姫岳合戦
               「三角畠の乱を発端に続く大友氏最大の内乱
                      姫岳の戦いは、最終的には足利幕府大内氏対大友持直の戦いの様相と
                      なってはいるが、発端は足利幕府が大内盛見の戦死に乗じ、大友氏の内
                      紛(家督争い)に干渉。大内氏を利用し幕府の地方支配権を強化しようと
                      したものである。これは敗戦後も大友氏支えた「大友持直」の戦い。


    姫岳(620m)とは大分県臼杵市と津久見市の境界線に連なる連山上にあって、津久見市の最西端に位置する。
    南西の碁盤ヶ岳(716m)に次いで標高が高い。山深いところで、管理人は野津側の乙見より鎮南山(539m)へ
    抜ける林道を姫岳目指し上っていったが、舗装のない悪路で遂に車の下が支えだし断念した。
    姫岳は古くには「姫見ヶ岳」と呼んでいた。山名の由来はその昔三重郷内山の「真野長者(炭焼小五郎)」と云う
    者に「般若姫」という大変美貌の娘が居た。この般若姫は京より忍びで逢いに来た皇子(後の用明天皇)と恋仲
    になり子を宿す。やがて京より欽明天皇崩御の知らせが届く。皇子は急遽帰京することとなった。皇子は姫に、
    生まれ来る子が男子であればともに京へ上るように、女の子であれば長者の後継ぎとし残し、姫一人で上洛せ
    よと告げて帰京した。生まれきた子は女の子であった。般若姫はわが子を残し大勢の従者に守られ一人で京
    へと旅立った。長者夫妻は山に上がり姫を見送ったという。この山が「姫見ヶ岳(姫岳)」である。
    大分県国東半島の北の沖に「姫島」がある。この島も姫が途中立ち寄った島と伝えられ「姫島」となったという。

     豊後大友家の家督は九代氏継、十代親世以降、二人の家系が交互に家督を継承する事を慣例としていた。
    応永30年(1423)十二代持直も、この慣例に従い従兄弟の十一代親著より家督を受ける。この慣例に反発した
    のが親著の嫡男孝親である。孝親は反乱を起こす「三角畠の乱」である。以後、十八代大友親治まで数代に
    亘る家督継承にかかわる発端ともいえる事件であった。
    孝親は元来粗暴であったと伝えられ、親著も孝親を見限り持直の器量に期待したのである。父親著は領地を
    分与するなど孝親をなだめるが、孝親の反乱は弓矢の事態となり遂に親著はわが子孝親を討つことに決する。
    こうして孝親は遂に自害。(持直が孝親をおびき出し謀殺との説もあるが三角畠の乱は、其の三角畠の場所を
    はじめとし、詳細は不明である。乱そのものは史実と見られている。)この孝親の反乱には中国「大内氏」が深
    くかかわったとされてきたが、「孝親」は果たして「大内盛見」と通じていたのであろうか。そしてこの「盛見」の
    背後にはさらに「足利義教」が糸を引いていたとの見方もある。
    (この説は、当時の大内盛見の動きより否定的な見方がある。盛見が大友持直と争うのは後になってからで、
    盛見が二十五代の「義弘」が将軍「足利義満」と戦って敗れた後、兄弟間の家督争いを征し「応永の乱」の後を
    立て直せたのは、「大友親世」の後見があっとされていること。菊池氏らの挙兵鎮圧に幕命で出陣していた事
    などが上げられている。)
    盛見は、応永11年ごろには筑前、豊前の守護職を得、筑前国幕府御料所代官となって、それまで細川、大友、
    大内を主体としてきた朝鮮、明国との貿易を独占、大きな利益を上げる。
    永享年間に入ると、盛見は筑前守護職を翳して公然と大友持直の筑前内所領を奪いに動く。永享2年4月盛見
    は持直の筑前立花山城を落とす。しかし6月には筑前北部の怡土郡深江(二丈)と云うところで大友持直勢と
    戦い盛見は戦死する。(当主が合戦で戦死することは極めて珍しい)この筑前豊前守護職盛見の死は幕府の
    怒りをかい、幕府(足利義教)は持直の所領を強引に没収、豊後守護職を大友親著の次男「花市丸(親綱)」へ
    任ずる。
    この頃持直は、次の家督を親著の三男親繁とすることを決めていたので、持直もまた親綱の家督には不満が
    あった。 
                         
                    大内盛見の墓(粕屋町酒殿泉蔵寺)。「盛見」の家臣
                    杉孫右衛門が、首を取りこの地まで持ち帰り綺麗に
                    洗い、一宇を設けて埋葬したという。杉氏は大内の
                    御家人で糟屋郡高鳥居城を預かっていたので、この
                    場所まで持ち帰ったのであろう。
                    盛見の戦死は、姫岳の戦いの発端とも云える。

    一方「大内氏」では、盛見後の家督を盛見嫡男「持世」と弟の「持盛」が争ったが持世は国人領主達の支持をと
    りつけ持盛を豊後に追い討ち取る。幕府も持盛の所領を持世に与えた。正式に大内氏の家督を得た持世は同
    年8月筑前に進攻、未だ強力な武力を維持する持直追討に豊後へ進攻する。幕府は豊後守護大友親綱、菊池
    兼朝に持世への協力を命じた。方や持直は少弐満貞らと持世に対抗するが、持世は筑前に満貞を攻め落し豊
    後の持直を攻める。形勢不利な持直は一端豊後を出るが、12月には大友親著(親綱の父、十一代当主)に迎
    えられ帰国する。
    大友氏の歴史上最大の内乱は、大友持直・親著・親著三男の親繁対、大友親綱・持直の弟の親隆という、親子
    肉親が会い争う事になった。人望のあった持直には国人領主の多くが味方し、柞原八幡宮も与同したとされる。
    孤立した親綱は豊前へ逃れた。永享6年9月持直は筑前にて持世と戦い、11月には筑後へと転戦少弐嘉頼と共
    に菊池持朝を討った。
    持直の前に大内持世敗戦濃厚であったが、幕府は島津忠国へ持直追討を命じ、大内方も新たに石見勢を加え
    て持直を攻めた。持直は肥後へと逃れる。幕府、大内持世、大友親綱連合軍は、伊予水軍河野通久を加え持
    直の拠点を悉く焼き払った。    この後、再び豊後へ帰国した「大友持直」は「姫岳」の要害に籠もる。

     姫岳は標高もあり山深い。永享7年6月大内持世、河野通久は姫岳の持直を攻めたが、持直は攻め手を巧に
    難所に誘い込み翻弄、河野通久を討ち取る。持直は山香、立石、国東方面でも大内軍を翻弄する。
    持直が長期に亘り戦力を維持できたのは、津久見、臼杵一帯の浦衆(水軍)を中心とした国人衆の支援があっ
    たとされる。
    強固に抵抗する持直に幕府は内応工作を始める。親綱の将斉著利は密に、持直勢の中にいた田北親増兄弟
    に書簡を送り所領安堵に加え敷戸、山香などを与えると誘った。また、親綱勢には親増の子宮徳丸(親忠)が
    おり、親子が戦うのも不自然と説いた。永享8年2月幕府は京極持高に大内持世を支援させる一方、使いの僧
    景臨を遣わし親増の処遇を親増、親綱に確認させた。是により親増は遂に幕府軍に下った。
    永享8(1436)年4月〜5月、幕府は小早川隆景、毛利次郎に命じ、姫岳の支城東神野城を攻め落とす。さらに
    6月には姫岳陣内に裏切りが出て砦が消失、大内持世、大友親綱は姫岳を落とした。
    しかし敗者の「大友親持」は忽然と消え、行き方知れずとなった。おそらく、持直を援助した浦衆の手引きがあっ
    たのであろう。
    大友氏の家督はやがて親綱より持直の弟親隆へ継がれそしてさらに、持直へ味方してきた「大友親繁(親著
    4男)」が十五代大友氏惣領となる。行き方知らずとなった「持直」であったが、隠とんのまま交易で利益をあげ
    親繁を助けた。親繁は、持直が早くよりその器量を見込み後継と決めていた武将であった。
    「親繁」はなかなかの名将で、家督を継ぐと混乱した大友家中の統制、領地管理に力を注ぎ求心力を得て家臣
    団をまとめた。また交易にも力を入れ富を得て、国力を向上させ幕府の干渉退け大友氏の独自性を確立した。
    また親繁は家督を十六代「親政」への継承に際し全所領知行を譲渡し六代貞宗より7代氏泰(千代松丸)への
    家督譲渡に端を発した大友の嫡子単独惣領制確立の礎を築いた。
    持直の没年は文安年(1445)とも1459年とも言われ姫岳合戦より実に十数年以上存命し、当主の時代より後
    継と決めていた親繁の執政を見届け支えたのである。この事は、姫岳敗戦後忽然と姿を消した持直であったが、
    なお大友家中や国人衆に根強い支援の続いていた事が察しられる。
    「持直}の墓は別府市亀川四の湯「円通山観音寺」にある。観音寺は持直が再建した寺という。

                    
                          臼杵市乙見より遥か姫岳頂上望む
                    管理人は乙見より鎮南林道伝いに姫岳目指したが悪路に
                    車の下が支え途中で断念した。機会あらば津久見側より
                    再挑戦したい
                            
                   大友持直の墓五輪塔(別府市亀川四の湯・円通山観音寺)
                   観音寺は中世には荒廃していたが、大友持直によって復興                
                   されたと伝わる。


                                       出典:大分歴史事典(芦刈政治)
                                           豊筑乱記
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