「立花道雪」と「白鷹」
「鷹狩りの起源」:「立花道雪卒去の前兆とされる出来事」
戸次軍談巻之五「白鷹(ハクヨウ)止道雪陣営之松事」を参考に書き下した。
ある時(天正12年の頃、道雪高良山陣中の事であろう)「高橋紹運」は軍評定のため「立花道雪」の
陣営を訪ねていた。軍評議もやがて終わり、陣営では盛大に酒宴が催されていた。
その折の出来事。何処ともなく「白生(シラフ)の鷹」が舞い来て、陣営庭の松の梢にとまった。
是を見た「道雪」に近習の若侍共、何とかして捕らえたいと、立ち騒ぎするも為方(せんかた)なかった。
様子を見ていた道雪「誰か鷹のことに心得のある者はいないのか」と近習らに尋ねられる。すると「早良
善内」なる老士が「庖厨所(ホウチュウショ)」に走り行って鳥の「臠(シシムラ・肉片)を持ってきた。
「善内」庭に下り立ち肉片をゆらゆらと振り鷹を静かに呼んだ。すると鷹はスハスハと善内の拳(コブシ)
ヘ飛び下った。 リンク→「立花道雪(戸次鑑連)」
善内は是を我が拳(コブシ)に居上げ「道雪」の御前に進み出て「この鷹は見事な逸鷹(イツヨウ)で御
座います。その首頸は白綿をかぶるが如くにして毛は班綾(ハンリユウ)を着たる似ております。双翼を
軽くたたみ、一の羽節は高く、二の羽節は薄し。両足逞しく爪黒く潤い、股間開けて十字踏み。山入の鷲
毛足肉の寶形。是逸物の相なり」と申しあげた。
これを聞き「道雪」は「善内」に向かい「その方、いとも簡単に語るほど、かかる故事を知っている者で
あったとは、ならば「鷹」の由来を語ってみよ」。
是に善内「こと委細は存知ませぬが、若かりしころ略(ホボ)承りし事を申し上げます。」「そもそも、
本朝(我が国)「放鷹(鷹狩り)」の始めは、仁徳帝四十三年九月依納(ヨサム)の屯倉(ミヤケ)の阿
弭古(アニコ)において異鳥(アヤシキトリ)を捕獲いたしました。そのころ我が国には、百済の王百子
「酒君(サケノキミ)」が来朝しておられた。王子はこの鳥を、「和泉国」の百舌鳥(モズ)野の御狩へ
連れ行き、それは多くの「雉」を捕らせました。是が本朝「鷹狩り」の始めであります。故にこんに日に
到るまで「鷹狩り」の鳥とは「雉(きじ)」を捕るを言うのが慣わしとなっております」
「この時、酒君(サケノキミ)は、鷹経八十一巻を奉じられ、同四十六年「鷹」を東西北の三方に放ち、
其の種を求められました。此の鷹鶏(ヨウヨウ:オオタカ、コタカ)山鳥(サンチョウ)野禽(ヤキン)
に孳尾(トツイ・交わり)で奇異(キイ・稀に見る)の逸物(鷹)できました。また同五十一年には百済
より六十二巻の鷹書並びに、秀逸の鷹が献上され、其の使いを兆万吏(テンパリ)と申します。其の後、
平城、嵯峨の両帝は、殊に放鷹(ホウヨウ・鷹狩り)を御遊(ギョウユウ)を好まれました。芹川ノ大原
栗前(クリザキ)水生(ミナリ)大井川に毎度(アマタタビ・度々)御行幸なられました。
貞観年中渤海国より摩訶鷹経数巻が渡り、吾朝(ワガチョウ・我が国)鷹術の人々も、古例、新式を論じ、
鷹術作の書が尤も多くあります。交野(カタノノ)少将季綱(スエツナ)ノ鷹成録。兎道隆国の日来記。
持明院基家の三考傅。定家卿の鷹百首。基房の四方傅等。皆鷹(ミナヨウ)人の古例としています。
然るに、紅の鷹、白尾の鷹と申す事は、一條帝の御時、出羽国平鹿(ヒラカ)より巣鷹(スタカ幼鳥)を
献じられ、此の鷹七日あって野に放ちました。又、御帝(ミカド)の御夢に親鷹の鷲に搏(トラ)れしを
殺し侍(ハンベ)るなりとて(親鷹が鷲に捕らわれそうになったが、親鷹は逆に鷲を殺したの意)、身毛
(ミノケ)血(アケ)に成りたるを御覧じける。差(タガワズ)夜明ければ(従者が)親鷹は血に染(ソ
ミ)て帰りける由を申し上げました。(御帝は)奇異成る事に思し召して御歌に、
身を朱(アケ)に 成(ナシ)つつ出羽の 鷲をのみ
執(トル)たう事の 例(タメシ)やはある
と詠れたのであります。是より此の鷹を霊鳥とお感じになり、紅(クレナイ)の鷹と名づけられました。
また、白尾の鷹とは、陸奥より大鳥屋(オオトヤ)の高麿(タカマロ)という鷹を奉ります。
※交野(タカノ)の御狩(ミカリ)の時、御鷹を飼っていました政頼は、未だ拳になれぬ鷹に、栖(スミ
カ)の山を思い出すも詮方ないと、鈴掛けの尾を二枚切って鸛(コウ)の君しらずにて、白尾に継ぎ、
二月の雪の残る風情を見し(アラワシ)水を吹きければ、身掻り(ミセセリリ:口ばしで羽をすくさま)
己の尾の白いのに心変わりして去りました。さて、続き尾の鷹と申しますのは別(ヘチ)のことにて、
雉(キジ)の尾を助尾に継ぎぐ故実(コジツ:古いしきたり)があります。又、此の帝の御秘蔵の御鷹は
逸物の相ありながら鳥を執らずして、御鷹飼い共色々と飼い入れしれかども、曾て(カツテ:まったく)
鳥には目をくれず、余りにも仕込み(シツケ)かねて、彼の鷹を粟田口に繋ぎおきました。鷹を往来の者
達 に見せ、如何にか云う者ないかと窺い見ておりました。なれども、数日過ぎても只止まり見るだけに
て、一言も出す者御座いませぬ。茲に依田小三郎と申す者居り。豊平大番役に上がるとて、この鷹を長々
と立ち回り見て、扨々上なき逸鳥かなと申すも、未だ取飼いぬ者なり、鳥は取らずと云い捨て通りける。
此の時鷹飼いつと出て押留め、”今の御言葉こそゆかしけれ、是は帝の御鷹なり、宜しく取飼いて叡覧に
入れたまえ”。と直ちに奏聞(ソウモン:天子に申し上げる)申しければ、豊平を召され彼鷹を出させけ
る。豊平御苑に御鷹を据え出でて泉水に沙(スナ)を蒔き、魚の集まりけるを待って、其の儘鷹を翕せけ
れば、鷹池水に飛びつかり、大なる鯉を抓で(ツカンデ)上がりける。帝は不思議に思召し其の謂れを御
尋ねあれば、豊平敬で(ツツシンデ)”此御鷹は鶚腹(ミサゴバラ)の鷹にて、母鷹の作業(ナスワザ)
にして、後に父鷹の能を仕り候。人、その謂れを知らざるを以って今まで鳥を獲りもうさぬなり。此の後
は一つも逃し候はまじ”と申し上げれば、叡感(エイカン)のあまり、信州に領地を賜り、其の鷹を魚鷹
丸(ミサゴマル)と名づけられました。其の後、唐国より”孔眞・朱光”と云う名誉の鷹術の者来たりて
政頼に鷹書の要訣(ヨウケツ:奥義)十八箇の秘法。三十八の口義(クキ)及び鷹飼の装束、鈴、飼具、
狩杖等の器品(ヒング)悉く相伝せり。夫(ソレ)より代々に此の道盛(サカリ)になり、今に伝て家々
の秘説區々(マチマチ)なり。※ 中就く白鷹は別けて賞翫(シヨウガン・めでたきこと・珍しきこと)
の事なれば、只今庭の松に止まりし事は、目出たき事の前兆に御座います」と申しあげれば「道雪」は大
いに悦び「善内」に褒美を取らせこの「鷹」を預けられた。
しかしながら、それから二〜三日して「鷹」は何の病気の兆しもなく突然に落命してしまった。
この「鷹」の異変、「道雪」の卒去を示す前兆ではなかったかと後年評されたと言う。
(注)カタカナで読みをおくっていますが、あくまでも管理人の解釈。誤りが在るかもしれない。
立花道雪肖像(柳川市福厳寺の了承得て掲載)
参考資料 戸次軍談

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