戸次統常の母御



       「戸次統常」の母、おさな子を刺殺して
                     統常の義烈を勵す


  
   天正14年島津豊後乱入の時、長年に亘り大友氏の中心的重臣として主家を守ってき「戸次氏」。
    しかしその時、当主第十六代「戸次鎮連」は、加判衆という重職にありながら嫡男「統常」、鎮連母
    (吉弘鎮信の妹説あり。また大友義統の室は鎮信の妹説、戸次統常の室は鎮信の娘説など様々ある。
    さらに鎮連の父鑑方は、戸次鑑連の弟であるが、実は田原紹忍の弟で戸次親宗の養子となったとする
    説もある)などの、周囲の諫めも聞き入れず島津に内応、大野藤北館を開城した。
    是を知った豊州勢は切歯憤慨「鎮連」の肉を喰わんとしたともいう。「統常」の母、即ち鎮連の妻は
    志賀氏の出であったが(岡城・志賀親次の伯母?)夫がこうした事態になったことを大いに嘆き、冬
    の寒夜人々の深く静まった時、子息「統常」に対し、「父君(鎮連)は正義の諫めも聞き入れず、こ
    と遂に此れに及ぶ、今将たるを何をか云わんやである。仮にも、今かりそめの安逸を偸(ぬす)むも、
    不義不忠の汚名を末代に貽(のこ)さんこと口惜しきかぎりならずや。御身(統常)願わくば、鶴賀
    城(利光城・戸次川)に出陣し我が軍を援け「戸次」の祖先を恥ずかしむる事なかれ、妾(わらわ)
    が意既に決す。御身をして、内顧(ないこ)の憂い(後に残る身内の心配)無からしめん」と語り終
    りて懐剣を抜き、傍に熟睡していた我愛児二人を刺殺する。直ちに立出て島津兵達の宿営に忍び入り
    「灯火」を滅し、敵兵十数人を殺傷した。母は城に火を放ちその場に自刃して果てた。
    天正14年12月朔日。即ち戸次川合戦八日前、夜半の出来事であった。
    この夜半の騒動に、島津陣宿営内は大混乱、敵の夜襲と思い闇の中に太刀を揮(ふる)い、同士討ち
    を演じ、死傷する者その数知れなかった。
    此の母の覚悟、決意の行いに「統常」は勇気百倍しこれまた決死の覚悟もって「鎧ガ嶽(藤北)」を
    発ち鶴賀城(利光城)へ出陣した。
    戸次川において一族「戸次鎮時・同鎮直・同統昌」、それに家臣「由布又右衛門」「安東左衛門佐」
    「足達兵庫助」「久保右衛門」以下、百有余共々壮烈に討ち死したのである。 
  
      此の豊後における島津との戦いに特筆すべきは、「鶴崎城・妙林尼」「利光
      宗魚の妻」そして「戸次統常之母」と、女武将覚悟の戦であった。



                                   
参 考   鶴賀城戦史



                      トップへ