立花道雪年表                        
西暦 年   号
  氏   名
  場  所                 出 来 事
  
 1478

 文明10年

 戸次 親家
  
 鎧ヶ嶽城


 13代「戸次親宣」の子として誕生
 後の戸次氏14代「戸次常陸介親家」  
 「戸次鑑連」の父

 1513
 
 永正10年
      3月17日

 戸次八幡丸
 
 藤北の里

 八幡丸誕生     後の 戸次鑑連(立花道雪)
               
戸次鑑連・ァ千代・色姫 
 豊後国大野荘藤北丸山  「藤北館」


 1526
  

 大永6年3月

  八幡丸
 (戸次鑑連)

 藤北館

 八幡丸 14歳で元服 大友義鑑より諱一字もらい
 「戸次伯耆守鑑連」と称す。
 

 大永6年
 
 戸次 鑑連
    初陣

 豊前
 馬ヶ嶽城

 戸次 鑑連初陣

 病気の父に変わり豊前出陣「総大将」務。、中国大内勢の
 籠る馬ヶ嶽城夜陰に乗じ落す。 早くも勇将の片鱗

 戸次 親家

 藤北館
 鎧ヶ嶽城
 
 戸次14代親家没す  享年49歳

 戸次 鑑連
 
 鑑連戸次15代家督継ぐ
 鎧ヶ嶽城主(1526〜1554)
  
 1535
 
 天文4年秋
 (車帰しの戦い)

 戸次 鑑連
 戸次 親宗
 
 肥後国
 現在の
 阿蘇赤水
 

 菊池の謀反に鑑連3000騎を率いて出陣
 合志勢が内応してきたがこれを断る。親宗奮戦する

 1546

 天文15年

 戸次 鑑連
 
 筑前国
 古処山
 
 秋月 文種大友に反旗
 大友義鑑、戸次鑑連、佐伯、臼杵、吉弘ら10000の兵を
 差し向けこれを鎮圧

 1550
 
 天文19年2月
       10日
 大友二階崩れ
        の変
 戸次 鑑連
 
 
津賀牟礼     城
 (入田)

 
戸次 鑑連
 二階崩れの変、の首謀者重臣入田親誠を攻める。
 親誠は阿蘇惟豊を頼り逃亡するも
 逆に討たれ、首を豊後に送られる。
 鑑連は二階崩れの事後処理で地位を築く。
 

 天文19年8月
 
 肥後国
 隈本城

 戸次鑑連を総大将に大友軍35000は肥後に進出
 菊池勢撃破。 隈本城落す。

 1554

 天文23年10月
  13日〜15日

 戸次鑑連ら
 大友軍

 門司城
 
 大友軍1万5千  毛利勢総崩れ  門司城奪回

 1557

 弘治3年7月7日
      〜12日

 戸次 鑑連

 古処山城


 総大将戸次鑑連率いる大友軍2万、秋月古処山に
 秋月文種攻める。  秋月文種自刃。
 嫡男 種實は脱出中国毛利氏頼る
 1559
 永禄2年8月

 戸次 鑑連

 宗像領
 許斐城
 蔦  嶽
 白山城

 宗像氏貞の城攻めるも徒労に終わる
  
 1561
  

 永禄4年 又は
 永禄6年の説

 戸次 鑑連
 
 宗像領


 大友加判衆 臼杵鑑速、吉弘鑑理と共に三老の一人
 宗像大宮司家の城攻める

 永禄4年7月15          日
 (香春岳城合戦)

 戸次 鑑連
田北刑部少輔
田北民部少輔
 田原 親賢

 香春岳城

 戸次鑑連、毛利勢の原田義種籠る香春嶽落す、 義種自刃
 香春岳城とは、現田川市の石灰採鉱山「一の岳」中腹にあった
 山城である。香春城は、応永年間は大友の配下、千手興房が
 守っていたが、中国大内氏に攻められ婦女子共々自害。
 大内後も、毛利大友の間で争奪が続いていた。
 
 
 永禄4年9月2日
 (門司城合戦)

   
    10月10日
    10月26日
    11月 5日
    11月 6日

 戸次 鑑連
 田原 親賢
 臼杵 鑑速
 吉岡 長増

 門司城

 門司城は大友氏の守将怒留湯主人に与えられていた
 この門司城を元就は義鎮との密約を破って攻め落とす。
 おさまらない義鎮は門司城取り返す行動に出るこれが発端で、
 二ヶ月に及ぶ門司城攻防が行われる。
 鑑連は布刈神社近くまで攻め入る。
 ポルトガル船門司城砲撃

 明神尾の激戦
 大友軍総攻撃 鑑連800丁の弓、鉄砲使用
 大友軍は攻めきれず夜陰に乗じ撤退。陸戦は互角であったが、
 毛利の小早川水軍の待ち伏せなど大友軍苦戦。

 1562

 永禄5年
 

 戸次 鑑連
 
 鑑連入道して「麟伯軒道雪」と号す

 1563
  
 
 永禄6年1月
 
 戸次 鑑連

 豊 前

 毛利勢の籠る豊前松山城攻める
 松山城は背後を海に囲まれた要害。攻めきれず
 以後大友氏は松山城より手を引く

 永禄6年1月27日

 足利 義輝、戸次鑑連に対し豊芸和談につき、義鎮に
 意見加ゆべく命ず

 1564

 永禄7年

 戸次 鑑連

 


 酒色に溺れる宗麟の行状諌める

 1565

 永禄8年6月
      7月4日
 立花城謀反発生

 立花 鑑載 

 筑前国 
 立花城

 西の大友として君臨してきた立花城
 立花鑑載最初の謀反
 戸次鑑連、吉弘鑑理、立花城包囲  立花鑑載降服

 1566

 永禄9年2月吉日

 戸次 鑑連

 大野荘
 上津神社

 豊後国大野荘「上津神社」へ「金幣寄進」

 1567

 永禄10年8月          14日

 秋月 種実

 戸次 鑑連 
 臼杵 鑑速
 吉弘 鑑理
  ら大友軍
 
 

筑前秋月  休山
  茄子城
(安見ヶ
    城)
 
 

 大友軍に攻められ自刃した秋月文種の嫡子「秋月 種実
 中国毛利に身を寄せ優れた武将に成人。古処山に帰還し
 旧臣らを集め侮れない勢力となっていた。

 大友義鎮戸次鑑連ら三老に2万の軍勢を与え秋月種實攻める、
 1日に七度もの鎗あわせ、鑑連も自ら太刀打ちの激戦
 秋月も1万2千の軍勢で互角の戦い

 永禄10年8月         15日

 大友軍は秋月の?城休山茄子城落とす
 戸次鑑連休山(休松)に陣を敷く 
 守将坂田越後守諸正自刃。介錯で飛んだ諸正の首の落ちた
 首淵(つぶろぶち)の名のつく地名今も残る。
 
 秋月勢居城の古処山に退去


 (注) 休松は現在「安見ガ城」と呼ばれているが、明治の頃
     までは「休山茄子城」と呼ばれていた
 

 永禄10年9月3日
    9月4日未明
    
 休山茄子城合戦
 (所謂休松合戦

 戸次 鑑連
 戸次 鑑方
 戸次 鑑堅
 戸次 親繁
 戸次 親宗
 戸次 親久

 戸次 鎮連
 戸次 鎮秀

 戦いは二十日に及ぶ中、毛利襲来との噂が大友軍に流される
 大友陣中からは理由をつけて筑後勢らが引き上げ始める。
 大友軍は一旦軍を筑後まで引くことにする
 大友軍撤退の報に秋月種實は4000の軍勢で、撤退前の大友
 臼杵、吉弘陣地に夜襲(未明)を掛ける。。
 大友軍は大混乱、戸次陣地へなだれこむ、おりしも鑑連陣地
 朝飯中。突然のことに同士討ちを演じる混乱、鑑連は悠然と
 握り飯を口に放りこみ兵を叱咤励まし陣を建て直す。
 鑑連、朽網、清田、一万田、田尻勢が踏みとどまりかろうじて
 討ち返し兵を筑後赤司城から山隈城まで引かせる。
 この戦いで戸次一族は甚大な被害を蒙る。
 家中の討ち死五十余人、中でも鑑連実弟「鑑方」叔父「親久」
 従兄弟「鑑堅」従兄弟違い「親繁、親宗」の親族5人が首を
 取られる 。
 (この合戦で戸次鑑連の弟5人が戦死したとするものがあるが、
  系図、米多比戦死帳などの検証より、これは間違い)
 また、田尻家中にも多くの戦死だす。

 この戦いは、伝える書によって異なるが、大友軍には負けに
 等しい合戦であった。
 特に、戸次軍の損害甚大
 
 
 永禄10年12月         23日
 
 戸次 鑑連    大友義鎮、鑑連に対し、宰府社家人の忠意を糺させ不忠の者
 に 誅罰を加ゆべく命ず

 1568
  

 永禄11年2月5日

 戸次 鑑連

 上津神社

 豊後大野市 上津神社(上津八幡大神)鰐口寄進
 
 永禄11年2月
 (立花鑑載謀反

 立花 鑑載 

 立花城
 
 清水左近将監率いる毛利勢8000芦屋に襲来。
 立花鑑載、高橋鑑種と示し合わせ再び大友に謀反。
 同意しない大友に忠義の薦野三河守、米多比大学を謀殺
 立花山白岳守将、怒留湯融泉 脱出して大友へ連絡。
 
 
      同4月6日
 

 立花鑑載挙兵 中国毛利史清水軍8000に高橋軍あわせ
 10000余騎にて備え
  
     同4月24日
 
 戸次 鑑連
 臼杵 鑑速
 吉弘 鑑理
 戸次 鑑直
戸次次郎兵衛

 鑑載誅伐の大友軍30000余騎立花城包囲
 先陣は切岸まで押し詰める
 3ヶ月を要する合戦の始まり

     同7月4日
  
  立花城崖下の戦い

 戸次 鑑連
 戸次 刑部
 戸次 治部

 総攻撃 鑑連軍は苦戦、敗色濃厚のところへ、戸次刑部、
 戸次治部らが駆けつけ挽回。
 鑑連は敵の弓撃ち狙撃に至近から狙われるが、内田玄悠の
 兄が中にいり身代わりとなって即死。鑑連命拾う。
 この戦いでは鉄砲が使われたと言う。
 

    同7月23日
  立花城合戦
    
   立花城陥落
 立花鑑載
      自刃


 戸次 鑑連
 

 大友軍は要害の立花城を攻めあぐねていた。鑑連は密かに
 諜略をまわし、立花鑑載の将「野田右衛門大夫」を内応させる。
 右衛門は木戸を開け大友軍を場内へ手引き、立花城は遂に
 陥落。鑑載は立花城を僅かな配下とともに脱出、一旦支城の
 古子城へ落ち延び立て直しを図ったが、兵が集まらず新宮浜
 目指す。途中野田右衛門に見つかり鑑連に追い詰められ、裏
 切った右衛門を罵りながら共の者とも自刃す。

 238年続いた大友氏直系の「西の大友」は終わる
 

 大友宗麟は立花城の守将として
               津留原掃部助、
               田北民部丞
               臼杵進士兵衛   を配置
 
     
    同8月7日

 戸次 鑑連
 
 筑前国

 大友宗麟 鑑連に対し立花城攻めの功で感謝状

 1568

 永禄11年8月
       19日

 戸次 鑑連
 秋月 種實
 古処山
 戸次鑑連秋月へ軍進める
 種實おそれをなし降参
 

   同11月25日

 戸次 鑑連
 
 
 筑前国
 山隈城

 鑑連山隈城より高良下「トイモト城」へ移る
 トイモト城の位置は未確認
 筑後耳納連山発心山の北の麓「富本」を指す説もあるが
 高良下にはずいぶんと遠い。
 高良下の麓本村に「城」と言うところがある。この当りでは
 
 
 1568
 
   同11月28日
   (鑑連 再婚)
 
 トイモト城

 門註所鑑豊の娘「仁志姫(西姫)」と再婚。男女二人の子伴う

 1569

 永禄12年正月

 戸次 鑑連

 佐賀城
 (佐嘉城)

 戸次鑑連肥前佐賀城攻め出陣
 同年3月攻撃開始

 1569
  
 永禄12年4月         15日

 立花城

 毛利軍筑前侵入着陣 立花城包囲

    同5月3日

 毛利軍立花城の水脈を絶つなどの策を使う
 宗麟は一旦城を開けるよう命令
 大友軍撤退

    同5月5日

 戸次 鑑連
 戸次 玄珊
 戸次 宗傑

  博多

 大友軍30000 博多に集結

    同5月6日
 (多々良川の
        戦い
 
 筑前国
 多々良川

 立花城奪回をかけた戦い
 鑑連自ら鎗を手に奮戦
 

    同5月18日

 多々良川合戦最大の激戦。両軍鉄砲使用
 大友軍35000、毛利軍40000、中世九州戦国史上最大の戦
 い。戸次鑑連猛攻撃、毛利軍数町引く。大友軍大勝利。

 永禄12年8月「戸次ァ千代」誕生
    同10月12日
 戸次 鑑連
 臼杵 鑑速
 吉弘 鑑理

  芦 屋

 毛利軍は立花城に野瀬兵部ら200余り残し撤退開始、
 大友軍追討、毛利軍3491人の戦死
 
 同10月13日大友の三将は毛利追討し芦屋に入る。
 三将は筑前擾乱の元凶は高橋鑑種とし、豊満城を攻め
 切腹させることを決める(芦屋会談)
 1570
 元亀元年3月

 戸次 鑑連
 大友 親貞

  佐 賀

 脅威となりつつある肥前竜造寺を攻めるため、大友宗麟出陣
 高良山に本陣を置く。
 大友軍は60000、佐賀の北へ長蛇に陣を張る。
 総大将大友八郎親貞は西の今山に、戸次鑑連は東の柿村へ
 迎える竜造寺軍5000。
 
  大友親貞は圧倒的な戦力に勝ち戦とばかりに慢心
 戦意低く油断酒宴。
 
 竜造寺軍は緻密な情報収集に加え、地元郷士の士気高く
 20日未明、形勢不利と見た鍋島信昌は手勢僅か800余りで
 大友親貞本陣の背後山に回り一気に奇襲をかける。
 大友軍は酒盛り最中、不意打ちに大混乱。
 総大将の八郎親貞も山沿いに逃亡将とするが待伏せに合い
 討たれる。
 統制の抜けた大友各隊は筑後方面へ逃亡。この中にあって
 鑑連は殿を務め陣を動かず防備を固め陣を引いたと言う。
 この戦の大友軍の戦死は2000に上った。
 
 この合戦を契機に筑前筑後における大友離れが顕著となる
 大友衰退の発端とも言える。
 元亀元年8月20日
   (今山合戦
 鍋島 信昌
 大友 親貞

 戸次 鑑連

 1571

 元亀2年

 戸次 鑑連
     色姫
 筑前国
 
 宗像氏貞の妹「色姫」戸次鑑連の側室となる
 (実質は和睦の人質)
  鑑連 58歳  色姫 23歳

       
 
 元亀2年5月6日

 戸次 道雪
 
 立花城

 戸次鑑連 立花城へ入る 立花城督。 「道雪」と号す
 所領94ヶ村 3000町

 1574

 天正2年3月

 戸次 道雪

 立花城

 立花城に石火矢(大砲)二門着く
 後に「国崩し」と呼ばれる

 1575
  
  

 天正3年3月23日

  養孝院
 
 立花城

 戸次道雪養母「養孝院」没す。 墓所は「梅岳寺」

     同5月28日
 
 戸次ァ千代

 道雪は7歳の「ァ千代」に立花城督を譲る
 この時の道雪の譲り状が残る。生活用品から武具まで興味を
 引く(立花文書)

 1578
 

 
   天正6年
       1月
   土持氏攻め

 大友 義統
 戸次 鑑連
 戸次 宗傑
 田原 親賢

  縣城
松山城とも言う
 (延岡)

 日向の国は長く、伊東氏が日向48城と呼ばれる如く栄華を
 誇っていた。
 一方薩摩では島津四兄弟が結束して勢力を拡大していた。
 この島津に対し、伊東三位入道義祐は、元亀3年5月3日
 島津義弘が守る真幸院(えびの盆地)を押さえる為、
 伊東加賀守祐安ら3000にて加久藤城を攻める。後年九州の
 桶狭間と喩えられる「木崎原合戦」である
 伊東軍は義弘の巧みな戦術と、油断が重なり大敗の返り討ち。
 この敗戦により伊東氏は一気に求心力失い、地元土豪たちは
 島津へと靡く。其の一人が縣城土持親成である。
 土持氏は、耳川以北を領地として大友に予同していたが、
 この時期大友の顔色覗いつつ島津へ内応していた。
 この土持親成を討つべく宗麟は、嫡子義統以下有力重臣率い
 る30000で一気に縣を攻め六代134年続いた土持氏は滅ぶ。

 戸次一族も鎮連、宗傑が第七陣として出陣した

 宗麟の土持氏攻めは「耳川合戦」の発端と共に、大友島津の
 所謂「豊薩争乱(豊薩合戦)」の発端となった。

                豊薩争乱辿る(1)
                豊薩争乱辿る(2)
                豊薩争乱辿る(3) 参照
 

 1578

 天正6年12月3日

 戸次 道雪
 高橋 紹運

 岩屋城
 
 秋月種實、筑紫広門の連合軍が大宰府に攻め込むが、道雪、
 紹運これを撃退するも、道雪軍の被害大

 柴田川の戦い
 
 天正6年
 戸次道雪
 森  鎮実
 猫ヶ城

 鷹取城「森鎮実」、宗像氏の端城「猫ヶ城」に」押し寄せる



 1579
 

 天正7年4月
 戸次 道雪  二日市  二日市の戦い

 天正7年8月14日
(天正8年8月23日)
      ?

 戸次 道雪
 筑 前
生の松原

 道雪は志摩半島柑子岳城(254m)の大友方木村鑑實の支援要
 請に、食料救援。 帰路この地方の藩大友原田勢に襲撃される
 天正8年8月23日とするものあり
  

 天正7年7月27日

 戸次 道雪
 高橋 紹運


 大宰府
 岩屋城

 再び秋月、筑紫連合軍大宰府に攻め込むがこれを撃退
 
 天正7年8月

 戸次 道雪

 箱 崎

 宗像氏貞、麻生、原田、などの反大友軍、多々良川左岸箱崎に
 攻め込むも戸次道雪これを退ける
 
 天正7年9月11日

 戸次 道雪
 十時摂津
 安楽平城  佐賀竜造寺 安楽平城攻める。 
 道雪小田部紹叱救援、十時遣わすもするも落城
 
 天正7年9月18日

 戸次 道雪

 鞍手郡

 戸次道雪、高橋紹運、宗像領鞍手に攻め入る


 1580
 
 

 天正8年2月

 戸次 道雪
 十時摂津守

 筑 前
 早良郡

 立て篭もった肥前竜造寺に味方する郷士討つ
 

 天正8年2月3日

 戸次 道雪

 月隈村

 砦(切寄せ)築く

 天正8年2月16日

 戸次 道雪

 立花城

 道雪、豊後の重臣たちに大友危機を説き奮起を促す檄文発す

 天正8年3月
 
 戸次 道雪  筑前国
 宗像氏貞大友と和睦。氏貞妹「色姫」どうせつに輿入れ
 道雪 58歳  色姫 25歳

 天正8年5月
 戸次 道雪
 森  鎮実

 筑前
 遠賀郡
 上底井村

 道雪は鷹取山城森鎮実に、宗像氏の端城猫城を攻めさせるが
 鎮実合図を違えて敗走する、

 天正8年7月

 戸次 道雪
 竜造寺隆信
 
 筑 前

 道雪、竜造寺隆信と和睦。西九郡隆信領。東六郡大友領

 天正8年9月

 戸次 道雪

 筑 前
 穂 波
 道雪、紹運 秋月種實と戦いこれを破る

 1581

 
 

 天正9年3月6日
 
 戸次 道雪

 筑 前
 那珂郡
 麦野村
 

 道雪保塁築く

 天正9年8月18日

 高橋 統虎
 (戸次統虎)
 戸次ァ千代

 立花城

 高橋紹運の嫡男「統虎」養子縁組 立花城へ
 統虎 15歳  ァ千代 13歳
          後に立花ァ千代

 天正9年11月6日

 戸次 統虎
 戸次 道雪
 高橋 紹運 

 穂 波
 潤野原

 戸次統虎初陣(後の立花宗茂
 秋月方の敵将と組討これを討ち取る

 天正9年11月12日
       〜 13日
  (小金原の戦い)

戸次道雪
    手配


 戸次越中
 戸次右衛門
      大夫
 薦野 増時
 足立 式部
 由布 惟信

 古野神九朗

筑前若宮
 小金原

 戸次道雪、統虎親子は、鞍手郡鷹鳥城(630m)城主森鎮實の
 飢饉を救うべく、米300表に800の兵で救援に向かわせた。
 途中宗像氏貞領内を通過するので、道雪は事前に了解をとった
 しかしこれには立花、宗像の和睦をよしとしない若宮郷士の不満
 根強く、機会をねらっていた。行きに秋月方が襲ってきたがこれは
 のけ米を届ける。翌13日帰路、若宮の若党郷士が待ち受けてい
 たが、川の水位の変化に気づきまちぶせを察知。戦いは激戦とな
 り、夕方にまで及ぶ、立花勢は勝利するが重臣足立式部を始め
 多くの戦死者を出す。若宮方は、郷士の殆どが討ち死全滅
 応援の秋月方にも多くの損害出す。
 この戦いで、足立式部を倒した「古野神九朗」の墓が、現在若宮
 ゴルフ場に残る。
 
 道雪は約束破った宗像勢に怒り、立花山松尾城の色姫〔松尾殿)
 を訪れ、、口汚く宗像勢を罵倒したという。道雪と色姫がうまくいか
 なかったのは、こうしたことも原因したであろう。
 
 

 1582

 天正10年2月


    
      同4月

 戸次 道雪

 早良郡
 山門村
 生松原

 山門村の郷士討伐に向かう
 帰路道雪、いきの松原で原田勢と鉄砲戦。手負い87人月


 
戸次統虎、原田の久辺野砦落す

 天正10年3月16日

 戸次 道雪
 小野 和泉
 由布 雪下

 宗像郡
 八 並
 許 斐

 小金原合戦のシコリを残す道雪は、宗像への侵攻を命ず
 しかしこの時は徒労に終わる

 1582

天正10年11月18日

 戸次 道雪
 戸次 統虎
 
 立花城

 戸次道雪、大友宗麟より「立花姓」許される
 立花氏の名跡継ぐ。 「立花道雪」と称す

 立花城西の御殿にて道雪重臣二十数名えお招き御旗名字を
 継ぐ祝宴開く。この時の着座順が「米多比文書」に残る
  家老七人 「由布甲斐守家続」「堀越後守入道東雲」
         「十時興五郎連秀」「安東助五郎家栄」
         「由布源兵衛尉惟延雪下」
         「森下備中守入道釣雲」「安東紀伊介宗忠」

  また重臣に、戸次越中守、戸次次郎兵衛(立花次郎兵衛)
          戸次右衛門大夫(立花右衛門大夫)らが見える

 1583
 

 天正11年3月15日
 
 立花 道雪

 許斐城

 立花道雪3000の兵で、宗像氏貞の支城許斐城を攻める
 宗像民部逃亡、宗像氏貞も白山城へ退去。
 許斐は立花勢が入る

 1584 
 
 天正12年3月24日

  色  姫
  道雪側室

 立花城

 色姫は、立花、宗像の和睦の証として、道雪の側室となって
 いたが悲運の生涯閉ず   享年39歳
 「當院開基竹龍院妙渭大姉」 墓地は古賀市青柳石瓦にある
 墓標は一枚岩の転石で立派である

 天正12年7月

 立花 道雪
 高橋 紹運
 筑 後
 黒 木

 盛夏の中道雪、紹運、3000の兵引連れ黒木家永籠る猫尾城
 攻める。 家永自刃、娘が介錯。
 この時道雪は「輿」で進軍したと言う

 1585
 

 天正13年9月13日
 (立花 道雪死す



 立花道雪の死(1)

 立花 道雪

 筑 後
 北野
  天満宮
  陣中

 道雪の筑後出陣は長期になっていた。高良大社を本陣に各城
 攻め、筑後鎮圧中がであった。天正13年夏、道雪は酷暑の中
 北野へ陣替え北野天満宮へ。道雪は高齢のうえ暑い中での陣
 替えの疲れで発病、一旦は持ち直すが重臣たちの見守る中
 遂に没す。  享年 73歳
 13歳の初陣以来、大友宗麟の片腕として主家に忠義を貫き、
 生涯を合戦に身を投じた誠の戰國武将であった。
 道雪は生涯37度の合戦に臨み一度も敗れなかったと言う。
 晩年下半身不随となっても輿にて出陣したと言われる
 道雪の死によって大友の筑後制圧は頓挫する。
 道雪の遺体は敵味方見守る中、1000人の兵に守られ立花城
 へ送られる。
 
 道雪の終焉を大友興廃記は次のように書く
        「國中野心の武士も道雪開陣と聞き、矢一筋も射る
                                ことなし・・」
  
 道雪の墓は、新宮町立花口の梅岳寺に。養母「養孝院」
                 側近「薦野増時」とともに眠る
         法名:梅岳院福厳道雪大居士
             福厳院殿前丹州太守梅岳大居士
     

 1602

 慶長7年10月17日
  (ァ千代 没す

 立花ァ千代
 (戸次ァ千代)

 肥後長洲
  腹赤村
 庄屋伊蔵
   納屋

 柳川でのァ千代は宗茂との折り合い悪く、宮永に別居
 宗茂が領地召し上げられてからは、寂しい余生であった。
 長洲腹赤(はらか)、庄屋「古庄九朗右衛門」屋敷に住み
 此処で没した。 享年 34歳
 気が狂ったとも、井戸に身投げしたとも言われる。
 墓は、没後柳川藩に復帰した「宗茂」が14年をへて建立した
 という

  法名 : 光照院殿泉誉良清大禅尼
  神号 : 瑞玉院
 
 ァ千代の墓はその形から「ぼたもちさん」と呼ばれている



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