豊薩合戦辿る (3)

       島津乱入「 内通・抗戦・功名 」その時豊後では何があった
  

    
1、入田宗和島津豊後乱入を段取りした武将

     
入田宗和は」あの「二階崩れの変」の首謀者「入田親誠(親実)」の嫡男である。
     入田氏は大友氏の重臣として、豊後国直入郡入田矢原「津賀牟礼城」を本城としてい
     たが、「親誠」が阿蘇で討たれた後、「津賀牟礼」は「戸次統貞」に与えられた。
     天正7年「宗和」は大友に忠節尽くすことで許され、入田郷九重野「緩木城」に入る。
     入田郷に復帰した宗和は、旧領の回復のため度々津賀牟礼領内へ進入繰りかえし、遂
     に誅罰受け緩木高源寺を焼き討ちにあう。「宗和」は大友に忠誠を装いつつ、遺恨を
     捨てていなかった。
     「耳川の戦い」の大敗以降、豊後国内の「宗麟」「義統」の求心力は低下していた。
     その中「宗和」には島津の密偵が接触していた。宗和は島津に対し綿密な豊後国内の
     情勢を送っていたと見られる。宗和は、義統に異心の無きが如く行動しながら、島津
     の進入の手立てを整えていたのである。
     天正14年10月、義統は豊前馬が岳に居て、反大友強める「長野助盛、時枝平太夫」を
     討つため、豊前へ出陣していた「黒田如水」加勢のため兵を送っていた。このため府
     内の軍勢は手薄となっていたのである。この豊後手薄は、宗和によって島津方へ急報
     された。この報に島津義久は、10月18日豊後侵入を開始した。
     肥後口からの進入に対し宗和は、1000騎を以って迎え、地理案内に詳しい者を豊後、
     肥後境の十二の地点(十二口)に配置、この波野原一帯の地理条件を詳しく伝えた。
     このため、豊後勢は地の利を生かせず苦戦したという。

     
「入田宗和」は戦後島津へ同行した


    2、
麻生紹和

     肥後口の入田宗和に対し、日向口は「麻生紹和」が手はずしたとされる。
     「麻生紹和」は、豊後国三重郷の市場を牛耳る豪商(馬喰商人とも)であっという。
     「紹和」は、市場商人に身を隠した島津の密偵とたびたび接触していた模様で、早く
     より島津と内通した。おそらく「朝日が岳・柴田紹安」にも接触していた筈である。
     紹和一族は島津軍を総出で迎えたとされ、戸次氏の城代の籠る「松尾城」は「紹和」
     の手引きで開城されたといわれる。
     「紹和」は商人であるので、おそらく島津軍の大量の兵糧調達等、大きな利益得たの
     ではのではないだろうか。
     島津が退去する折、多くの三重市場商人を連行したとされる。


    3、
十二口出陣

     
天正14年10月20日、岡城(豊後直入郷)「志賀親次」の肥後国境守備隊より、島津
     軍は国境の波野原十二口(十二の地点)より進入する企てがあると急報された。
     是に「志賀親次」は、十二口の軍勢配置を次のように決めた。案内者たて、裏道に
     到るまで、鉄砲打ちかけの場所、槍合せの場所を定め、十二口共に一里から一里半程
     討って出、島津勢を迎え討つこととした。
    
            葎原 口   志賀掃部助   150人
            柏原 口   後藤遠江守   150人
            大塚 口   秦(進)肥前守 100余人
            大戸 口   中尾駿河守   130人
            野  口   阿南八郎    140人
            菅生 口   原田伊豆守   150人
            山鹿 口   大森大炊助   130人
            大利 口   朝倉土佐守   158人
            片俣 口   朝倉右京進   160余人
            田尻 口   丹秀右衛門尉   58人
            平川 口   朝倉伊予守   130人
            瀬戸 口   中尾右京進   140人   総勢 1596人

      
岡城志賀勢は、島津勢を追い立てることもあれば、退くこともあったがよく戦い、
     波野原一帯における勝手な蹂躙を許さなかった。
     島津勢は、入田宗和の情報により、詳しく地理を知り尽くしていたので、志賀勢も
     苦戦したという。
     11月25日、「新納忠元」率いる島津の後詰が、山鹿口より侵入するらしいとの報が
     入った。これに親次は、志賀道快、中尾伊豆守、原田伊賀守を派遣。この折、坂田
     地方の三十六人衆は、親次の作戦に従わず応戦、名のある武将多くが戦死した。
     しかし、原田伊賀の働きで島津勢を撃破した。
     このように志賀勢は、親次の巧みな戦法で各地で島津勢を破り、直入地方のの安全
     確保した。

 
    4、
駄原城の奇策
  
     
「駄原城」は、直入郡柏原郷戸上村にあった「岡城」の支城であった。城代には
     「朝倉一玄」
     駄原城は、島津勢「坂瀬豊前守」率いる軍勢に攻められていた。もともとこの城は、
     物見の為の砦であったので、朝倉一玄は大胆な作戦を立てた。
     この城に態と火を放ち、失火と見せかけ、この混乱突き島津勢は攻め入ってくると
     みて、城内の備えを固めた。
     城内より火があがると、思っての通り島津勢はまんまとこの作戦にかかった。
     島津勢は散々に討ち取られた。朝倉一玄はこれにより名をなした。


    5、
篠原目城の謀略作戦

     
「篠原目城」は志賀親次の重臣「阿南三右衛門尉惟秀」が、100余の僅かな手勢で
     守備していた。
     この城に天正14年12月24日、島津の将「白坂石見守」の600余騎が攻め込んだ。
     「三右衛門惟秀」は、この島津勢に軽く応戦して直ぐに降参した。
     惟秀は白坂に対し書状を送った。「主人の親次は大将の器に無く、恩賞に対しても
     不公平、このためかねがね不満があった。今は、一挙に親次に反し、島津に味方し
     忠節を尽したい」こうしたため城を開け渡した。
     さらに惟秀は白坂に「我等多年頼みとしてきた親次であるが、恨みも多い。まして
     や奉公も外働きばかり、いまでも、この重要な城に僅かばかりの兵卒で某を配置し、
     これは、只某を見殺しにする企てである。いまは、日ごろの鬱憤を晴らしたいと存
     ずる。親次が居城が岡城は、名だたる難攻の城ではあるが、島津の軍勢で攻めれば、
     落城はたやすい。しかし、某が城中に策を通じ、親次に反乱の者をつくれば、武力
     で攻め落とす必要もあるまい」と白坂を信用させた。
     その一方で、密かにこの旨親次に伝え、折を見て攻めるよう要請した。
     これに親次は12月28日、中尾伊豆守、大森弾正らに篠原目城攻めさせ、激戦の末、
     島津勢多く討ち取り奪回した。
     この作戦がうまくいったのは、当時豊後南部衆へは盛んに島津の内応画策があり、
     日和見的傾向強く、巧みに島津の裏をかきうまく利用したのである。


    
6、「老婆斬殺・高城
     
 天正14年10月、肥後口より侵入した「島津義弘」は、内応者「入田宗和」の緩木
     高源寺へ入った。着陣早々義弘は、岡城攻略の士気高揚にと、岡城支城「高城」攻
     めに懸かった。高城は標高320mほどの高台にあって、志賀氏の武将「佐田常仁」、
     「阿南勘解由之丞」ら僅かな手勢が守備していた。
     島津勢は小城と見て、難なく落とせると一気に攻め込んだ。ところが高城勢は、多
     くの「吊り石」「吊り木」を備え、攻めあがる島津勢へ向け次々と切って落としか
     けた。思わぬ反撃に島津勢は多くの損害出して退却。島津勢は攻撃を繰り返すが損
     害は増えるばかりで、遠巻きに城を囲んだ。
     攻撃が手詰まりの中、島津勢は地元の「老婆」を捕らえ聞いた。「高城は山上にあ
     って、さど水には不便しているであろう」と、これに老婆は「水はなんぼでも飲め
     るそうじゃ」としゃべってしまった。薩摩勢が其の訳を聞くと「城の殿様は大変な
     知恵者で、埋樋(伏せ樋)でわからないように、祖母谷の水を引いている」と答え
     た。是を聞いた薩摩勢はその場で老婆斬殺、埋樋を探し当て、水の手を絶った。
     是により「高城」遂に降参した。


    
7、「因尾穴圍砦之事

     
佐伯湾に注ぐ一級河川「番匠川」本川の上流源流近くに「因尾」と云う所がある。
     この場所は、西の佩楯山(はいたてやま・豊後国狼煙場の一つ)を越えるとその向
     こうは、島津家久の主力の入城した三重郷松尾城である。
     天正12年12月、因尾の地士は島津襲来に備え、「佐伯太郎惟定」に従い「栂牟礼城」
     へ籠城していた。このため、本貫の因尾在在の農民達は、みな因尾の里へに残した
     儘である。残された農民達は、島津勢の襲来を恐れて、山奥へ逃げる者、山中の穴
     圍へ隠れる者、隠れ場所見つかれば、何処へか逃げなければと混乱した。
     此処に記す、かの穴圍の岩穴は因尾井上という所にあった。麓は番匠川が流れ淵を
     なし、川より凡そ七町(800m)は、険阻な九十九折となって容易には登り難く行き
     当たる所は、一面の岸壁をなしていた。更にその上は山が高く聳えすばらしい景観
     この岸壁の十四間(25m)程の上には、小窓を開けたような岩穴があって、その中は
     さながら石畳の様に平らで広々としていた。農民等は、この岩穴の口迄に継ぎ梯子を
     掛け、あるいは大木に綱を付け、是を伝い上り、上った後は是を引き上げたので、
     鳥でも無ければ上れない要害であった。農民等は穴の口は板で圍い矢狭間を開け

     板の外には石吊りを並べ、崖下には焼竹削ぎ植え、或いは吊り弓を構え置いた。
     島津勢が押し寄せたならば、先ず綱を切り石を落とす仕掛けであったので、いかなる
     強敵も攻めあがること難しく、天然の要害となっていた。
     しかし、この穴圍に只一つ困ったことがあった。水の確保である。岩天井より水滴が
     滴り落ちていたが、12〜3人の喉を潤すほどしかなかった。農民等は大樽を幾つも集
     め持ち上げ水を湛え備えた。また雨水を伝え引くために岩穿ち溝をつけた。屈内には
     兵糧弾薬も蓄えた。

     
やがて薩摩勢は因尾の里に火を放ち、7〜800人をもって押し寄せ山探しを行い、捕ら
     えた者を案内人に穴圍を探し当て、先ず100余人が押し寄せた。是に待受けたる因尾
     の農民共は、吊り石を二〜三十切り落とした。押し寄せた薩摩の兵卒は微塵に砕かれ、
     手足を損じ上へ下への混乱となった。そこへ、穴圍因尾の農民共一斉に鬨をあげたの
     で、その響きは四方の山谷へ木霊し、薩摩の軍勢は大いに驚き再びこの因尾にいたる配
     ことは無かった。
     の穴圍籠りの因尾農民の井出達は、兜、籠手、喉輪、をさし、皮着物二重にし中には、
     筋金菱金を処々にいれ、厚皮の股引、脛当てして、鉈、長刀、爪無しなどを持って備
     えたという。


    8、「
因尾伏兵之事

      
天正14年12月12日1万8千の大軍もって、戸次川に大友軍を撃破した島津は、即日
     豊後府内へ入り警備を強化した。このため、日向縣(延岡)辺りから府内への往来も
     頻繁となった。
     南海部郡因尾の地を、府内往来のため島津勢が度々通るという情報が、栂牟礼城・
     佐伯惟定のもとに届いた。是を聞いた「惟定」は直ちに島津勢を討ち取るよう下知を
     下す。因尾の士、柳井左馬助、同外記、同平兵衛、同兵庫助、三代勘解由、柳井喜右
     衛門、同彌右衛門、吉良舎人助、杉谷兵部丞、同源四郎、稗田右馬助、同加右衛門ら
     主従朗党、12月17日因尾の地に討って出た。斥候(物見)を峰峰辻辻に配置し島津勢
     の往来を監視し、要所要所に伏兵を配置した。翌18日、斥候より日向縣の地士、戸高
     将監の三十騎馳せ来たるの急報がはいる。この日向縣勢に因尾勢は傳岩(岸壁の連続)
     の下、三蒲江大明神の前、川を隔てて両方より伏兵が一斉に切り立てた。そこへ、
     小板屋の里の伏兵も共に前後支えて切り立てたので、日向勢はことごとく川へ逃げ入
     り、向こう岸へと駆け渡ろうとした。しかし因尾勢は三蒲江大明神一之鳥居の左右、
     杉林、松林よりも討って出て、我劣らじと日向勢を討ち取った。敵将戸高将監は、
     因尾勢頭領の柳井左馬助が討ち取り、この時佐伯勢は三十七人を討ち取った。続いて、
     日向勢の一勢が通ろうとしたが、先の味方敗戦の報に恐れなし、山中に逃げ入る者、
     引き返す者と崩れ去った。因尾勢は皆勇んで追い懸けに掛かったが、柳井左馬助は、
     是を制し「宇目境、曲木峠までは切所なれば、窮鼠反咬のおそれあり、決して敵を追
     うべからず」と引き取らせた。
     この事件以降、島津勢の府内往来は、直入郡経由となったのである。


 
   9、「父の仇、討つ

     
 栂牟礼城「佐伯太郎惟定」家臣、「矢野美作守」は、島津が佐伯へ押し寄せた頃、
     惟定の勘気受け蟄居中であった。美作はなんとしても島津との一戦に高名を挙げ、家
     臣の列に帰参せんものと出陣、馳せ回って手ごろな敵を探した。彼は、高屋瀬という
     渡しに到った時、大の男の羽織の背中に「一足不去(一足さらず)」と金文字を付け
     た武者を見つけ、一気に馳せ寄って槍を合わせる。しかし、矢野美作は老武者ゆえ、
     渡りの飛び石に躓き、どうと突っ伏してしまった。此の隙を一足去らず馬乗りとなっ
     て美作の首を討ち取り、静々と引きいくところを、美作守が嫡男「矢野大炊助」は駆
     け馳せ追っかけ、遂にかの「一足不去」を討ち取り、親の首は彼の金文字の羽織に包
     み、「一足不去」の首は、太刀の先に貫き父の仇を討ったのである。


    
10、「手柄横取り

     
 佐伯惟定の家老「高畑伊予守」の手の者、島津軍日向勢の大将「新名治右衛門尉」
     の馬印を奪い取るてがらをたてた。是に高畑は大いに喜んで、この馬印を立てれば、
     日州勢は、そこに大将「新名」が控えていると心得て、方々の茂み、物陰より寄せ来
     る筈である。そこを取り巻き討ち取れと下知した。佐伯勢は高畑の企て通り、集まり
     くる日州勢を攻め立て、「新名新左衛門」を「汐月源兵衛」が討ち取る。
     さらに大越まで追討した。やがて日も「申の刻」も過ぎてきたので、高畑は「挙セ百
     廻り、百歩三舎」と云う事あり、引き取れと下知した。佐伯の諸勢は勝ち鬨あげ、意
     気揚々と引き取った。
     翌日、栂牟礼城では「佐伯惟定」の首実検が行われた。その折「泥谷左膳」の中間が
     敵の「兜首」を討ち取っていたことが判った。是に「泥谷志摩守」は「下郎が、取っ
     ては忽ち罰が当たるど、我に渡せ」と屁理屈付け奪い取ってしまった。
     侍大将たる者、本来なら褒めてやるべきが、自分の功名ばかり考える。時代は変わっ
     ても、何時の世にもこんなのがいる。


    11、
鬼ケ城決戦

      「鬼ヶ城」とは、豊後国「岡城」の支城のことである。今もその地名が残る。岡城址より
     長々と西へ延びる尾根の突端に位置する。途中の尾根幅10m〜20m程の所も有って、左右
     両側は切立ち崖となっており要害の地である。鬼ヶ城の周り三方は堀をなす大野川が廻り
     ここも東〜南は急峻な崖がも切り立ち、切通しに空堀も掘られ堅固な地形をなしていた。
     後世この場所は「西南戦争」の折、東の「鴻巣台」にかけ激戦地となった場所で、この戦
     いの戦死者弔った「千人塚」もある。
     この「鬼ヶ城」の地は「
豊薩合戦」天正15年2月28日岡城「志賀親次」が「島津義弘」に
     最後の決戦を挑んだ場所である。
     天正14年10月20日、肥後口より侵入した島津義弘は、同年10月22日先陣「稲富新介」率
     いる5000が岡城の南、滑瀬谷挟んで向かいの「片賀瀬原(片ヶ瀬)」に陣を敷き、
     続いて義弘率いる主力が集結した。
     先陣
稲富新介は、滑瀬の橋詰めまで足軽500下ろす。この滑瀬には「滑瀬橋」が架かって
     いたが、薩摩襲来に備え外してあった。「志賀親次」は大手口滑瀬橋、橋詰めの川辺に
     土手を築き、矢狭間を開け鉄砲300丁で対抗、稲富勢は手負いを出し引き上げる。
     島津義弘はその後も多勢を嵩に親次に人質を要求し、入田宗和、赤星備中守らに攻めさ
     せるが、親次は応じず「國崩し」で撃退。
     岡城は東西に連なる阿蘇溶岩台地の上にあって、南北深い谷と川に挟まれ天険の要害で
     ある。島津義弘は12月2、5日と、片ヶ瀬原の北側岡城を望む行灯山(アンドンヤマ)の
     岩屋に本陣を置き滑瀬口まで攻め込むが、志賀親次は狙撃で是を撃退する。
     義弘は稲富新介を殿として片賀瀬城に残し、12月22日に志賀道易の南山城に、24日には
     朽網城(山野城・豊後最大の山城)に入る。さらに玖珠郡野上に陣を進める。
     殿を務める稲富新介は、巧妙にはやり1000の手勢で滑瀬口の確保を図るが、親次は是を
     察知、狙撃隊を配し背後に兵を回す。稲富勢は敗走。天正15年2月親次は、2日より18日
     にかけ、日向口より三重に侵入した島津家久に奪われていた。岡城の砦(支城)柏野塁、
     高尾塁(豊後大野市緒方町軸丸)、小牧塁(野尻)を奪回。守将甲斐重尚以下280名を
     殲滅する。
     戦況膠着する中、天正15年2月28日、義弘は再び岡城滑瀬口に展開する。親次はこれに
     挑発矢文を射込み、岡城の出城鬼ヶ城(竹田市鬼ヶ城)での決着を誘う。
     矢文には「滑瀬は水量も多い、橋も外した」と書いてあったという。島津義弘はこれを
     受け鬼ヶ城に移動。志賀親次も翌日魚住の崖「鬼ヶ城」の坂に、1000の兵を三段に配置
     した。親次は、玉来川の対岸尾戸牟礼(小渡牟礼)に陣を敷いた島津軍に、尾戸牟礼の
     渡しに雑兵16人を瀬踏みさせ、渡河場所を教える。
     島津勢は列を成して渡河する。しかし志賀勢は、島津兵が鬼ヶ城の坂半腹に至るまで、
     音を立てずに潜み、三方(三口)より一気に襲い掛かり、島津軍を撃破首380をあげる。
     是を期に島津義弘は岡城攻撃を断念する。

      
 「島津義弘」出城の小競り合いには勝利するが、難攻不落岡城へは一歩も入れなかった。

     難航不落の城「岡城」は、東西に連なる岩山の尾根の東に築かれていたが、戦国期、
     南北より西にかけ切り立つ崖、しかも堀をなす河がめぐり人を近づけない地形であった。
     唯一の弱点は、緩やかな斜面の東の大手口「下原」であった。
     此処も川が遮っているので容易には近付けなかったと思われるが、島津軍が当時の城下町
     「十川(そうかわ)」へ入れなかったことが勝敗を分けた。

  

                     
参考資料  竹田市史 
                           九州諸家盛衰記
  ほか

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