豊後参り(豊後参勤)

     「さながら大友氏の軍事パレード


     中世戦国期、豊後国では初秋「八朔太刀馬之儀」「柞原八幡宮放生」の盛大な行事があった。
    何れも「柞原八幡宮(古くは、由原あるいは由須原とも書いた)」を舞台にした大友氏の武威を国内外に誇示する
    一大イベントであった。こんにちでは、この行事を総称し「豊後参り」と表現する史家もいる。
    「柞原八幡宮」は「ゆすはら、あるいはいすはら」とも称し、大分市の西、サルで名高い「高崎山」の東の麓の森の
    中にある。「八幡様」即ち「応神天皇」ならびに「神功皇后」「仲哀天皇」を主神とする八幡宮で古くは豊後一ノ宮、
    中世大友氏歴代の崇敬を集めた。譜代家臣らもこぞって参詣した。
    「戸次鑑連」の父「戸次親家」夫婦は、健やかな男子の誕生を祈願し「鑑連」を授かったという。

     「八朔太刀馬之儀」とは、毎年の八朔、即ち「大陰暦」の八月朔日(1日)には、大友氏幕下の国内外の領主は
    伴の者を従え馬一頭を柞原八幡宮へ奉納した。八幡宮の広庭には、格式順に○○守など官名の附けられた杭
    に馬をつなぎ、重臣の検閲を受け大友家への従順の意を表した。
    この「豊後参勤」を怠った武将は異心ありと誅罰された。事実、筑後柳川の領主「蒲池鑑貞」は是を怠り、豊後へ
    呼び出され殺されたのである。
    「豊後参り」した領主たちは、このまま豊後へ留まり大友家の威勢をさらに目にすることになる。
    大友幕下の筑前、筑後の国人領主たちは、忠節を示すため領地を一ヶ月近く留守にしたことであろう。
    これは大変危険なことで、領地侵略、家中謀反の恐れは絶えずはらんでいたからである。

      毎年8月14〜15日は「柞原八幡宮・放生会御祭」の大祭が執り行われる。この祭りは六年毎に「神輿」が新しく
    され、古い神輿は国中の八幡宮の神輿となった。また、六十一年に一度は「大神御会」として盛大に催された。
    祭礼の最大の行事は、柞原八幡宮を立った三つの「神輿」が、花鎧を身に纏った六家三百人の騎馬武者隊が
    二列に先導し、衣冠束帯の大宮司、小宮司、歴代宮司に守られ、祓川の河口に開けた「かんたん」生石湊の御
    旅屋までの御幸行列である。
    国内外の大名たちも大房、厚房仕立ての馬を出し隋兵と共に延々と御幸に続いた。この警護には豊後の中の
    名のある武将が数千の軍を率いて当たった。
    生石の浜には、神輿の御座所仮殿が設けられ、浜の中央には大友御屋形の座す三十六間もの大桟敷が設け
    られた。中央に大友太守が座し、右座上には「小笠原」左座上に「田村」の両公方衆が座した。
    そして国内外の諸大名も官位格式に応じ列座し、きらびやかな御幸を見覧した。
    生石にある「由原八幡宮」の碑文によれば、この放生会は柞原八幡宮を開いた「延暦寺」の「金亀和尚」によっ
    て、文徳天皇(850年代)の頃より始まったとされ、
    大友氏の時代最も豪勢を極めたという。大友時代九州各地より参列した武家は270余家とされ、皆々駿馬を飾
    り立て、武将たちは思い思いの鎧甲を装い、隋兵を従え列を成した。その様は観兵式の如くであったという。 
    云ってみれば御幸行列は、大友氏の武威を示す一大軍事パレードでもあったのだ。

              
                      柞原八幡宮本殿を中庭より見る

    「柞原八幡宮」の放生会のことは、大友記大友豊筑乱記大友公御家覚書、大友興廃記の各書に伝えられて
    いる。
    「大友記」に伝えるある年の(恐らく登場人物より察するに、天文末より永禄の早期の年次と見られる)放生会の
    様子が伝えられているので以下に記す。

    豊後国の鎮守「柞原八幡宮」の御神事は、毎年八月十四日より明くる十五日まで放生会御祭として上古より執り
    行っていた。

    「其の年も恒例として、八月十四日牛の刻に柞原八幡宮より生石の浜、かんたん港へ御幸が行われた。御幸の
    奉列は、先頭の隋兵として一番には、大友氏有力諸家の「高崎、上野、牧、橋爪、賀来、宗像」の騎兵、色とりど
    りの鎧に三百騎二列になって先行した。二番手には「ちんとうと」といって鬼の面をかぶった鬼方と続き、三番手
    には僧衆百二十人、神輿の前後に供をする。四番には、宮司、小宮司、希代宮司、税所納戸(さいしょなんど)等
    という者たちが、金銀をちりばめて続いた。大行事は狭間三十騎ばかり、国内外の大名、小名も馬を大房で飾り
    随行した。 生石浜の警護には田北紹鉄、山下和泉守、彩り鮮やかな鎧を纏い、大きな馬に大房掛け乗り、従う
    警固の者三千余騎、これらも皆々照輝くばかりの甲冑を纏い浜を固めた。

    
このように伝えている。

     また大友豊筑乱記に、ある年御幸が暴風雨に遭遇した様子も伝えられる。
    「
其の年も恒例の御神事が行われていた。三基の御神輿が生石の浜に御幸奉ろうとしている時、俄かに天かき
    曇り、大風夥しく(おびただしく)吹き出し、雨烈しく、祓川(はらいかわ)の水溢れ、生石浜の御座所仮殿、この大
    風に悉く吹き倒され、茅葺竹木にいたるまで少しも残らず海中に吹き流され、三十六間の屋形桟敷も、浜中に
    仮設された多くの桟敷も、一軒も残らず吹き倒された。
    海中の白波は雷山の如くで、磯打つ波は高く、御殿の仮屋民屋在家まで少しも残らず、引き波に浚われみな海
    中に消えた。そして不思議なことが起きた。御幸し浜へ向かっていた三基の神輿は、俄かに重くなり御幸が困難
    となった。このため神輿はやむおえず十四日のうちに柞原八幡宮へ遷宮し、難を逃れたというのである。

    旧暦の八月は新暦では9月初秋、九州は台風の到来シーズンである。天気予報もなかった中世、海浜での祭礼
    には、この様
年もあったと見られる。神輿の重くなった出来事は、大友記、大友豊筑乱記、共に伝えている。

                
                 生石 祓川河口付近に立つ柞原八幡宮の大鳥居
                 写真の右手、木のある辺りに、こんにちのお旅所となる
                 由原八幡宮がある。
                川を挟んで右手「生石地区」、左手「かんたん(邯鄲)地区」
                邯鄲とは、中国の地名で様々な意味があるが、公式の地図
                では「函たん」と書いた。意味は不明。
                近年は「かんたん」と書くが、かってここには「遊郭」があり
                喜ぶ場所の「かんたん」と呼んだのである。
                 

   
 「浜の市」日本三大市のひとつ
    現在、柞原八幡宮の祭礼に9月14日より1週間「
浜の市」神幸祭とか中秋祭と呼ばれる祭礼がある。
    生石(御殿原)のお旅所(仮宮)まで、三柱すなわち応神天皇、神功皇后、仲哀天皇)の御神幸である。
    浜の市は、元は放生会の
祭礼市であったが、江戸時代府内藩主「日根野吉明」によって「新市」としてはじめられ
    たと言われる。
    宝暦2年の8月14日奉行所日記に浜の市の記述があるとされ、浜の市の立つ時は、豊後浦々の港には、多いとき
    には諸国より723艘もの船が集まり、八万人もの賑わいであっという。
    其の取引高は、銀837貫(約一万四千両)にも上った。取引の品物は、米、大小麦、大豆、そば、菜種、ごま、こん
    にゃく、たばこ、七島莚(
しっとうむしろ)などで、中でも豊後特産の「七島莚」は取引の大半であったという。
    浜の市は、江戸時代までは旧暦の8月に行われていた様である。当時この
浜の市は、金刀比羅の金市、宮島の
    
舟市とともに日本三大市とされていた。

    
「七島莚」
    「七島莚」とは、「七島藺草(しっとういぐさ)」で織った「畳表」のことである。通常の藺草は丸みがあって細いが、
    七島藺草は断面が三角形でやや太く、丈は1,5m以上にもなる。
    このホームページ管理人も子供の頃、通学路脇の溝に野生化株立ちした七島藺草を抜き、裂いて遊んだことが
    ある。原産地は奄美大島以南の亜熱帯の島々。豊後国では国東半島を中心に栽培されてきた特産品である。
    茎が太いため、三角形の茎を二つに裂いて乾燥すると丸くなり畳表の材料とする。普通の藺草の畳表に比べ数
    倍の強度があって丈夫なことから縁なし畳に適し、柔道場の畳としても重宝された。
    中世の頃より豊後の特産品として人気があり、琉球青表、豊後青表として10枚単位で取引されたという。

     (注)、生石の海に流れ込む祓川の河口左岸一帯に「
御幸」という地名が残っている。

                                               参考資料  大友豊筑乱記
                                                       大友公御家覚書
                                                       大友記
                                                       大友興廃記
                                                       筑後戦国史
                                                       大分歴史事典


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