2 参照)
 
 
   大友義統が、島津の侵攻に備え重臣「戸次氏(鎮連と見られる)」に築かせた。

          
              松尾城遠望、はるか後方豊後狼煙場背楯山          本丸跡


   「
白谷(湯)城 : 大白谷城  豊後大野市三重町字白谷
 
    元は衛藤蔵人の城であったという。天正のころには「戸次近江守」が守ったとされる。この城も朝日嶽城、松尾城、
    と共に日向口の押さえとして築かれたれたと見られる。 現地は特定できていない

 
                              



                                                参考資料     大友氏系図
                                                                      戸次氏系図
                                                                     大友興廃記
                                                                     豊後國八郡見稲簿
                                                                     大分県教育庁・埋蔵文化センター資料



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