赤間山古城
                   「宗像氏貞の居城

     「赤間山」とは宗像市陵厳寺の北に位置する山で地元では「じょうやま」と呼び標高369mの山。福岡教育大学
     背後に見える。
     筑前国続風土記巻之二十六古戦場三宗像郡の「赤間山古城」には「赤間山を蘿ケ岳(蔦ケ岳:つたがたけ)と
     云う」。また、巻之十七宗像郡下では「宗像山」としておりこれには「赤間村上なる蘿ヶ岳を云う」と書き「赤間村
     の小村、楞厳寺村に属す(現地名は陵厳寺:りょうげんじ)」となっている。現在では見かけないが猿が多く生息
     していたという。
     「赤間」の名称の由来は昔「神武帝」東征のおり岡の湊へお入りになり(遠賀郡芦屋町芦屋湊のこと。:古文に
     よれば日本紀曰く、神武天皇は甲寅の冬十月東征され、十一月丙戌朔甲午筑紫崗水門(チクシノオカノミナト)
     :此の所は大なる江口(遠賀川河口)にて瑦舸水門(オカノミナト)云うとしている。)
     この折、一神が赤馬に乗り地元民に下知したことより此の地名を「赤馬」と呼ぶようになったのだと云う。よって
     「赤間」は「赤馬」の誤りで正しくは「赤馬」とする。赤間山古城という様に戦国期は「宗像氏貞」の居城のあった
     山である。山の名に因み「蔦ケ岳城」とも呼ぶ。
     城の起こりは定かではないが、1200年(正治2年)の記録に「宗知宗(そうむねとも)」が赤間山城に住んだとす
     る記録が有って。宗像大宮司家第6代「妙忠」の築城とする説もある。 1336年(建武3年)の記録では「宗像
     大宮司氏俊」が再起を図るため九州に落延びた足利尊氏を宗像館に招き赤間山城を修復して「蘿山城」と名
     付けた。その後し長く廃城となっていたが、1560年(永禄3年)宗像氏貞が赤間山の要害さに目をつけ城を再興、
     白山城出て入城する。
     宗像大宮司家は従来より中国大内氏に従っていたが、大内氏が陶晴賢」の謀反で滅びる。この折山口に居た
     当主「宗像氏雄」も追われて戦死する。権力を握った「晴賢」は宗像に刺客を送り先の当主で正統な大宮司家
     「正氏」一族を惨殺し、正氏の側室のであった姪「照葉」のこ子で七歳の「氏貞」を大宮司家の後に押し込んだ。
     これにより正統派の宗像氏は絶えた。 しかし氏貞はなかなかの名将で、大友氏の立花山城「戸次道雪」に
     対峙した。道雪との和睦では妹の「色姫」を道雪側室に送る。
     その氏貞も1586年(天正14年)病死。後継者なく宗像大宮司家は途絶える。赤間山には遺構として空堀や土
     塁、多くの曲輪跡が残る。大手口は陵厳寺、搦手口は石峠口であった。見た目以上に急峻で要害である。
     石峠を挟んで北に上山(金山)が続き平等寺の上に支城の草場城があった。
     現在、赤間山は城山(じょうやま)と呼ばれ市民登山の山として親しまれている。7月上旬には「黄色、白色」の
     「キヌガサタケ」目当ての登山者で賑あう。また神楽の鈴の原型ともいわれる精霊の木(おがたまの木)なども
     石峠側の登山道沿いに見られる。

                         
                               石丸付近より蔦ヶ岳遠望む

                
                石峠口登山道にある土塁と空堀          蔦ヶ岳本丸跡

                
                    キヌガサタケ(6~7月)          土アケビ(9月ごろ)
                                         ラン科の植物。ナラ茸菌で育つ

                        蔦ケ岳にはこのような貴重種が自生する環境にある

    白山城跡 :歴代宗像大宮司家の居城

      宗像大宮司家歴代居城。1184年宗像氏第36代「宗像氏国」の築城と伝えられる。1551年9月12日宗像氏最後の
      当主「宗像氏貞」入る。 宗像の地で安産祈願の寺として知られる「増福院(山田地蔵尊)」の背後に聳える山。
      普通に在る山城跡であるが、本丸跡直下はかなりの急斜面である。水が取れたかは分からないが、中腹の硬い
      岩盤を刳りぬいて造られた水穴(横井戸)と呼ぶ遺構が残る。おそらく日常は麓の山田館で過ごし、白山城は緊
      急時の備えであったと思われる。
      白山城は永禄3年「氏貞」の赤間山移転により廃城となるが、この城での最大事件は麓の館で発生した氏貞の
      大宮司家継承にかかわる惨事「菊姫母子の山田事件」である。今も悲しい伝説として語り継がれている。
      

                         
                                  白山城跡遠望

                
                    増福院参道脇登山口       黒川鍋寿丸(氏貞)の入城説明板
                
                     白山城跡本丸跡        硬い花崗岩刳りぬいた水穴(横井戸)
                    意外と狭い雑木の林          果たして水は汲めたか
                      

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