八院の戦い史跡



      「関ヶ原の戦い(1600:慶長5年9月15日)」において、西軍「豊臣方」に加担した佐賀「鍋島勝茂」であったが
    敗軍の憂き目となる。このため勝者「徳川家康」の不信を解消し所領を守る為 「家康」とは好の父「直茂(鍋島
    信生)」通じ家康に詫びを入れる。この時鍋島直茂は勝繁に対し、家康への詫びの証として同じく西軍に加担し
    た柳河(柳川)「立花宗茂」を討てと命ずる。
    一方「立花宗茂」は、関ヶ原の戦いでは「大津城京極氏」を攻め関ヶ原本戦には間に合わなかったが、敗戦を
    知り大阪城へ退き10月2日には柳河へ帰参した。この宗茂に対し慶長5年10月19〜20日にかけ、鍋島勝茂は
    二万とも三万とも云われる大軍率い筑後川を渡り、柳河領へ攻め入った。宗茂にとっては迷惑千万な戦いで
    あるが攻め入られては武家の意地、面目が立たない。 柳河勢も「立花三太夫」「小野和泉守」「立花(戸次)
    右衛門大夫親子」「十時新五郎」「安東伊之助」らが撃って出る。10月25日立花勢は江上、八院、五反田一帯で
    佐賀勢を果敢に迎え撃つが、多勢に無勢多くが次々討たれ、柳河城落城は時間の問題であった。
    しかし此処で実力者「加藤清正」が動いた。「宗茂」の武将としての器量を知る清正は、「宗茂」失うはいかにも
    惜しいと「黒田如水」と談合、宗茂に対し「柳河開城」を説得する。其の一方で「勝茂」に停戦を強く迫る。大きな
    力を持つ「清正、如水」の申し入れに勝茂もしぶしぶ軍を引く。
    玉砕も覚悟した宗茂であったが清正が身元引き受けるとの申しように降参し清正らに柳河城を開城した。
    この戦いを「八院(はちいん又は、はちのいん)の戦い」といい、柳河勢は出撃した兵の二割630人もの討ち死
    が出たとされる。この戦いでは「立花(戸次)右衛門大夫鎮実、立花(戸次)善四郎親雄」親子も戦死する。
    「善四郎」は若干17歳であった。
    
     現在、大木町周辺にはこの戦いの史跡が多く残る。史跡は大木平野の広い範囲に分散しており、僅か三千
    の立花軍は少勢を各所に分散して鍋島軍と戦った事になる。敗戦は必然でもあった。
    遺構探訪はいずれの史跡も、事前に大木町資料にて下調べしておかないと探すのは大変である。立花三太夫
    弔った「三太夫地蔵」などは、田んぼの一角クリークの岸辺。道はなく田んぼの畦歩くので長靴は必需。 
    冬場乾季なら、田んぼ通らせてもらうが早道。

         ・ 「円通庵跡」大木町横溝にある廃寺跡。立花(戸次)右衛門大夫親子の墓

                       向かって左が右衛門大夫の墓


        ・ 「三太夫地蔵」中八院にある、立花三太夫供養の地蔵尊

                       クリーク傍の田地の一角。
                                                道路はない要注意
                                               

        ・ 「地獄橋」柳川勢が渡河に際し難儀、多くの兵が討ちとられた場所。上八院にある

                       当時を偲ぶ遺構は無し
                                                 R442のバイパス傍


        ・ 「猫橋」立花三太夫は渡河に失敗し、馬もろとも倒れたところを鍋島の江藤四郎右衛門に討たれる。
               このとき一匹の黒猫が四郎右衛門の喉笛に喰らいつき、首級を咥えて逃げた。佐賀勢は
               黒猫めがけて鉄砲を撃った。
               後に、川の中で黒猫の死体と三太夫の首級が見つかったとされる場所。五反田地区

                       中八院三太夫地蔵近く。県道710号


        ・ 「荒人神祠」上八院にある八院の戦いでの鍋島、柳河両軍の戦死者弔う祠
                  R442バイパスより見えてはいるが、予備知識ないと其れとは分らない。

                       上八院の田地の一角
                  

        ・ 「十時新五郎惟久の墓」五反田にある。
              「十時新五郎」は、豊後大神氏の流れくむ家系で、「十時新五郎大神惟久」という。立花道雪の
              重臣であった、「十時新右衛門惟直」の三男。
              慶長5年10月20日(1600)「八院の戦い」に出陣。侵入した「鍋島勝茂」は五反田に陣を敷いた。
              立花勢は木室の菰原に出陣、本隊大将「立花三太夫」、先陣「安東五郎右衛門」に従い出陣。
              「新五郎」も獅子奮迅の働きであったが戦死。
                       久留米市城島町五反田
                                               
                                                

                                                 参考資料    大木町誌ほか

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