岩屋玉砕

 
      このページは「戸次 鑑連」の盟友「高橋 紹運」の最期を「戸次軍談」より記述する

      岩屋古城とは、筑前国続風土記の編者「貝原益軒」が同風土記の中でつけた「岩屋城」の呼び名で
    ある。 (筑前国続風土記は、元禄元年(1688)益軒59歳の時編纂の許可があり
    元禄16年(1703)に黒田藩主に献上されたという。益軒は同記の中で多くの山城に古城と銘打っ
    ている)
    風土記によれば、宰府村(当時御笠郡)の境内にあって「岩屋」が有ったので城の名前としたとある
    築城者は「高橋三河守鑑種」、鑑種は大友宗麟の家臣「一万田左京大夫親敦」の二男、兄は「一万
    田弾正」である。筑後国御原郡高橋城の「高橋三河守長種」は世継ぎが無かったので、大友氏に乞
    うて鑑種を養子としていた。高橋氏は「原田」「秋月」「江上」らと同族で姓祖は「大蔵春実」と
    される。 この一族は「漢高祖」の末孫とされているが、「劉邦」のことであれば、前200年頃の
    人物「漢」の国創建者、これはやや疑わしい気もするが、大蔵氏は渡来人だったのではないか。
    高橋氏は筑後国の住人で有ったが「岩屋、宝満」を取立てれば名城となるとの話を聞き、両城を築
    き「宝満城」を本城に、「岩屋城」を端城として御笠郡を領し、近郡を切従えていた。
    大友宗麟は「鑑種」を筑前肥前の先手として守らせた。鑑種も忠節を以ってこれに当った。ところ
    が、鑑種の兄「一万田弾正」の妻は容色に勝れ美形であった。「大友宗麟」元来は色欲強く弾正の
    妻を得るため理由も無く殺してしまう。兄を殺された鑑種は宗麟に激しい恨みを持つ。そして永禄
    10年秋月種実、中国「毛利氏」と通じ大友氏に謀反。 これに宗麟は、「戸次丹後守鑑連」臼杵
    越中守鑑速」「吉弘左近大夫鑑理」ら数万の軍勢で鎮圧に向かわせる。「鑑種」は「宝満城」に籠
    り抵抗するが永禄12年頼みとする「毛利」の北部九州から撤退で遂に降伏、小倉へ送られ大友の
    三老は切腹を決めるが「一万田」を通じ命乞い助けられる。その後再び謀反に至るが天正7年病死。
     元亀元年(1570)宝満、岩屋城には吉弘鑑理の二男「鎮理」が城督として入り、「高橋主膳兵衛
    鎮種(紹運・ジョウウン)」と称した。時に23歳。
    これより16年後、天正14年(1686)「高橋紹運」は「島津忠長の5万の軍勢」を相手に岩屋城
    兵763名ともども玉砕するのである。
    
忠長は伊集院、新納といった重臣に5万の兵で筑後に侵入勝尾城(筑紫氏)を降参させた後
    大軍で岩屋城を囲んだ。風土記では7月7日(天正14年)戸次軍談では7月12日となっている。
    岩屋山は大宰府政庁「都府楼跡」西に連なる四王寺山の中腹の小山を均して築いた宝満城の支城で
    あった。筑前國續風土記には「宰府村の境内なり岩屋ある故に城の名とする」とある。
    山城としては背後に高台を控え地形的に決して要害とは言いがたい。紹運は島津の再三の降服勧告
    を拒否、徹底抗戦を家臣に伝え、腹臣屋山中務少輔以下将兵全員が是に従った。
    島津忠長の攻撃開始は、7月14日と推定されてている。島津軍の攻撃は熾烈を極めたが紹運の抵抗も
    激しく島津被害も甚大であった。味方の被害に島津も、重臣新納を軍使として降参を勧めるが、紹
    運は是を断る。風土記では7月26日(7月27日、戸次軍談)島津軍総攻撃。高橋紹運以下763名全員
    玉砕。 島津軍の被害も筑前國續風土記では「寄手の勢も士卒、三千餘人似討たれにけり。手負も
    千五百人餘とぞ聞えし」とある。実に岩屋城玉砕の6倍もの被害である。いかに紹運の迎撃が厳し
    いしいものであったか解る。
    後に、島津忠長が立花城を攻め切れなかったのも、岩屋より険阻な立花城攻め被害を心配し
躊躇し
    
たためとも云われる。
  


            
                                岩屋城址二の丸の紹運」の墓


    以下に、「
戸次軍談」・「島津攻岩屋城事高橋紹運死節」より「岩屋城合戦」を記す。
    原文はカナと漢字で書かれ、しかも古文体、読みづらいので現代風に読み代えて記すが、管理人は
    古文書の読み下しを得手としない。多少の間違いはお許し願う。
    「戸次軍談」は「戸次軍記」とも書き、「彦城散人」という人が元禄15年に書き上げ、元禄16年に
    大坂で印刷、京の富小路で売り出された、大友氏、戸次氏、立花氏らの関わった軍事を中心に書か
    れている。
 
   戸次軍談・・島津攻岩屋城事高橋紹運死節(管理人読み替え)

     天正14年丙戊(ひのえつちのえ)7月12日、薩摩の軍勢が岩屋城に押し寄せた。これには、
     秋月種実、高橋元種、隈部、城宇土、星野、問注所、草野、城井、長野、原田等が与力して
     都合5万余の大軍が岩屋城下2〜3里の間に沓の子(大勢の者の立ち並ぶ様)の打ちたる如くに
     陣取った。先ず「島津忠長」は荘厳寺という僧を軍使として岩屋につかわし「この度この地
     へ出向いたのは、何も「紹運」に対し弓矢を引くため(弓箭・キュウセン)ではない。先ごろ
    「筑紫広門」がニ心を以って(表裏を構え)諸郡を押領し勝手なことするので(我意を働く)
     出てきた。広門が没落した今となっては、岩屋城は「広門」の持ち城であるから、紹運の子
     「統増」を篭らせて守ることには謂れがない。早々にこちらへ引き渡されよ」と申しいれた。
     これに答えて紹運は「この度は、薩州(薩摩)より遥遥(はるばる)大軍を出された事ご苦労
     の至りである。が岩屋、宝満、立花の三城は、「紹運、統虎」が「秀吉公」の御代官として、
     預け下されたる旨の御朱印を賜っている、いまさら(更に)相渡す理由(儀)はない。是非
     とのお望みであれば、秀吉公の御朱印が有れば(候はば)渡して差し上げると云うて」使い
     の僧を帰した。薩州の大将(島津忠長)はこの旨を聞いて、とてもこの城を易々(簡単には)
     とは渡さないであろう。
     明けて7月14日より、寄せての大軍はときのこえを(鯨波)をあげて、鉄砲を撃ちたて新手
    (荒手)を入れ替え入れ替え、ここが勝負の分かれ目(先途)と攻め立てた。
     城中は小勢とは云えども、楠(正成)、菊池(武光)が再来したほどの大将(紹運)に従う者
     たちは、当時稀な武功の者達で、銘々の持ち口に於いて、討死を覚悟(思い定めて)で戦った
     ので、激しい戦い(強戦)は数箇所に及んだが一箇所も持ち口を破られることは無かった。
     戦いも十日あまりとなり、寄せてもだれてしまった(退屈)。
     同期(7月)26日早朝(早天)薩州勢は持盾を垣根(掻盾・カイタテ)にして邑城(さとじろ)に
     攻め入った。城中は静まりかえり音もさせずに態(わざと)と邑城を破らせて、大軍を思い
     通りに引き入れた。これに「屋山中務」が陣所(役所)より鉄砲(鳥銃)、石火矢(震電雷)を
     放ち、この他に、大石、大木を転がしかけたので、邑城に押し入った寄せ手の数百人が圧し討
     たれて戦死、負傷した者は数知れなかった。
     薩州勢はこれにより侮りがたしと思い、攻めるを止めて(矢の口をとめて)、城へ向かい、申
     しいれたい事があると呼びかけた。ややあって櫓の上より「
某は麻生外記と云う者なり何の
     御用やと」応えた。この時に呼びかけてきたのは、薩州の家士「新納蔵人・にいろくらんど)
     と云う者であった。「さても紹運はこの十箇年の間、度々の篭城に諸人に情けをかけられ、
     方々の合戦に武功を顕し(あらわして)ているとはいえども、家運衰退(衰微)の「大友」の
     御一味故に、功を立てることも出来ない。一張一弛(いっちょういっち)は武士の習い。
     張って弛まざるは文武を為せないという。時の流れに随って降参候らへば、島津に於いて某御
     取次ぎ仕ると」申した。これに外記は応えていいけるは、「これは新納殿とも覚えぬ一言かな
     紹運へ申し聞かせるまでもない。某後返答致す、何れも鎮まりて聞きたまえ、夫盛んなるは必
     ず衰え、生きるは必ず滅するは珍しいことではない。源平の昔より今盛えている武将(侍)は
     一人もなし。公方を始、武衛、細川、畠山、一色、赤松、山名、上瘁A千葉、宇都宮、佐々木
     土岐、今川、武田、土肥、椎名、神保、越前の朝倉、江州の浅井、出雲の尼子、周防の大内、
     肥後の菊池等にいたるまで、名を得たる大家悉く滅亡いたし候。大友家は頼朝公より「豊前、
     豊後を給わりて罷り下りてより以来、苗字の断絶これなく、特にこの二、三代は御紋葉を賜り
     両国を治めている。
     島津家のことは略(ほぼ)承っているが、十年前までは、根占、肝属、本郷、北原の軍兵が鹿
     児島に乱入しても一郡さえも治め兼ね、近年こそそっと(卒度)世にでられた。
     いま豊州(豊後)少し妻手(めて)になった折左様な広言は、テンのいない山の鼬(いたち)
     のようなもの、今こそそうのたまうとも、秀吉公御進発あれば島津の滅亡も幾程もあるまい。
     凡そ(およそ)主人(主家)の盛んな時支えている者は、勝れた家臣である。主家の衰えたる
     時も心を変えることはない。一命を捨ててこそ忠義というものである。
     方々は、薩州落ちぶる時、主を捨て去る考えと見受ける。当陣五万余の諸卒なれど、どのよう
     な事態(孰れか)にあろうとも、百年の歳月(齢・よわい)を持ちこたえる。仁義を守る人こ
     そ人である。守らざるは禽獣(きんじゅう)と同じである。」

     このように明快に述べれば、道理の通った最もな事ゆえ「新納」も重ねての言葉が無かった。
     麻生外記とは名乗っていたが、実は「紹運」であることを終には隠すことは無かった。文武に
     長けた良将とは聞こえていたが、この機にあっての智謀に話しぶり(口才・コウザイ)も勝れ
     た大将であった。
     その日の夕方(晩景・バンケイ)薩州の両将(島津忠長、新納忠元)より再び、荘厳寺を以
     って申しいれがあった。「この間八箇国の軍勢を受けて数日持ちこたえている事は、比類ない
     ことである。先ごろの邑城の合戦は、双方の手柄であることに不足はない。今は和睦し、宝満
     、立花、岩屋の三城を所領することには相違はない。これは八箇国の寄り衆の総意であるから
     実子一人を質人としてもらえば、当陣を引き上げる。この後、豊州、薩州の和睦を紹運が調整
     し、それが成就の時には、質人を帰す。九州を統一して、両家心を一つにして中国へ切渡り、
     京へ攻め上り、天下を掌(たなごころ)に握り、泰平をもたらす」と申し入れた。
     紹運の返答は、「三箇所の城また領地五六郡はもとより持分である、質人とは思いもよらぬ、
     殿下(秀吉)の為に御用に立つ覚悟である。然しながら秋月にあっては、二心(表裏)をばか
     りで、諸家を悩まし、豊筑肥の間を行き来して、九州乱逆の張本人であるから、秋月に腹切ら
     せ、今度の出陣、殿下また大友に対しての確執ではない、広門を討つ為であったと、神文を賜
     れば如何様にも談義いたす。さもなければ、殿下の御ため、大友への届け(おくりもの)とし
     この城を枕として腹切るだけである。
     薩州の諸将もこの上は、兵卒を如何ほど失っても、この城を攻め落とさねば引くに引かれぬ。
     明けて7月27日、寅の刻より寄せての総軍は切岸の下に詰め寄り、東明(しののめ・明け方の
     東の空が明るくなる様))に四方同時に鬨(とき・一斉に声をあげる)をつくり攻め上がる。
     防戦した。互いに作る鬨のこえ、矢叫び鉄砲の響き、剣戟を交わす音、千雷頭上に落ち、六種
     震動(仏の説教のさま、六通りの大地の震動)するが如く、児童、婦女は肝魂を失った。
     「紹運」も、士卒残り少なく討たれたことで、最後の戦(軍)をせんものと、大長刀を振るっ
     て、胴切、立割り、車切、即時に十七人切伏せ、その身『紹運)も深手を御手を負ったので、
     櫓へかけ上り諸軍士に懇ろ(ねんごろ)に謝礼を述べ、39歳の一生を、腹十文字に掻っ切り
     岩屋の城の露と消えたまう。

        
          
岩屋城本丸跡 玉砕の石碑                    紹運の首塚(二日市)                             
 
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