豊薩争乱辿る(1)


     400年続いた豊後大友氏は、慶長5年9月(1600)「石垣原合戦」で「大友義統」の敗戦により終焉を迎る。
   これに到までは大友氏と島津氏の熾烈な争いがあった。豊薩争乱(豊薩合戦)は広く見れば、大友宗麟の
   縣城(延岡松山城)土持親成、鎮綱討伐に始まったと言える。
   さらに耳川合戦。そして、岩屋城「高橋紹運」の戦いをへて、戸次川の戦いに終わると言っていい。
   以下、豊薩争乱(豊薩合戦)の跡を辿る。



  1「
縣城土持氏攻め」 延岡市松山
  

    縣とは延岡の古い呼び方で縣城は「松山城」ともいった。
    縣城は文安元年より3年(1446)にかけ土持宣綱が築城、六代134年続いた。最後の当主は土持親成。
    日向國は永く伊東氏48城と喩えられように伊東氏一族が支配してきた。伊東氏の勢力範囲は概ね美々津
    耳川まで、北を土持氏が支配した。土持氏は豊後大友氏に従い領地を安堵されてきた。
    元亀三年(1572)5月真幸院三角田(えびの市)木崎原合戦で島津氏が伊東軍を破ると南九州の情勢は、
    一気に島津氏の三州統一へと向かう。
    追われた伊東氏は大友宗麟に領地回復の支援を要請。縣の土持氏は強まる島津の圧力に大友氏方を装い
    ながら島津へ内応する。
    大友宗麟は大友義統を大将に有力武将以下三万の軍勢で土持氏を攻め落す。この合戦に戸次鎮連が出陣
    している。この合戦は豊後大友、薩摩島津合戦の発端となったと言っていい。
              


        
         
縣城址(松山城)(五ヶ瀬川沿い)        現在の松山城本丸跡
            中央斜面に空堀跡断面見える



  2「
耳川(高城)の戦い 宮崎県木城町
  
   
土持氏討伐の大勝利した宗麟は、伊東義佑支援と日向にキリシタン王国を建設するという妄想にかられ、
   家臣らの諌めを聞かず日向侵攻決める。
   日向を平定した島津義久は北部の要「高城」に重臣山田有信を配置、南部の佐土原城には島津家久を置
   いた。宗麟のねらいは高城である。天正6年夏宗麟は5万とも言われる大軍を率いて自ら出陣した。
   しかし宗麟は縣(延岡)の務志賀(現在地名は無鹿)までで現地には向かわなかった。
   総大将には田原紹忍を命じた。大友軍は高城の向かいの台地カンカン原に大軍を展開。高城への攻撃を
   始めるが、やたらと日数が経過するだけで高城は落せなかった。戦いの様子が、高城址に残る石碑に刻
   まれている。
   やがて島津主力支援隊が小丸川対岸に集結。高城は比高は低いが急崖に加え、今にちでも大規模な空堀
   が残される要害。高城の台地と宗麟原(カンカン原)は数十万年前は繋がっていた中位段丘で堆積物で
   出来ている。古代の小丸川(高城川)、支川切原川の侵食で二つの
台地に分離された。締ってはいるが
   地質は軟らかい、是が高城の幾重もの空堀、そして大友軍の大規模な空堀「松山の営」を掘り出すのを
   容易にした。
   大友軍には、吉弘鑑理、斉藤鎮実といった名将もいたが、総大将田原紹忍は戦の経験に乏しく、大軍を
   纏めきれず軍議は決裂。佐伯、田北の両先鋒がまず動くが統一を欠く大友軍の攻めは組織されていなか
   った。当時主戦場となった、本川小丸川と支川切原川の合流部は洪水の氾濫原で落ち堀が点在する無田
   (湿地)であった。葦原が広がっていたであろう。
   この葦原を巧みに使い、島津軍は得意とする誘い戦法「野伏せ」により深追いした大友軍の横を衝く。
   指揮系統の定まらない大友軍は混乱敗走する。
   耳川でも追っ手に追撃され大友軍は多くの戦死者を出す。その数4千とも2万とも云われる。持参したと
   される「國崩し(大砲)」も役にはたたなかった。
   大友軍敗戦の責任者田原紹忍は敗走、責任を回避し行方をくらます。この戦の結末は、戦いの重要性を
   認識した島津義久兄弟の結束した戦いに対し、戦場に赴かず遥か無鹿でひたすら信仰に明け暮れ、高見
   の見物を決め込んだ、宗麟の武将としての資質の違いにあったといっていい。


        
                 切原川左岸より高城址望む、右手側に空堀残る

         
          高城址の合戦伝える碑     合戦後、島津義久が高城主山田新介有信に命じ
                          敵味方の区別無く弔うよう造らせた供養の六地蔵塔
                               (川南町 宗麟原)



  3「
高橋紹運岩屋城太宰府市岩屋山(281m)    
  
   
島津義久は豊後侵攻を日向口と、肥後口の二手より攻め入る作戦であった。
   肥後口からの侵攻には、背後の強敵を駆逐しておく必要があった。それが筑前の高橋紹運親子の三城で
   あった。立花城の立花宗茂(統虎)、宝満城高橋統増、岩屋城高橋紹運である。
   高橋紹運は元の名を吉弘鎮理といい、宝満城城督として高橋鎮種、入道して紹運と名乗る。豊後国東都
   甲庄筧城で天文17年に誕生した。
   父は豊州三老と名を馳せた吉弘鑑理である。吉弘氏は大友氏家中でも武門の誉れ高く、祖父吉弘氏直は
   「勢場ガ原の戦い」にて大内勢を相手に総大将として、壮絶な戦死を遂げた。また紹運の兄鎮信の子、
   紹運にとっては甥子吉弘統幸は、大友の再起をかけた「石垣原合戦」で大友義統に従い、壮烈な討ち死
   を遂げている。
   島津忠長は伊集院、新納といった重臣に5万の兵で筑後に侵入勝尾城(筑紫氏)を降参させた後大軍で
   岩屋城を囲んだ。風土記では7月7日(天正14年)、戸次軍談では7月12日となっている。
   岩屋山は大宰府政庁「都府楼跡」西に連なる四王寺山の中腹に小山をならして築かれた豊満城の支城で
   あった。筑前國續風土記には「宰府村の境内なり岩屋ある故に城の名とする」とある。
   山城としては背後に高台を控え地形的に決して要害とは言いがたい。紹運は島津の再三の降服勧告を拒
   否、徹底抗戦を家臣に伝え、腹臣屋山中務少輔以下将兵全員が是に従った。
   島津忠長の攻撃開始は、7月14日と推定されている。島津軍の攻撃は熾烈を極めたが、紹運の抵抗も激し
   く島津被害も甚大であった。味方の被害に島津も、重臣新納を軍使として降参を勧めるが、紹運は是を
   断る。風土記では7月26日(7月27日、戸次軍談)島津軍総攻撃。
   高橋紹運以下763名全員玉砕。島津軍の被害も筑前國續風土記では「寄手の勢も士卒、三千餘人似討た
   れにけり。手負も千五百人餘とぞ聞えし」とある。
   実に岩屋城玉砕の6倍もの被害である。いかに紹運の迎撃が厳しいしいものであったか解る。
   後に、島津忠長が立花城を攻め切れなかったのも、岩屋より険阻な立花城攻め被害を心配し躊躇したた
   めとも云われる。

 
         
            岩屋城遠望(二日市より)              岩屋城本丸跡

        
    
                岩屋城二の丸跡 高橋紹運墓                 高橋紹運 首塚(二日市京町)


   4 「高鳥居山城
 福岡県須恵町、篠栗町(岳城山 381.4m)
   
   
岳城山は須恵町篠栗町の境界をなす山並みにあり、東には岳城より遥かに高位米ノ山、若杉山が聳える。
   現在では道路が整備され手軽に登れるため健康登山の場所となっている。登山路の途中には土塁や、空
   堀の跡を見ることができる。高鳥居城の名は、大きな高い鳥居があったことに由来するらしい。
   城の規模としては左程大きくはない。東に本丸があり、西へ一町ほどに二の丸大手門は西にあった。東
   から北は切岸で険しい。元は大内氏の配置した杉氏一族が居たが、天正期は開き城であったようだ。
   天正14年7月島津忠長の筑前侵攻時、高鳥居城には立花城の押さえとして、筑後國星野村、星野中務大
   輔吉実、同民部少輔吉兼の兄弟を置いた。島津軍は岩屋に続き豊満城をも落とし、立花城攻略にかかる、
   立花統虎へ降参の使いを出すが、統虎は拒否。秀吉へ支援要請の急使をたてる。
   攻撃を控えていた島津忠長も総攻撃の決断をするが、統虎は降参を装い援軍到着までの時間稼ぎの策を
   とる。やがて立花への援軍到着の報に八代に居た義久は撤退を指示。島津軍は8月24日各所に火を放ち
   撤退する。統虎は直ちに島津に追討をかける。翌25日高鳥居城に残された星野兄弟討伐に向かう。
   星野氏は元は大友氏に従っていた。誓詞を入れ七代までは大友に弓を引いたことは無かったが、義長の
   時謀反、義長は攻められ1000人もの討ち死を出している。
   高鳥居城は俄かに塀、櫓などを拵えた為十分な備えとはいえなかった。高鳥居城に篭る星野勢は300余人、
   寄せての立花勢先手の大将薦野三河守、小野和泉守500余人、搦め手須恵谷に毛利の応援200、序戦は鉄
   砲による戦死者も出るが、立花勢は火を放ち塀を破って押し込み、星野勢を追い詰める。

   
守将、星野吉実、吉兼の最期について「戸次軍談」は次のように書く。「大将中務大輔吉實ハ櫓ノ上ニ
   諸軍ヲ下知シテ居タリケル。立花次郎兵衛(戸次次郎兵衛)駆入テ一鎗突ケレバ、上帯ヲ突切ケリ。二
   ノ鎗ヲ突ントセシヲ急ニ奥ヘ逃入ケル。十時傳右衛門續テ追詰鎗下ニ突タホシ終ニ首ヲド取タルケル。
   吉實ガ弟星野民部ノ少輔ヲバ小早川隆景ヨリ十七騎ノ援兵ノ内、横山与三ト云ル十七歳ノ若者是ヲ討取
   ケル。城卒一人モ残ス切ツクシ。城郭ヲハ一片ノ煙ト焼アゲタリ」
   大将「吉實の首は十時傳右衛門が取ったが、傳右衛門は「首帳」には一番鎗の立花次郎兵衛(元の名、
   戸次次郎兵衛、立花道雪妹の子、父が早世したので道雪の下で育てられた。大変義に厚い武士だったと
   いう)の名を記すよう申し出るが、次郎兵衛は「自分は突き損じたのであって、正しくは討ち取りたる
   人こそ高名なり」と互いに手柄を譲りあった。これに統虎(宗茂)は故事に准え賞賛した。

  「吉塚の地名」
   この戦いで討たれた 星野吉實、吉兼の首は高鳥居城より西9kmの地に葬られた。人々はこの首塚を
   二人の「吉」の字を取って「吉塚」と呼ぶようになった。これが今にち福岡市東区吉塚の地名である。
   現在この場所には「吉塚地蔵尊」が祀られ手厚く維持されている。


          
                高鳥居城本丸跡の碑           登山道脇の三連土塁と空堀断面

                   
                    吉塚地名の由来、星野兄弟祀る吉塚地蔵尊(福岡市博多区)



  5「
津賀牟礼城大分県竹田市入田矢原(346m)

   
津賀牟礼城は大友氏の重臣入田氏の根拠地であった。しかし大友義鑑の重臣入田丹後守親誠は大友二階
   崩れの変で失脚。
   津賀牟礼城は重臣加判衆戸次鎮秀(宗傑)の子「戸次統貞(玄珊)」に与えられた。津賀牟礼城は肥後口
   からのルートを直下に見下ろす場所にあって、岡城攻撃侵入路の要の場所である。
   肥後口から豊後侵攻を図る島津義弘は肥後高森野尻へて、天正14年10月20日豊肥国境を越え波野原に侵入、
   志賀親次は波野原の十二口(12の場所)へ、志賀掃部助ら12名の甲者総勢1596名で迎撃する。
   駄原城、篠原目の戦いは激戦を極めた。義弘は22日には高城を攻め同夜、内応者「入田丹後守宗和」の
   高源寺緩木城に入る。10月24日統貞(玄珊)は義弘の策略で開城内応す


         
           
津賀牟礼城址遠望(竹田市入田矢原 346m)直下には名水の湧水群がある


  6「岡城と片賀瀬城
大分縣竹田市天神山、片ヶ瀬
  

   岡城は、藩政時代は中川七万五千石の城であったが、中川以前(文禄3年)は資料に乏しく、築城に
   当って幾つか説がある。最も語られてきたのは、緒方三郎惟榮が「源義経」を迎えるために築いたと
   する説であるが、研究者の間では否定する向きが強い。また南北朝建武の頃志賀貞朝築城説。さらに
   康安2年(1362)小弐冬資が岡城を根拠とした説。
   歴史上岡城の名が見えるのは、大野荘志賀村を本貫とする志賀氏が応安2年(1369)頃に直入郷の検
   断職を得た以降である。只直入郷での志賀氏の根拠地は騎牟礼峠の騎牟礼城であったのを、1379年に
   召し上げられたされているので岡城はその頃志賀氏によって整備されたと見られる。

   島津軍は天正14年10月23日片瀬田城(片賀瀬城の記述違いか)稲富新介率いる5000が先陣として布陣。
   続いて主力が集結する。片ヶ瀬原は岡城南、深い峡谷滑瀬川(大野川)を挟んだ向かいの台地である。
   直線で1qほど、豊後國志にも御門まで10町(約1100m)とある。
   稲富新介は、滑瀬の橋詰めまで足軽500下ろすが、志賀親次は大手口滑瀬の渡り橋詰めの川辺に土手を
   築き、矢狭間を開け鉄砲300丁で対抗、稲富勢は若干の手負いを出し引き上げる。島津義弘はその後も
   多勢を嵩に親次に人質を要求し入田宗和、赤星備中守らに攻めさせるが、親次は応じず「國崩し」で
   撃退。岡城は東西に連なる阿蘇溶岩の岩頂にあって、南北深い谷と川に挟まれ天険の要害である。
   12月2、5日島津義弘は、片ヶ瀬原の北側岡城を望む行灯山(アンドンヤマ)の岩屋に本陣を置き滑瀬
   口まで攻め込むが、志賀親次は狙撃で是を撃退する。
   義弘は稲富新介を殿として片賀瀬城に残し、12月22日には志賀道易の南山城に、24日には朽網城に入る。
   さらに玖珠郡野上に陣を進める。
   殿を務める稲富新介は、巧妙にはやり1000の手勢で滑瀬口の確保を図るが、親次は是を察知、狙撃隊を
   配し背後に兵を回す。稲富勢は敗走。天正15年2月親次は、2日より18日にかけ、日向口より三重に侵入
   した島津家久に奪われていた。岡城の砦(支城)、柏野塁、高尾塁(豊後大野市緒方町軸丸)、小牧塁
   (野尻)を奪回。守将甲斐重尚以下280名をせん滅する。
   天正15年2月28日、島津義弘は再び岡城滑瀬口に展開する。親次はこれに挑発矢文を射込み、岡城の出城
   鬼ヶ城(竹田市鬼ヶ城)での決着を誘う。島津軍はこれを受け鬼ヶ城に移動。
   親次も翌日魚住の崖鬼ヶ城に、1000の兵を三段に配置小渡牟礼の渡しに雑兵16人を瀬踏みさせ、島津軍
   に渡河場所を教える。
   島津勢が渡河し鬼ヶ城の坂半腹に至るまで志賀勢は音を立てずに潜み、三方(三口)より攻撃、島津軍を
   撃破首380をあげる。是を期に島津義弘は岡城攻撃を断念。

  (注)
ここに書いた片賀瀬城に関する文は当サイトの管理人が諸資料より編集したオリジナルです。
     webサイトに当ページを丸ごと転写されたものが見られます。

                
岡城址の位置関係

              
          
島津義弘陣跡「行燈山(アンドンヤマ)岩屋」 この場所は中世戦国期片賀瀬城より岡城下滑瀬口へ至る道路沿いに
              あたる。現在は道路工事で岩屋直下が掘削され寄り付けない。当時の古道は滑瀬口より戸次氏系片賀瀬氏の屋敷跡
              峠地区を抜けて片ケ瀬原(片賀瀬城)至る。30年ぐらい前までは通れたが、現在は藪になってしまった。
 


        
          現岡城址(滑瀬口より望む)           志賀時代の大手門下原門跡
                                     石積みは藩政時代のもの



  7「角牟礼城
大分県玖珠町(577m)
  
   
島津の重臣で鬼島津こと新納忠元にして、一見して人間技では攻め落とせぬと言わしめた難航不落の城。
   側面から眺めるとそれほどとも思えぬが、真正面から見ると確かに崖の城、忠元の言葉もわかる。
   森盆地から入った島津軍には威容に見えた筈である。伝説では、久寿2年源為朝築城とも言われるが、
   城址の案内板には、角牟礼の名が初めて文書に見えるのは、文明7年(1475)の志賀文書とある。しかし
   それ以前にも山岳宗教の堂宇があったようだ。歴史的には弘安8年ごろすでに森氏の詰城であった。
   天正14年12月岡城攻めを行っていた島津義弘は、新納忠元に6000の兵で角牟礼攻めへ向かうが、忠元は
   攻略は困難と判断、兵糧攻めの持久戦に入る。
   双方で何度かの攻め合いが行われ、黒田孝高の支援や、島津の火矢射てなどの小競り合いがあったが、
   豊臣秀吉九州入りの報に島津軍は撤退する。

         
              角牟礼城址遠望                角牟礼城 大手門跡
  


                        参考史料  筑前國續風土記 
                              戸次軍談(大分県立図書館)
                              大分縣郷土史料集成(大友興廃記)
                              大分歴史事典
                              筑前戦国史(吉永正春)
                              SuperMapple Digital(昭文社)
      



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