藤北戸次氏系圖


      戸次氏が十三代親宣のとき、戸次親延(親正)の、兄親続が片賀瀬城に分派、二つの流
      れになったことは説として確立していた。
      しかし、明治20年立花家から寄贈された「戸次系圖」、戸次哲夫氏所蔵「大友氏戸次
      系圖」を細かく分析すると明らかに三派に分流している。
      戸次氏が初めて大野荘に入ったのは、三代貞直の代で、系圖上では貞直弟「親教」が
      号「藤北」と添え書きがある。また親教の嫡子「氏教」も藤北とあるので、早くから
      戸次氏は藤北に入ったと考えられる。
      戸次氏が本貫の「戸次庄}を追われ藤北に移ったのは、「藤北(戸次)」を頼ったと
      のではないか。おそらく15世紀前期であろう。
      その後親宣弟「
親正親延)」が戸次姓のまま分派、本家と共に藤北に定住したので
      はないだろうか。
      親延の屋敷跡される
松尾城跡城門跡)と云うところが伝えられている。
      藤北組は武闘集団の位置づけが強かったのではないか。
      親正は17歳で戦死、息子「親繁」、「親宗」は「休松合戦」で壮烈な討死するなど、
      系圖上に多くの合戦死がいる。藤北姓はこん日、全国で30戸ほどあるようだ。


        ふじきたけいず



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