二日市の

   
天正7年(1579)この年、筑前国は年中合戦に明け暮れた。
   其れは、前年天正6年11月豊後国「大友宗麟」が「耳川の戦い」で島津義久に大敗すると筑前では、
   それまで大友に従っていた国人領主たちも、大友離れが顕著となった。
   この機に乗じ、反大友勢を煽り大友攻撃を執拗に繰り返したのが「秋月種実」である。肥前「筑紫
   廣門」、豊前「城井、長野、千手、斉藤、」、筑前「宗像氏貞、麻生、杉、原田」など悉く秋月に
   呼応した。
   「秋月種実、原田了栄」らを中心に、大友の支城、柑子岳城、安楽平城、鷹取城への圧力は日毎に
   強くなり、豊後大友氏の筑前支配の情勢は、風雲急を告げる事態となっていた。
   今や「大友宗麟」にとって筑前での頼りは立花山城「
立花道雪」、岩屋城「高橋紹運」の両将であ
   った。特に「岩屋城」は「種実」にとって最も目障りな存在。度々岩屋城攻めを繰り返すが、その
   都度「
紹運」に撥ね返されていた。
   大友にとっても急速に名をなし、力つけてきた「秋月種実」は脅威であった。天正7年卯月(四月)
   「秋月種実、筑紫広門」らは再び岩屋城下へ攻め込んできた。
   しかし「高橋紹運」も果敢にこれを迎え討ち、容易に勝敗の決着はつかなかった。
   この膠着状況に「大友宗麟、大友義統」は豊後より家老「志賀河内入道道魁」遣わし、是に筑前の
   大友方「小田部民部少輔道魁、大鶴式部少輔鎮正」の兵二千を以って「種実」の陣「石坂」へ岩屋
   城を打って出た。
   (この石坂の場所は、二日市周辺、甘木周辺に見出せない。石坂合戦のあった八木山峠は方向違い
    の気がする)
   石坂に出張った大友勢であったが「杉連並、麻生元重、宗像氏貞、許斐、原田」らが秋月に呼応し、
   四方より鬨をつくり、志賀、小田部、大津留勢の後方を遮った。このため大友勢は前後の敵に取り
   囲まれ、進退極まる苦戦を強いられることとなった。
   あわや全員討ち死もやむなしなったところへ、岩屋城「
高橋紹運」立花城「戸次道雪」が駆けつけ、
   秋月勢の包囲網を破り突入「志賀道魁」ら三将を救出。「志賀道魁」は岩屋へ待避。小田部、大津
   留らも面々の本城へ引き上げた。
   この後4月18日高祖城「原田弾正少輔了栄」は、秋月に呼応して兵を上げ「安楽平城・小田部民部
   少輔」を攻めたが、小田部も曲淵城、鷲が岳城へ兵を送り防戦、安楽平城は容易に落ちなかった。
   一方「秋月種実」二日市の戦いで「杉、宗像」らに追われ岩屋城に引いた「志賀道魁」「高橋紹運」
   を攻める為再び「針磨山」に陣を進めた。
   (針磨山とは現、筑紫中学校付近にあった標高60mほどの小山の連なる一帯)
    
高橋紹運」もこの秋月の動きに二日市にへを進め迎え撃つ一方、巧みに虚報を流した。
   それは岩屋支援のために、大友旗下の筑紫勢が夜須方面より小田辺りへ押し寄せてくると言うもの
   であった。
   この嘘報にまんまと罹りに秋月種実は、急きょ針磨山の陣を引くのである。これにより、膠着状態
   の続いた二日市の戦線はひとまず双方が陣を引くことになり納まる。

   現在、針磨山一帯は開発が進み、当時を偲ばせる風景はない。


           
          
「種実」陣跡、針磨山の現況(県道112号針磨東より筑紫野中方面)
               遥か後方は、宝満山



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