立花道雪
         (本名:戸次鑑連)
豊後国戸次氏十五代当主



    「
鬼将 戸次道雪 (柳川藩 立花氏祖)


                      
                  
戸次鑑連立花道雪)肖像 柳川市福厳寺(承諾済み)所蔵

                この肖像から道雪は、肩幅広く骨太、一文字の太い眉、ギョロ眼、厚い唇、
                手には日の丸印した軍扇、一見して猛々しい姿をしていたことが覗える
                「太刀」は「
雷切丸」であろうか。
                果たして「
道雪」は、猛将か、軍師か、策将か。



  「立花道雪」、元は「
戸次鑑連(ベッキアキツラ)」と云い入道して「戸次道雪(ベッキドウセツ)」
  後に筑前國立花城城督となり、大友義鎮より立花姓許され「
立花道雪」と改名した。
  (
)「戸次道雪」は生存中は「立花姓」を用いなかったとも云われているが、多くの近従家臣が道雪
      より立花姓」を許されている事より、生前には立花道雪と称していたのではないだろうか。
  豊後国大友義鎮(宗麟)の重鎮にして加判衆も務めた。勇猛果敢にして伝説の武将。生涯に37度戦い
  一度も敗れなかったという。歴代大友家中で最も勇猛な武将。鬼道雪の異名を持つ。紀伊守、伯耆守、
  丹後守、麟伯軒などと称した。 鑑連は永正10年3月17日(1513)戸次氏十四代「戸次親家」の嫡男と
  して、豊後國大野荘藤北戸次館で誕生する。母は由布加賀守惟常の娘「正光院」。幼名を「八幡丸」と
  いった。親家夫婦は子宝に恵まれず健やかな男子を願って「祚原八幡宮(ユスハラハチマングウ)」に
  祈願したという。
  鑑連の幼名「八幡丸」はこの八幡宮に由来する。八幡丸は顔相猛々しく尋常の赤子ではなかったとか。
  生母は翌年亡くなる。後添えは一族の流れを引く臼杵長影の娘が入り「養孝院」といった。養孝院は
  八幡丸を実子以上にいつくしみ養育したという。
  大野荘の原野は豊後大神氏の頃より駿馬を育て、馬を操り弓撃ちの技に長けた地域であった。八幡丸も
  家伝の名馬「戸次黒」を巧みに操り鍛錬を重ねたという。傳役(モリヤク)は海老名弾正であった。
  名を孫次郎と改める。
  大永6年3月(1526)十四歳で元服。大友義鑑より偏諱(イミナ)「鑑」一字もらい「戸次鑑連」。
  同年鑑連は病身の父親家に変わり、中国大内勢の篭る豊前國犀川「馬ヶ嶽城」に総大将として兵二千を
  率い初陣。機敏な作戦で功をあげ勇将の片鱗を見せる。

           うまがたけ
               鑑連初陣 馬ケ嶽(216m)福岡県犀川
                 10世紀半ば源経基築城という古い山城

                 天正15年に秀吉も宿営したとか
                 方向によっては山は一つに見える

  初陣のこの年、父「親家」死亡十五代にて家督を継ぐ。その後鑑連は各地を転戦、天文4年には大友に
  反旗の肥後菊池氏を「阿蘇谷の車帰し」に破る。
  天文19年2月10日大友家に騒動勃発「二階崩れの変」である。「大友義鑑」は嫡男義鎮を廃嫡にして
  側室の子「塩市丸」を後継とする事を重臣津久見氏らにもちかけるが重臣らは反発する。
  此のことで身の危険を察した重臣らは義鑑を襲い深手負った義鑑は二日後死亡。 鑑連は斉藤鎮実らと
  共にすばやくこれを収める。
  首謀者とされる入田親誠(ニュウタチカダネ)は逃亡先の阿蘇惟豊に討たれる。戸次鑑連この時38歳。
  天文23年11月再び肥後に出陣菊池義武を討伐、肥後路を開く。
  大友氏は義鎮の代となり、有能な家臣団の働きで中国大内氏らによって占拠されていた領地を回復。
  大友義鎮氏は名実共に九州一の戦国大名へと勢力を拡大する。
  義鎮には有能な家臣が多くいた。戸次鑑連、臼杵鑑速(ウスキアキスミ)、吉弘鑑理(ヨシヒロアキ
  マサ)、一万田鑑実(イチマンダアキダネ)志賀親盛(シガチカモリ)中でも鑑連は義鎮の信頼厚く、
  右腕として活躍。義鎮の九州六カ国守護は、これら家臣の活躍に背うところが大きい。
  また鑑連は、酒色におぼれ政道を顧みない義鎮には、戦国武将の本分を諭し諌めたいう。
  以後鑑連は、大友氏の大事に必ず登場し才覚をもって窮地を切り抜けていく。
  弘治3年7月(1557)二万の兵をもって中国毛利氏と通じ反旗したた「秋月文種」を古処山城に攻め
  文種を敗死さす。嫡男種實は毛利氏を頼って落ち延びる。後年優将に成長した「秋月種實」に鑑連は
  苦戦することになる。 
  永禄4年、鑑連は大友加判衆へ。同永禄4年門司城占拠する毛利勢を討つべく出陣するも、毛利勢の邀
  撃激しく決着付かず陣を引く。情勢膠着状態の中、永禄7年鑑連は大友毛利豊芸講和に尽力。しかし
  永禄9年11月、豊満城高橋鑑種が毛利に呼応、大友氏に反旗これを鑑連制圧、豊芸の和崩れる。
  この時期、父文種を討たれ毛利に身を寄せていた「秋月種實」は成長して本拠地秋月古処山に復帰。
  将兵六千を以って大友に備えていた。
  永禄10年8月大友勢は戸次鑑連を総大将に二万で秋月討伐に向かう。是がこん日でも「休松合戦」と
  語り継がれる合戦である。この合戦にて戸次鑑連は実弟「鑑方」従兄弟「鑑堅」、従兄弟違「親宗、
  親繁」、叔父「親久」ら親類縁者5人を含む家中五十余人が討たれる損害を出す。大友勢にとっては
  敗戦に等しい戦いであった。
  (休松合戦では、鑑連の5人の弟が戦死したとするのが通説となっているが、是は戸次系図に照合し
  間違いである。これは義鎮が合戦後「鑑連」に送った弔意文の解釈の誤りにあると思われる。
  この合戦については別途記す)
  永禄11年、西の大友として筑前一帯を支配してきた一族「立花鑑載」が毛利と通じ謀反。鑑連は立花
  城を落とし鑑載を自刃に追い込む。以後立花城は毛利氏との間で激しい争奪が行われる。
  一旦は、立花城は毛利の手に落ちるが、鑑連が毛利軍を多々良川合戦で破り、立花山は大友へ返る。
  立花鑑載の叛乱が発端とする筑前の混乱を収めた鑑連は、山隈城より筑後の高良山下「問本城」に移
  り門註所鑑豊の娘「
西姫」と再婚。「ァ千代」をもうける。
  元亀元年トイモト城より筑後赤司城に移った後、元亀2年(1571)には立花城「城督」となる。
  このころ入道して「戸次道雪」を名乗る。鑑連は、不安定な筑前筑後の統治に専念することとなり、
  豊後の家督を休松合戦で戦死した弟「鑑方」の子「鎮連(しげつら)」を猶子に迎え家督を譲る。
  やがて義鎮より大友氏族の名姓「立花姓」を許され「立花道雪」と称す。
  立花道雪は戦塵に荒れた立花山城を整備し、領地の統治に力を注いだ。道雪の所領は94ケ村三千町
  (およそ4万石)にも上ったという。
  同元亀2年、道雪は対立していた宗像氏貞(宗像大宮司家80代最後の当主)と和睦の証として氏貞の
  妹「色姫」を側室に迎える。色姫は立花山次峰松尾山に住み「松尾殿」と呼ばれた。
  時代は戦国末期、天正へと入る。まもなく養母「養孝院」が無くなる。
  天正4年、道雪は7歳の娘「ァ千代」に立花山城督を譲る。この時の譲り状が残されている。譲り状
  には武具、鉄砲、塩砂(エンショウ)、鉛のほか、米千斛(ゴク)塩、水甕(ミズガメ)、置薪とい
  った生活用品も含まれ興味を引く。
  元亀元年(1570)佐嘉今山合戦に大敗した大友氏は、天正6年11月日向に侵攻した。日向「高城耳川
  の戦い」では、島津義久、義弘らの巧みな野伏せ戦法に大敗、一気に翳りが見えてくる。
  筑前筑後で道雪、盟友高橋紹運が豊満、立花の牙城を死守する中、豊後では大友家中の志気は上がら
  なかった。道雪は十か条に及ぶ檄文を家中に送り奮起を促す。道雪は厳しい情勢の下、立花、高橋の
  絆を強固にするため、紹運の嫡子「統虎(後の立花宗茂)」をァ千代に迎える。
  統虎十五歳、ァ千代十三歳であった。
  天正12年道雪は筑後に出陣。黒木庄猫尾城の「黒木家永」を討つ。

               
                     黒木氏猫尾城本丸跡の石積み

  引き続き筑後に留まった道雪は、要害高良山に本陣を置き、続いて北野天満宮へと陣を異動するも
  高齢に加え、1年もの陣中生活に病に倒れる。
  天正13年9月11日筑後北野天満宮の本陣において高橋紹運ら重臣の見守る中遂に没す。生涯を戦に懸
  けた人生であった。時に道雪(鑑連)享年73歳。この時敵味方の区別無く、偉大な戦国武将道雪の遺
  体を見送ったという。大友興廃記は次のように書く。

   「道雪の遺体を僅か1000人で立花に送る。國中野心の武士も、道雪開陣と
                               聞いて、矢一筋も射ることなく」

  戦国争乱の中にあっても老将「立花道雪」を、敵味方たがわず多くの将兵が、優れた武将として見て
  いたことが察せられる。


                                
     
              道雪終焉の地 北野天満宮(久留米市北野町)  

  道雪の遺体は遺言に従い甲冑に固め、果たせなかった筑後制覇に、西の柳川を向けて葬られた。
  
        法名:梅岳院殿福厳道雪大居士(福厳院殿前丹州太守梅岳道雪大居士)
        墓は、福岡県新宮町立花口梅岳寺にある

     (逸話)戸次鑑連は若い頃雷に触れ足が萎えたという。しかし、休松合戦では
         自ら七度の太刀打ちをしたとされる。また鞍も下ろさず備えたことが
         戸次軍談に書かれている。
         立花城がけ下の戦いでは、九死に一生を得る激しい戦いをくりひろげ
         ている。
         休山、立花城崖下は地形急峻、輿での戦いは無理。これらのことを
         考慮すると、とても足が不自由では無理だったと思える。
         おそらく足が不自由になったのは、晩年になってからではなかろうか。
         この逸話からか、鑑連の愛刀を「雷切り丸」と呼んだという。


          
         
福岡県新宮町梅岳寺 道雪墓所 左腹臣薦野増時墓 中養母養孝院墓 右端道雪墓      

  「ァ千代姫」

   
戸次鑑連の娘、母は筑後國長岩城主門註所鑑豊の娘「西(仁志)」。
  永禄12年(1569)8月13日筑後國高良山下トイモト城で生まれたとされる。トイモトは「問本や富本」
  を当てたりしているが、場所は特定されていない。
  ァ千代は、鑑連にとっては初めての子供であった。慎しく育ってほしいと「
ァ千代」と命名。
  男子の無かった鑑連は、ァ千代を男並みに養育したという。立花城督となった鑑連は、戸次道雪そして
  立花道雪と改めた。天正3年5月ァ千代は7歳で立花城城督を譲り受ける。ァ千代は色白の大変な美形で
  あったが気性激しく家臣を手こずらせた。男子の欲しかった道雪は、盟友高橋紹運の長男「統虎」を
  ァ千代の婿養子にむかえる。時に統虎15歳、ァ千代13歳であった
  統虎は「立花宗茂」と改め城督は宗茂が継いだ。夫婦は大変仲睦まじくあったが、武門の血を引く両人
  は互いに気が強く諍いが多かった。道雪が北野天満宮で陣没後は、夫婦の間はいっそう距離を於くよう
  になった。
  九州を平定した豊臣秀吉は、宗茂に柳河十三万石を与える。柳川行きが決まった時、ァ千代は長年すご
  した立花山を出るのを拒んだという。また、多くのの周辺女子衆はァ千代との別れを惜しんだという。
  気の強いァ千代であったが地元衆には慕われていたのであろう。
  柳川に移ってからも夫婦の溝は深まるばかりで遂に別居。宗茂は宮永に別館を造りァ千代を住まわせる。
  別居の原因はいくつかの憶測があるがよくはわからない。「ァ千代」は住まいの地名から「宮永様」と
  呼ばれた。
  慶長5年(1600)関ケ原の戦い、ァ千代は徳川へ味方するよう宗茂に進言したというが宗茂は西方に
  付くも徳川の勝利、立花家は追討の危機に直面する。
  宗茂不在の中、ァ千代は甲冑に身を包み襲撃に備えたという。この時、ァ千代の下には200もの手勢が
  集まった。八院の戦い後宗茂は加藤清正に預けられるが、宗茂は自ら窮地を切り開くべく江戸へ向かう。
  ァ千代には声をかけなかったとされる。その後のァ千代の足取りは不明。
  柳川を出たァ千代母子は、義兄米多比三左衛門が世話したとされ、肥後国長洲の腹赤(ハラカ)村の庄
  屋の離れに住み、慶長7年10月17日34歳の若さで亡くなったとされる。
  熊本県玉名郡長洲町腹赤、腹赤中学校の近くにァ千代の奇妙な形の墓がある。地元の人は親しみを込め
  て「ぼたもちさん」と呼ぶ。その墓の形かららしい。
  説明版に次のように書いてある。
       「長洲町指定文化財、柳川藩主 立花宗茂正室 ァ千代の墓
                             光照院殿泉誉良清大姉」

   ァ千代の死因は気が狂い古井戸に身を投げたとも言われるが、墓が建てられたのはァ千代の死後実に
   33年が経っていた。建立者は宗茂、68歳になっていた。若き日正室に対する仕打ちの悔いの念であっ
   たとか。


             ぼたもちさん 
立花ァ千代 墓「ぼたもちさん」
  
                   熊本県玉名郡長洲町腹赤


  「色 姫

  
「色姫」は筑前國、宗像大宮司家第80代宗像氏貞の妹。
  元亀2年、宗像氏貞と戸次道雪の和睦の証として、道雪の側室となり立花城松尾山館に住み「松尾殿」と
  呼ばれた。
  天正12年3月24日自ら命を絶つ。38歳であった。(病死39歳とも)
  色姫の父は中国大内家に従っていた第77代宗像正氏である。母は大内家の重臣陶晴賢の姪照葉。正氏は
   大内氏に仕えるため、周防の黒川というところに住んでいた。
  色姫の母照葉は正氏の側室で、正室は宗像氏の白山城麓の山田館の「山田局(やまだのつぼね)」娘に
  「菊姫」がいた。色姫の出生地は兄氏貞(幼名鍋寿丸)と共に周防黒川庄である。
  天文16年父正氏が死亡。宗像家は正氏の甥「氏雄」を正室の子菊姫の婿に入れ、78代宗像家を継ぐ。
  しかしこの氏雄も大内家の陶晴賢の叛乱の時大内義隆に殉じた。そこに陶一族の血を引くを「鍋寿丸
  (氏貞)」を宗像大宮司家後継者とする話が持ち上がる。
  是には、氏雄の実父、弟、正室山田局などが反対。菊姫を立てようと図るも陶一派は次々と刺客を向け
  幼児まで含む反対者を暗殺する。そして悲惨な事件はおきた。身内を次々と刺客に襲われ、山田局、菊
  姫、4人の侍女、花尾局、三日月、小夜、小少将は白山麓、山田館でひっそりと暮らしていたが、陶の
  送った刺客一団に襲撃される。皆女ながら刺客に立ち向うも全員が殺される。
  うして、宗像大宮司家、第80代「氏貞」が誕生する。
  しかしこの後、山田館襲撃者に狂い死にがでるなど宗像郡内に奇怪なことが続き、地元民は山田の祟り
  と恐れたという。
  「色姫」はすくすく美しく育ち12歳のころ、母照葉と遊びに興じていた。ところが色姫は突然母照葉の
  喉笛に噛み付き口から鮮血を滴らし「われは山田の怨霊なり」と叫んだという。
  事件のことを知る由もない色姫の行動や異変に、氏貞は自分の相続が関わっていた事を知り山田の里に
  増福院を建て菊姫ら犠牲者の霊を弔った。これが今にち、安産祈願の寺院「山田地蔵尊」として地域に
  親しまれている禅宗「曹洞宗の増幅院」である。
  数奇の運命を辿った色姫は、男たちの領地争いの犠牲として、立花道雪の側室となったが小金原の戦い
  で、宗像若宮の郷士達が叛乱を起こした時、道雪は色姫の住む松尾山訪れ宗像勢を口汚く罵ったという。
  これを苦に色姫は自殺したとも言われる。


       
         道雪側室色姫の墓(古賀市石瓦)          菊姫、山田局の墓(宗像市山田)
         法名 當院開基竹龍田妙渭大姉 




                            参考資料  戸次軍談(彦城散人・複製版)
                                  筑前國続風土記
                                  九州諸家盛衰記
                                  大友興廃記

                 
                    表紙へ