戸次氏と戸次庄


                        へつぎのしょうこず
                  豊後國志 付図戸次庄市村付近現在も残る地名、
                    竹中、冬田、利光、門前、備後、嶺と
                    いった地名が見える戸次の地名は無い。


 「本貫戸次庄(へつぎのしょう)市村」
    
  「
戸次庄」は大神氏時代より大友時代にかけ戸次氏の本貫地であった。戸次庄(へつぎのしょう)は、
   大分市から豊後灘に注ぐ大野川中流域上下中戸次、竹中、中判田を中心に、北は東九州道付近松岡、
   成松、南は上尾あたり東は吉野原、西は霊山東あたりまで。実に東西南北8〜9km約60kuに及
   ぶ地域である。豊後國志によれば、37村あったことがわかる。しかしこの37村の中に「戸次」とい
   う地域名は無いので「戸次」は庄名を指しいる。
   藩政時代幕末の資料の中に戸次市組、戸次利光組といった地名が見えるが地域名なのか、戸次庄の
   市村、利光村を指すのかは不明。
   戸次氏は重秀以降代々37村の一つ「市村」に館があった。現在の戸次地区に「市」の地名は無い。
   豊後國志付図から照合するに現中戸次付近の、門前と大野川に挟まれたあたりに位置していたと見
   られる。藩政時代「豊後國八郡見稲簿」によれば、「市村」は大分郡の中の「臼杵領」に属し434石
   あまりであった。
             戸次氏の居住地は、大分市下戸次尾都留(高山)にも伝わる
             この地には、戸次鑑連に関る獅子頭伝説が伝わる。
  「へつぎ」の名が古文書に初めて見られるのは治承年間(1180)の九条家文書「皇嘉門院藤原聖子
   惣處分条・後白河院御本」に「布こうすきへつき」とあるのが初である。また九條兼實置文にも、
  「豊後臼杵戸次庄」とある。「布こ」とは「豊後」を意味する。
   これらの古文書から戸次庄は一時、「源季兼(スエカネ)」が豊後国守であった頃(1143〜1149)
   法生寺内井の最勝金剛院に寄進されている(大分歴史事典)概ね九条家に与えられていた。これを
   
戸次惟澄が知行していたのであろう。弘安8年に創られた豊後國圖傅帳によれば、「戸次荘九十町
   本家宜秋門(藤原任子)院跡、地頭職戸次太郎時頼(改時親)、同重頼、利根次郎頼親、各知行難
   所存知(各分領不明分」ある。寛永11年の検張では市村の石高は434石であるので25〜30町余りと
   なる。37村あったにしては豊後國圖傳帳の記す90町は意外と小さい。戸次庄の全てを戸次氏が所領
   というわけではなかったのであろう。
   戸次氏の豊後國圖傳帳に記された所領地は戸次庄をはじめ、大神庄藤原井手村、大神庄眞奈井野木
   乃井村、由布院、安岐郷守江浦、稙田荘福重名大野荘中村、國領柴山村と広範囲。累計すると375町
   (約6,000石)にもなる。これは当時としては 主家大友氏に準ずるものだったという。これを重秀は
   長男時頼、二男重頼(松岡)三男頼親(利根)らに与え、戸次時頼以外は地名を苗字として土着した。

  「
豊後武士団戸次氏
   鎌倉幕府により九州に鎮西探題がおかかれた時「關東後教書案」によれば三代
戸次貞直は永仁7年
  (1299)正月27日相模守(北条)貞時より鎮西評定衆に任じられている。
   また「鎮西引付記」によれば永仁7年4月14日、三番引付頭人は大友左近蔵人(貞親)で、戸次太郎
   左衛門尉(貞直)の名がある。北条随時時代には一番引付は戸次貞直、主家の大友貞宗は三番引付で
   あったので戸次に対する幕府の信頼の厚いことが察せられる。
   北条英時時代、一番引付戸次左近蔵人入道とあり、重頼と推定されている。さらに、嘉暦2年の鎮西
   評定衆には、大友貞宗と共に、戸次豊前、戸次蔵人入道とありそれぞれ、貞直、重頼と見られる。
   また、
将軍を警備の直近に属する九州30名の小番衆にも戸次の名が見える。
   この時期戸次氏は主家大友氏と並ぶ活躍をしたことが覗える。
   戸次重頼は松岡に、長興禅寺を創建し要翁玄綱(ヨウオウゲンコウ)が開山した。建武3年(1336)
   玖珠高勝寺城に篭城の、敷戸孫次郎、賀来弁阿闍梨(カクベンアジャリ)などが、霊山寺(リョウ
   ゼンジ)を占拠し、府内高國府(タカゴウ)に乱入した時。
戸次朝直は大手大将軍を勤め、評判を
   得た。戸次頼時も軍勢を催促し評判を与えている。
   大友千代松丸の名代「貞載」が、京で結城判官親光と組討死となってのち「朝直」「頼時」の戸次
   両名が大友一族の中心としておおいに活躍した。
   これにより、鎮西大将軍一色範氏(イッシキヨリウジ)より恩賞として、来縄(クナワ)郷司職と
   福成名や井田郷地頭職を預置かれた(大分歴史事典)。 
   建武3年即ち延元1年、足利尊氏の光明天皇擁立により北朝が誕生、後醍醐天皇の南朝との間で長い
   南北朝対立の時代を迎える。これに豊後勢も翻弄されていく。
   正平2年戸次氏四代頼時は、戸次(大神)朝直、大友氏宗らは南北朝双方に分裂していた阿蘇氏の
   南朝方阿蘇惟澄らと密約、南朝方に味方する旨の起請文を書き、これにより足利義詮(ヨシアキラ)
   は戸次頼時の阿南荘光一松名、別符波多方名を。朝直の大神藤原荘の領地を引き上げ、田原正曇
   (ショウト゛ン)宛行する。しかし翌年には、頼時、朝直共に幕府に降参、波多名、藤原荘の半分を
   それぞれ返されている。
   その後戸次氏は幕府への忠勤に励み、戸次頼時は領土を安堵され、応永元年(1394)には幕府奉公
   衆の推薦を受けた。しかし六代直世は足利三代義満の勘気を受け蟄居、奉公衆も停められる。以後
   戸次氏は長い不遇の時代に入り大友家の要職から戸次姓が消える。
   そして、九代親載の頃本貫の戸次庄をも追われ、大野荘藤北の里に館を移し鎧ヶ嶽城(藤北館の総
   称)を拠点とした。(鎧ヶ嶽は岩場で地形厳しく頂上も狭い、曲輪を構築出来る広さはない、建物
   は造られなかったと見られる)
   長く低迷した戸次氏も十四代親家長男「
戸次鑑連」の登場により目玉しい活躍期を迎える。
   鑑連は十四歳で初陣、勇将の片鱗をみせ天文十九年の大友二階崩れの変では首謀者入田親誠を誅伐、
   親誠は逃亡先の阿蘇氏に討たれる。鑑連はこれにより大友氏家督を継いだ義鎮(宗麟)の信頼を得、
   大友氏重鎮としてその名を馳せる。永禄6年大友氏加判衆〔家老)に名を連ねる。
   その後鑑連は秋月氏ら北部九州筑前筑後の統治に専念する様になる。
   「戸次鑑連」は生涯37度の合戦し、一度も負けなかったという。
   永禄11年西の大友として君臨した筑前國立花城立花鑑載が再度謀反これ討伐これをを契機に、元亀
   2年鑑連は戸次家家督を弟鑑方の子鎮連に譲り、城督「
戸次道雪」として立花城に入り、終世秋月
   氏や、宗像氏、中国毛利氏と対峙し盟友高橋紹運と共に主家に忠義を尽くすが。天正13年筑後出陣
   中病に倒れ陣没する。
   豊後國では道雪の猶子となって家督を継いだ鎮連は、島津の豊後侵入時に内応したとの讒言をうけ
   誅伐され、その子統常(統連)は父の汚名を晴らすべく長曾我部信親と共に戸次川(大野川中流部)
   の戦いで果敢に戦い壮絶な戦死を遂げる。
   戸次系図によれば、この時統常は出陣にあたり、尋常の覚悟を持って戸次家伝来の家宝書物を悉く
   焼き払って出陣したという。そのためであろうか戸次氏に直伝する記録は少ない。

   「戸次氏の分流」
   戸次氏は嫡子以外の庶子以外は各地に住み地名を苗字として土着していった。しかし十三代親宣の
   とき、本家と二派に分かれる。親続を初代とする片賀瀬戸次氏、親正を初代とする藤北戸次氏である。
   片賀瀬戸次氏は大野郡緒方荘の中の片賀瀬村に片賀瀬城を築き天正15年まで四代続く。
   藤北戸次氏の詳細は詳しく解らないが、系図に初代親正の肩書きに藤北とあり、のちの者たちにも
   同様の肩書きがあることから藤北戸次氏とした。藤北には戸次本家が居たので軍事集団とした役目
   が大きかったのではないか、系図では初代親正(小坂)、親繁(休松)、親宗(休松)、鎮直
   (戸次川利光)ら多くの戦死者が認められる。
                   
    戸次氏を姓祖とする苗字

          清田、松岡、冬田、利根、竹中、大神、藤北、片賀瀬、津守、臼杵、
          怒留湯、内梨、鵜木、平川、幸弘、小川、成松、井上、 など



                          
                               参考史料   豊後國荘園公領史料集成五(下)
                                        豊後国志(岡藩)
                                        大分県郷土史料集成(地誌篇)
                                        大分縣史(中世編T)
                                        大分県史料36(豊後國図傳帳)
                                        大分歴史事典
                                        筑前立花城興亡史(吉永正春)
                                        筑前戦国史(吉永正春)
                                        豊後八郡見稲簿
                  

                                    表紙へ