宗麟物怪之事
「大友記」「豊筑乱記」「諸家盛衰記」などには、「大友宗麟」私生活での好色ぶりや、奇行のようなことが多く
伝えられている。この「宗麟物怪之事」は大友記の記す、その一つである。俄かには信じがたく、創作であろう
が書いてみた。
ある時「宗麟」の居室で不吉なな現象が起きた。見上げる天井になんと、血のついた大きな人の足跡が着い
ていた。しかし「宗麟」は、斯様なことはかってなかったこととはいえども、少しも臆せずその気配もみせずに、
「わが煩い平癒し、栄えるであろう」などと言って、驚いた様子も見せなかった。
またある日、館の御屋形座敷を廻る塀より小さな松の木が生え出した。ところがこの松、みるみる大木となって
枝を付け、葉を垂らしたのである。
座敷周りには、警護当番の侍達が控えていた。侍達はこの様子を見守っていたが、その松やがて次第に細く
なり、うつつ(まぼろし)のごとく消えていった。
「是こそ稀代の珍事かな」と思っていたところにある夜、宗麟公の座す畳の間より、六尺ばかりの「屏風」が現れ
出て消えていった。
「宗麟」の周辺にはこうした怪奇はこれらのみならず、様々に不審なことが続いた。家中の者たちは皆々、不吉
の前兆ではないかと気をもんだという。
御廉中御呪詛之事
是は、他のページで記した「大友義鎮出奔」の「大友記」の伝える異文である。義鎮の最終的に居た場所は
斉合するが、内容は大きくことなるので記した。
「御廉中」とは、武家の御屋形の室(奥方様)の事である。
「大友義鎮」は優れた武将であったが、いつの間にか酒肴好色に溺れるようになった。
二十歳前後の踊り子を召し出だしたり、色よき女であれば、たとえどんな卑しき者の娘であっても召しださた。
財宝与え、都よりは楽の役者を呼び、酒宴、乱舞、詩歌、管弦に日を送り、ひたすら好色の道へ傾いて行った。
この義鎮の不行儀に、御廉中は深く憎み愛想を就かした。
御廉中はついに、国中の社僧山伏を此処かしこに集めては昼夜の区別なく祈りをささげた。このさまに人々は、
何の祈祷かと不審しあった。御廉中はこの事を深く義鎮には忍んでいたが、義鎮の聞くところとなり、義鎮は
大いに怒り、一人残らず成敗せよと申し渡した。是に「吉岡三河守長増」は義鎮に詫びをいれ、皆を国外へ追い
払って、義鎮をなだめた。
そのうち不審にも、義鎮の姿が見えなくなった。家中の者、国中を尋ね歩くと、府内に近い古見浦というところに
入ることが分った。居た場所は柴葺きの庵で、とても御屋形様の住めるよな庵ではでなく、御伴の侍は一人も
おらず、無用心の軽々しさであった。
「これはいかなる事で御座いますか」と申し上げると、「紅葉の景色にひかれて出て参った。府内には思う仔細
あり、あかの江の上ノ原へ御座所を造れ」と申し渡した。
この義鎮の申しように、戸次伯耆守(鑑連)、臼杵越中守、斉藤兵部少はじめ御一門中、其の外内より、どの様
ことでこのような心変わりなのかその儀が分らない。上ノ原をご普請して御座所を置くなど、とても相応しくない
と、これはなんとしても府内にお帰り戴かないと、色々と申し上げても、一向に聞く耳持たず上ノ原に御当座し
続けた。しかし上ノ原は、探題の御座所でもあったことからも、義鎮はついに臼杵丹生島へと移った。
やがて義鎮は髪をおろし「宗麟」と号す。ご一門の老中達も思い思いに法体となった。義鎮の煩いの様子は続
いていたが、様々に養生、回復をまって府内へと戻っていった。

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