立花道雪の死(2) 
                             立花道雪の死(1)



    
立花道雪戸次鑑連)」は天正13年9月11日73歳で逝去した。史家の研究によれば終焉の地は筑後 
    「北野天満宮」であったとされる。
     道雪の死を伝える資料としては「
戸次軍談」「大友興廃記」があるが、どちらも場所の記述は無い。
     わずかに大友興廃記に「幸い当所寺であれば」とあり、場所が寺であったことが記されている。
    「道雪」の病気に関することは「米多比文書」の中に付き添って看病した者の名前があり、「立花
    (戸次)右衛門大夫」「立花(戸次)次郎兵衛」「立花(戸次)勘右衛門」らの名が記されており、
    これらの者は、皆道雪近親の者たちであることから、おそらく道雪の様態が相当に悪化していたこと
    がうかがえる。
      以下、
戸次軍談巻之五立花道雪病死之事」を参考に書き下した。

    「
白鷹」のことがあっての後「立花道雪鑑連」は高齢老體とあって、多年の軍労に気力も徐々に
    衰えていった。何かにつけその所動が重くなり「紹運」はじめ豊州の諸将は日夜相談し、医者をつか
    い、祈祷を尽くし、様々手を尽くせども少しも好転しなかった。
    人に奪魂の冥使あるは世の習いといえ、終焉の時もはや近いと見られたとき「道雪」は「由布雪荷」
    「小野和泉」を近くに呼び、委細遺言残し、天正13年9月11日享年73歳にて薨卒(コウソツ・みまか
    る)した。
    「道雪」の死は、一族家中はゆうに及ばず豊後の諸将、良寛僧都、高橋家の諸士に到るまで、闇夜に
    灯火の消えたる如く、孔明の卒せし有様であった。中でも「高橋紹運」の嘆きは大変なもので「生前
    は様々に列し行動を共にしたのに、死して屍と列(ツテネン)とは空しいばかり、先立たれ残った自
    分、この先如何にすればよいのか」と嘆いた。この時の紹運の心中を推量すれば実に哀れであった。
    紹運は「道雪」の遺言を各武将に述べた「我が遺体は決して立花山へ連れ帰ってはならぬ、思う仔細
    ある間(筑後制覇)高良山麓に葬るべしと申された。よってこの地へ納めたい」と。この言葉に
    「たとえ遺言あってもそれは甚だよくない、我等がこの地にある間は良いが、筑前に帰った後は、此
    処は敵地のことなれば、雑兵の馬の蹄に駆けられるような事があれば、これほど悔しいことはない。
    直ちに立花へお供すべき。」と次々に異議あって、容易に一決しなかった。
    この時由布雪荷が言った「道雪公を此処に葬れば、どうして一人留めておかれようか。某腹掻切って、
    泉下のお供仕るべし」と言えば「それは尤もな申しよう。皆々も死する事はいとわぬ」一座の者大方
    殉死と極めた。
    その時、薦野彌介進み出て「各々鎮まりたまえ、先ず立花へ飛脚を遣わし「統虎様」も此処へお連れ
    参らせ御自害お勧めし、その後何れも切腹しかるべし。此処に在り合わせる人々は「統虎様」の御為
    には、左輔右弼(サホウヒツ)の臣である。「道雪公」お亡くなりになった今、各々を杖柱とも頼み
    と思われるべし。面々ここにて切腹あらば統虎様は未だ若年のことなれば、誰おかを頼りに御遺跡を
    踏まなければならない。敵の為に死を択ぶより、亡き「道雪公」と共に遺業を成す方がよほどましで
    ある。死を究めることは安いが、生きて功を為すことこそ、よほど困難である。各々、そこのところ
    よく思案して生死決せられよ」理を尽くしての申したので、一同の者みな、口を閉ざすのみであった。
    かくして「統虎」は、「十時摂津守」「薦野三河守」を使いとして、「道雪」の遺骸を急ぎ立花へお
    供致せとのことに、皆々薦野彌介の理に従い、仰せに随い「由布雪荷・小野和泉」先手、「紹運」を
    殿に、諸将「棺」を守護して敵地の中、立花への長い路を押し進んだ。しかし、敢えて近づく敵もな
    く無事に立花へ着いた。

      立花山城では「統虎」は甲冑身に装い、その上に喪服羽織、城外にまで出て「棺」迎えた。
      「道雪」の遺骸は甲冑姿のまま「梅岳院」墓所に、西「筑後」に向け葬られたという。
  

                          
参考資料  戸次軍談(彦城散人)
                                       



  
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