豊薩争乱辿る(2)

   1「朝日嶽城址佐伯市宇目(305m)

     朝日嶽城は天正10年島津の豊後侵入に備え、大友宗麟が野津院城主「柴田紹安」に命じ築かれた。
     中世日向から豊後へは、縣(延岡)〜北川〜八戸〜梓峠〜水ヶ谷〜小野市(宇目)〜三国峠〜三重市場が
     ルートであった。
     朝日嶽は日向口の要の場所である。しかし、府内からは遠く援軍を送るには不便。何の変哲も無い孤立し
     た山中に過ぎない。
     大友興廃記には、柴田紹安(紹案)は「大身であって一家一類多し」とあるが、紹安はかねてより処遇に
     おいて同族に比べ不満があり、興廃記も「内々恨みの細あって」と記している。紹安にしてみれば捨て駒
     にされたと考えたのであろう。
     紹安は、家臣の諌めも聞き入れず夜陰に乗じ島津軍に合流、豊後への案内を務める。紹安は妻子を星河城
     に避難させるが、謀反を知った栂牟礼城佐伯太郎惟定は、家老の高畑伊豫守配下、高畑新右衛門尉に星河
     城を攻めさせ、紹安の妻子を殺害する。
     紹安は後に、再び大友へ帰参しょうとするが島津よって殺害される。
     紹安には「裏切りもの」だけの汚名が残った
         

         
                 朝日嶽登山口                  本丸跡


   2「
松尾城
豊後大野市三重町松尾(273m)

    松尾城は天正年間、島津の侵攻に備え大友義統が重臣戸次氏に築かせた。
    島津樺山紹剱の残した記録では、頂上の建物は番屋程度の簡単な物だったようだ本丸跡は岩場で狭い、大掛
    かりな建物は無理。山麓に多くの曲輪跡、竪堀などが見られる
    松尾城は三重市場の馬喰商人で財を成していた麻生紹和の手引きで無血開城。島津軍は早くから馬喰商人に
    紛れた間者を紹和に送り通じていた。島津が三重に入った時は麻生一族総出で迎えたという。
    島津家久は府内攻撃の本陣を松尾城に置き、主力は麓に集結した。


         
 
                 松尾城全景(豊後大野市三重町内田より)         本丸跡の岩場


   3「栂牟礼城佐伯市古市(223、7m)

    栂牟礼城は、大友時代も唯一豊後大神氏一族を継ぐ佐伯氏の居城である。
    この佐伯氏も大永7年11月「佐伯惟治」の時謀反の疑いで大友義鑑に攻められ自刃する。
    栂牟礼城は南から東は番匠川本川、西は支川を井崎川さらに木立川が囲み、切畑口には提内川(ヒサギウチ
    カワ)が合流天然の堀をなし、山容は一見なだらかであるが、意外と急峻険しい地形である。
    天正14年10月豊後へ侵入した島津家久一万余は三重松尾城に本陣を置いた。島津勢が三重より、どの経路で
    栂牟礼に向かったかは正確にはわからないが、大友興廃記に「土民穴圍に籠る之事」と書き、因尾の井上と
    いう所で地元民が岸壁の岩屋に籠り通過する島津勢を撃退している。また「因尾通路斬之事」として37人を
    討ち取ったことが書いてあるので、島津勢の一隊が因尾経由で進んだ事がわかる。おそらく三重松尾城から、
    豊後狼煙場の一つ「拝楯山」を越えたとみられる。しかし、佐伯勢が弥生の切畑で島津の使僧ら19名を捕ら
    え殺しているので、主力は朝日嶽の重岡から、直見を経て侵入したとみられる。同記「堅田合戦之事」には
    義久二万で押し寄せると有るので、やはり直見方面から押し寄せたにちがいない。
    守る佐伯惟定は、堅田口に三段の構えで備え、中山峠へ1000余で押し出す。野津口大坂本に350騎、因尾口、
    切畑口も警戒する。薩州勢は2000余を汐月などに控え、川沿いに長蛇の陣をとる。これに対し佐伯勢は宇山
    の古城にのぼりを立てる。これに島津勢は柏江まで陣を下げる。さらに泥谷から汐月川を渡って江頭と引く。
    両軍は長池、普坂口で戦い、島津勢が長瀬原と引いたところに、佐伯勢は追ってをかけ、山に追い込み討ち
    取る。島津の栂牟礼攻めは失敗に終わる。島津の失敗は切畑口からの攻めは困難とみて、攻め口を堅田口
    に取ったことである。堅田は栂牟礼から遥かに遠く、栂牟礼城の堀をなす番匠川は、下流部は支川、派川が
    複雑に入り組み、干潮区域が中流深く入り込む、水深も有り渡河は難しい。結局島津勢は栂牟礼を遠巻きに
    眺めただけに終わった。
          
             栂牟礼城址(切畑口番匠川より)             本丸跡

          
          一段高い祠、佐伯惟治を操った          東に位置する戸上砦曲輪跡
             怪僧春好の祠



   4「
臼杵城(臼杵市、丹生島標高18,5m)
 
    臼杵城は別名「丹生城」とも言う。ここは中世には島になっており、周囲を海に囲まれ崖となっていた。
    東西に瓜状に広がり面積およそ40000u、大手は西の陸に近いところにあり、大手へは通路は岩を葛折
    に切り開いて造られていた。搦め手は寅卯の方向に、これも岩を穿ち船の出入りを自由にした。これを
    宇土野口といった。干潮時大手にはには歩いて渡った。現在は周囲は埋め立てられたので市街地となっ
    ている。大友宗麟がここに城を築いたのは定かでないが、1556年頃には義鎮の館があり築城は豊薩軍記、
    肥薩軍記集では、永禄5年(1562)に着手し翌6年6月に完成したことになっている。これは、大友義鎮が
    剃髪して「宗麟」と号した時期と一致する。

         
             現在の臼杵城址大手口、この当り当時海    通路は岩を切り出して造られている

    天正14年12月島津家久は2000余の軍勢で大友宗麟の籠る臼杵城攻めに向かわせる。臼杵城の兵力は十分で
    は無かったので、宗麟は水軍衆らと篭城作戦に出る。
    島津勢は平清水という所に陣を張り、先陣は臼杵川の右岸兎居島まで攻め込む。是に宗麟は、武宮武蔵守
    に命じ、宗麟が銘々した石火矢(大砲)「國崩し」に火薬一貫目、大玉、小玉二升ばかり詰め、島津勢の
    潜む三町(約300m)先定めて砲撃。これにより島津勢は大小の砲弾を浴び、倒れた柳の大木の下敷きと
    なる等多くの死傷者を出す。こうした状況の中、宗麟側近柴田礼農、統勝親子は、親類の島津に内応した
    朝日嶽「柴田紹安」が島津の中に居ると聞き、刺し違える覚悟で討って出るが、潜んでいた島津勢の鎗に
    討ち死する。
    その後も、双方に死者の出る小競り合いがあったが、島津軍も援軍無く、大友義統の援軍を恐れ三日余り
    で臼杵を引く。臼杵城の戦いは、宗麟のみせた戦国武将としての最後の気迫であった。

                 
                           臼杵城址の宗麟ブロンズ版碑
                       椅子の宗麟、南蛮船、火縄銃、國崩し、孔雀が
                       刻まれている



   5「戸次川古戦場
(大分市中戸次)
             天正14年12月12日(1,586)

    戸次川とは大河大野川中流部、中世の戸次庄から庄名を取った俗称である。
    場所は、現大野川中流に架かる「大南大橋」の直上流右岸付近で、当時は戸次庄「市村」に位置し、
    もとは戸次氏の本貫地であったところにあたる。
    戸次川合戦は、天正14年12月12日豊後に侵入した島津家久軍と、大友支援軍との間で大野川中流域、
    現中戸次周辺一帯で戦われた豊薩合戦最後の戦いである。整理上本文は、大友勢の戸次川渡河決戦、
    利光表鶴ヶ城攻防併せて「戸次川合戦」と呼ぶことにする。

                
 戸次川古戦場位置関係

    戸次川合戦は大友氏、島津氏の最後の戦いである。
    天正14年のこの時期大友の軍事力は、耳川敗戦以降著しく低下していた。それでも、大友家中は巨大
    である、一族が挙って集まれば、まだまだ相当の兵力となった筈である。しかし長い歴史に胡坐をか
    いた、宗麟の失政は家中に不満を募らせていた。大野、直入の城主を中心に多くが島津に内応、自領の
    保持を第一とした。
    島津の圧力に耐えかねた宗麟は、秀吉に謁見、秀吉の家人となって支援を要請。
    これに対し秀吉は先陣として「仙石秀久」「長宗我部親子」「十河春保」ら四国勢の豊州出陣を命ず。
    秀吉は四国勢に対し「決して島津の挑発に乗るな。軽はずみな行動とるな、新たな支援着くまで我慢せ
    よ」との趣旨の文を送り、軽挙な行動を戒めた。
    三重松尾城を出た「島津家久」率いる一万八千は、天正14年12月7日、府内と臼杵を結ぶ要所、鶴賀城
    (利光城)を叩くため、鶴賀城の南1km程小さな谷を挟んで大塔の梨尾山に陣を敷き、城を囲む。
    これに城主利光宗魚は城周りに逆茂木などの障害を巧みに設け、竹槍、投石等を備え、将兵700騎含む
    男女3000余りで篭城作戦をとる。
    島津軍は先陣伊集院美作守、二番手新納大膳正と攻め込むが多くの
討死をだす。島津軍は本塀を打ち砕
    き、二の丸まで攻め込むが篭城組みの抵抗は激しく、島津勢の戦死者は増えるばかりであった。遂に、
    「家久」は兵を一旦5町ばかり引かせる。この時城主利光宗魚は、引く島津軍を櫓の上で覗っていると
    ころを狙われ戦死する。それでも鶴ヶ城勢は宗魚の死を隠し通し、島津軍の攻めに耐える。
    この利光の戦いでは、双方で6000もの戦死を出したというが、島津軍は遂にこの戦いで勝利することは
    一度も無かった。
    鶴ヶ城の危急に、四国からの支援「仙石秀久」は長宗我部らの意見に耳をかさず出陣を主張、天正14年
    12月12日、四国勢に大友の連合軍は戸次川左岸鏡城に出陣する。その数凡そ八千騎とみられる。これに
    島津家久は驚き一旦陣を下げる。
    引く島津勢に仙石秀久は、渡河して島津追討を主張、長宗我部らの反対意見を退けて自ら戸次川を渡り
    はじめる。やむなく長宗我部、十河らもこれに従う。
    一方、大友方の兵力を探っていた島津家久は、大友軍の意外と手薄なことを見て取り檄を飛ばす。以下、
    九州諸家盛衰記「利光合戦
義統落府内城事」の記述。
        「
去程に12月12日の未明に、豊州勢戸次川に押渡し山崎まで押著けて段々の陣を
        取る。島津昌久(家久の間違い。以下家久)是を見て願ふ處の幸なり、味方一萬
        八千餘の軍士等、上方の両使と戦い討死せよ、生きて再び本国へ歸らんと思ふべ
        からず。只今義久方へ云い送るなりとて、書状を認め(したため)河上半蔵を使
        いとして、其座より故郷に歸し三段の備を以て脇の津留に押出し、豊後四国勢と
        相戦ふ。先鋒の伊集院、四国勢に戦い負け、四度路(しどろ)になって引く處を、
        利光の村中まで追討にす。家久大に怒り懸らんとせられし處に二番備の新納大膳
        三千餘騎にて佐古の口より東の方の、山の手に備へ居たりけるが、時分は能きぞ

        
掛かれよと、
仙石、長宗我部が陣へ、無二無三に突懸る。大将中努少輔家久も
        津留河原より一面に押懸らる。三番備の本荘(ほんじょう)も同じく進んで突入
        ったり、敵味方二萬四千餘騎、天維も落ち坤軸(こんじく)も砕けよと、喚き
        (おめき)叫んで相戦ふ。戸次鎮連が一男右近大夫統常は、父鎮連敵方に一味せ
        し事を無念に思ひ、新納(にいろ)が陣に突入り思ふ程戦ひ討死す。
        敵味方の討死二千餘人、死骸は積で屠所(としょ)の如く、血は流れて江河を成
        せり。長宗我部親信は、父元親と軍の下知して居たりけるが、味方の敗軍を制し
        かね、適中に切て入り、縦横無碍(むげ)に駆け立て終に打死をぞしたりける。」
        とある。この機に至って総大将仙石秀久は逃亡。義統も、「吉弘加兵衛統幸」の
        働きで府内へ脱出、さらに大津留河内守、宗像掃部助らに意見され高崎山へ落ち、
        中国勢の援軍を期待し龍王城まで逃亡する。
        最後の戸次氏当主「戸次統常」は、父「鎮連」が島津に内応したことを恥、その
        汚名を晴らさんと、尋常の覚悟をもって伝来の家宝を悉く焼き払って出陣した。
        (戸次系図裏書)戸次統常の墓は豊後大野市藤北の常忠寺にある。
        この戦いでは「戸次鑑連」とは従兄弟違い、休松合戦で戦死した戸次右馬助治部
        大輔親宗の嫡男、「戸次治部少輔鎮直」も戦死した。


                  
    
                 長宗我部親信の墓(大分市中戸次

        
   
           利光宗魚の墓         常忠寺戸次統常の墓(右端 豊後大野市藤北)



                                参考資料  大分県郷土史料集成(戦記篇)
                                      大分歴史事典
                                      大友興廃記(寛永14年、1637年)
                                      九州諸家盛衰記
                                      豊後の武将と合戦(渡辺克己著)
                                      九州戦国合戦記(吉永正春著)
                 

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