異文・二階崩れ


       「異文」とは、ある事柄の異本に書かれた本文の事を指す。
     本ページは天文19年2月10日(1550)に発生した「大友二階崩れの変」の異文である。
     「大友二階崩れの変」は、「大友記」「豊筑乱記」「大友興廃記」等の各書物にその様子が伝えられている。
     通説には「大友二階崩れの変」の顛末は概ね次の様である。
     「大友氏二十代義鑑は、家督の相続にあたり嫡男の義鎮を廃嫡とし、寵愛する側室の子 塩市丸へ譲る事を
     重臣四人、津久見美作守、田口蔵人佐、斉藤播磨守、小佐井大和守へ伝え同意を求める。しかし四人は義鎮
     廃嫡に同意しなかった。塩市丸に拘る義鑑は四人を殺害しようと謀り、再び四人を館へ呼ぶ。是に斉藤播磨、
     小佐井大和は登城するが、危険を感じた津久見、田口は仮病と偽り登城しなかった。登城した斉藤、小佐井は
     義鑑の命じた刺客に謀殺される。是を聞いた津久見、田口は何れ己らにも刺客の手がはいると思い、その夜、
     夜陰に紛れ館へ忍び入り、まず塩市丸母子に侍女らを殺害、義鑑をも襲う。この刀傷がもとで義鑑は二日後に
     死亡する。ここまでは、各書の書く所の顛末は同じ見える。
     事件の発端となったことへの考察は「大友二階崩れ」を参照されたい。

     「大友二階崩れの変」は各書が伝えているが、「大友興廃記」「豊筑乱記」では一部に通説と異なる部分がある。
     通説では津久見、田口の両名は仮病をもって義鑑の登城命令に応じなかった事になっている。しかし、豊筑乱
     記、興廃記共に、両名はその夜は当番で殿中に留まって居て、事件に遭遇したことになっている点である。
     また、斉藤播磨と、小佐井大和それぞれの宿所にいるところを襲われ討たれていること。
     また、豊筑乱記には「塩市丸」に家督譲るとの下りは出てこない。さらに、大友記は「末子の御曹司到明子殿」
     へ御代を譲る思いとある。 
     それから興廃記には、義鑑が四人を討つことに決めたことには、斉藤、小佐井、津久見、田口は義鎮の側近
     達で、義鎮の日常の振舞いを諌めもせず、意のままにやりたいままにと見過ごしてきたことに対する義鑑の反
     感をかっていたと伝えている。
     各書の内から「豊筑乱記」に、斉藤播磨、小佐井大和謀殺の様子。津久見美作、田口蔵人乱入の様子を細か
     く伝えているので紹介する。
      以下「豊筑乱記義鑑公最後之事」より、原文を現代の文体に直し、さらに意訳して紹介する。

      さて(さる程に)、「大友修理大夫四位少将義鑑」は治世の道にも明るく、よく政策を執行していた。
     また、弓馬など武道に於いても、九州二嶋に肩を並べる者もなく、文武二道の名大将でもあった。しかしながら、
     その訳の程は分らないが、この数年逆心を企て大友幕下たることに叛く輩が多くなった。されども義鑑はこれを
     鎮圧し、大名小名の多くは皆義鑑に下り降参していった。
     されども何時の時節であったか、義鑑に思わぬ災難が発生した。家臣「津久見美作守」「田口蔵人」と言う者に
     討たれてしまったのである。 その元の起こり(原因)と言うのは、義鑑には三人の男子がいた。そのうち中でも
     嫡子左衛門督義鎮は、とりわけ器量世に優れていた。加えて知慮分別にも賢く、弓馬の道にも暗からずあらゆ
     る面で諸人に勝っていた。
     然しながら、これほどに優れた義鎮も家中の評判はよくなかった。それは義鎮の日常の素行にあった。己の思
     うままに振舞い乱暴、家臣の諌めも聞き入れず皆恐れをなした。この先「義鎮公」の御代になったならば、この
     豊後の国はどうなるのかと嘆いた。この義鎮に父の義鑑も気の重い日々であった。このため常々より老中や側
     近等と秘かに相談を交わしていた。中でも数代の重臣として大友氏を支えた入田一族「入田丹後守親政誠」に
     は、折々仰合はせをされていたとされる。そこで後の世継ぎには義鎮の二人の弟の内に譲ると伝えた。入田は
     義鑑の決意に、御諚(おおせ)の趣を受け奉ると申し上げた。
     
大友記によれば、義鑑は義鎮に対面もせず、御簾中(この場合では後添え)も日夜、入田丹後守親誠に対し
     義鎮を亡きものにして、到明子に代を立てさせるよう頼んでいる。入田丹後守も心得て、義鑑の御前に忠を尽く
     したとしている。 この事件が発生すると入田親誠は、素早く直入の津賀牟礼城へ退去、さらに阿蘇まで逃げて
     いる。通説のように、この事件に入田親誠が深く関り、諸々進言したことは間違いない。

      入田丹後の同意を得た義鑑は、斉藤播磨守、小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐を召し寄せ、その
     由(考え)を伝えた。しかしその事をきいた四人は、上意の趣旨を図りかねしばらくは無言を通し、「重々御受
     け申しあぐべし」と即答を避けた。この四人の様子に義鑑はたちまち機嫌を損ない怒りをあらわにした。
     この義鑑の形相に、いかに対応したものかと皆々座敷より退散をした。そして斉藤播磨守、小佐井大和守の
     両人は屋敷へと戻り、津久見、田口は当番のため家中の者共々殿中へ残った。
     義鑑は、主君の考えに同意しなかった彼等への怒りは猶収まらなかった。天文19年2月10日朝、義鑑は己が
     屋敷へ戻った斉藤、小佐井へ再び登城するよう命じた。両人は何事かと畏(おそれ)をなしあたふたと身支度
     して登城していった。
     両人を呼んだ義鑑は、家臣の竃門新助、小田隼人佐を呼び寄せ、斉藤播磨守、小佐井大和守が登城して来
     たならば、途中待ち受けて誅罰せよと申し渡した。命じられた竃門、小田の両人は、大友館の大手門に何食
     わぬ素振りで佇み、斉藤、小佐井の登城を待ち受けた。やがて斉藤、小佐井は何の疑心もなく登城してきた。
     両人は大門際にて下馬、大門に佇む竃門、小田のほうへ歩み寄り軽く会釈を交わした。その時、竃門、小田の
     両人が「上意にて候」と一気に太刀を抜き、一太刀にて討ち取るべく切りかかった。この不意打ちに、斉藤播磨、
     小佐井大和も百錬の勇士、何れも抜きあわんと太刀に手をかけたが、小佐井は弓の手(左手)の肩先より乳下
     まで切下げられ討ち取られた。斉藤播磨守は、小田隼人佐の討太刀を後ろに引いて避け、隼人佐の太刀先を
     鬢(びん)にあびたが深手に到らず、斉藤も太刀を抜きあいざまに横手切に払った。これにより隼人佐は乳の下
     (胸下)をしたたかに切られて深手となり、後ろへのっけに倒れた。斉藤は討ち取った隼人佐の首を討ち捨て、
     屋敷めがけて引き退こうとした。斉藤は、竃門新助が小佐井の首を取ろうとしている間に半町ほど引き退く。
     新助も斉藤を討ち取ろうと追ったが程遠く、追うは難しいと見た。
     おりしも時刻は家中侍の登城の刻限、次々と乗馬した侍達が繋がっていた。その中に、深浦九郎助という若侍
     が先頭きって見えた。竃門は声高に「いかに深浦殿、上意にて討つべき者にて候。斉藤を逃がし給うな」と叫ん
     だ。「心得候」と、深浦は太刀を抜き払って切りかかる。斉藤も、もとより太刀にて互いに声掛け合い一太刀、
     二太刀と打ち合ったが、斉藤は小田より受けた傷の血が目に入り視界を遮る。深浦も元来武芸に賢しく、終に
     斉藤も討ち取られる。
     この騒動は門外にも聞こえた。斉藤、小佐井が討たれたと聞いた津久見美作守、田口蔵人佐は、ひと事では
     ない、己の身の上(災難)と心得て、両人とも太刀を取って義鑑の御座所(寝所)へ向かい、義鑑に切りつける。
     二人はそのまま御座所の二階へと駆け上り、北の御方に御幼少の若君を討ち取る。そのまま広縁をさしきって
     大屋に飛び出し「津久見、田口の手の者出会え」と声高に叫んだ。この声に津久見、田口の手の者、今限りの
     命と、我もわれもと太刀抜き払って討って懸かった。
     討って方では、佐藤小七郎という者が一番に切って出て、田口を討ち取らんとしたが、津久見の郎従青野源七
     という侍が、これも真っ先に進み出て唯一討ちにと烈しく戦った。しかし源七は猛々しくは見えたが戦い疲れ、
     痛手、浅手を数箇所に負い肘(腕)の力落ちていた。太刀を両手に持って開き、一太刀に佐藤小七郎へ拝み
     切りに打ちかけたが、太刀先払われ取り直さんとするところを小七郎、さすがに早業の若者、踊り越えて討太刀
     にて源七の右の肘を打ち落とし、引くところ小七郎が二の太刀が、源七の弓の手(左手)の肩先より切り下げ
     討ち取り、ひるむところを首をあげる。
     方や、当番で殿中に詰めていた津久見、田口の手の者三十人、体面も命も惜しまず、此処を死に場所と死に
     もの狂いで戦った。しかし時刻が登城の時刻であった事から、我もわれもと家中の士達が馳せ加わり、終に
     津久見、田口家中の者一人残らず討ち死。津久見、田口の両名も家中の者たちとは引き離され終に討ち取ら
     れる。そして深手を受けた「義鑑」は死亡するのである。

      各書の記述はそれぞれ異なるが、天文19年2月10日より11日にかけ、大友館に
家中を揺るがす騒動が発生
      したことは紛れもない事実である。
      この事件を素早く処理、義鎮の重臣としての地位を築いたのは「
戸次鑑連」であった。




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