巻 狩(古式巻狩と猪鹿狼寺)


  

       平安時代より肥後阿蘇の原野では、古神事として毎年2月卯の日「下野の巻狩」が行われた。この巻狩は「阿蘇
      大宮司家
」が古式にのっとり取り仕切る慣わしであった。巻狩りの規模は大変に大掛りで、数千人の勢子が阿
       蘇の原野に獲物を追ったという。この巻狩の時だけは、周辺の諸将も「阿蘇大宮司家」の指揮に従ったとされる。
        「阿蘇下野の原野」とは、国道57号沿い「下野」交差点を東に入り「阿蘇ファームランド」へ至る一帯の広大な
       原野である。中世の頃、阿蘇の原野や久住高原には多くの動物が生息していたのであろう。阿蘇下野の巻狩り
       は、いわば我が国における巻狩の古式原形であった。
       余談であるが、下野を流れる黒川(一級河川白川の右支川)に「数鹿流ケ滝」と呼ぶ立派な滝がある、その名の
       由来は巻狩りで追い詰められた鹿が逃げ場失い数頭流されたとしてつけられた名称という。また、伝説では阿蘇
       神社の主祭神:健磐龍命が湖であった阿蘇平野を生み出すとき外輪山を蹴破ったおり、数頭の鹿が流されたに
       由来するとも伝えられる。阿蘇神社は健磐龍命(たけいわたつのみこと:神武天皇の孫))が外輪山の一重のと
       ころを蹴破り水を抜き湖を農地(阿蘇盆地)に拓いたとの古事より開墾、農耕の神として健磐龍命祀り九州中心に
       全国に500社近くある。
       建久4年(1193)、時の権力者「征夷大将軍 源頼朝」はその権力を世に示すため「駿河国 富士の裾野」に有
       力御家人を集めて大掛かりな巻狩を行った。頼朝はこの巻狩を古式にのっとて行う為、作法の修得に重臣梶原
       景季、新田忠常の二人を九州「阿蘇大宮司家」へ派遣、「下野の巻狩」の古式作法を修得させた。
       作法を修得した二人は、其の成果を試すため久住山の麓で巻狩を行う事とした。「阿蘇大宮司家」に先導され
       久住山南山麓へ至ったのである。しかしこのころ久住山は霊峰でその地域は殺生を禁じた寺域であった。此処
       には延暦2年(805)ごろ、傳教太師「最澄」の開基した「天台宗延暦寺派寺院・大和院慈尊院」があった。寺側は
       霊場であることを理由に演習を断ったが「頼朝」の威光をたてに阿蘇大宮司家のとりなしにより巻狩が許された。
       この古式巻狩りの作法による演習の結果は見事で多くの獲物が捕獲殺された。しかし霊山における殺生禁断の
       掟を破ったことから、殺された動物の供養のため大友氏の南山城主「志賀氏」ら在在の者より寄付が慈尊院へ寄
       せられた。「頼朝」も慈尊院に「猪鹿狼(いから)」の三文字を与え寺院は「猪鹿狼寺」と改称された。
       寺は天正年間まで営々と維持されてきたが、島津氏の侵入した時の戦火にあい、寺の一部を残し消失した。
       その後寛永年間(1623〜43)、「猪鹿狼寺」は土地の霊山(久住山)遥拝所となっていた今の場所へ移築された。 
       現在の寺は、竹田市より国道442号の旧道(旧小国街道)を市街方向へ入る。久住小学校過ぎて直ぐ右手正面に
       見える。狭いが国道挟んで1台駐車可。反対側に建宮神社(久住神社:久住神社も元は久住山山頂に本宮があっ
       たと伝わる。寺の移転と一体として移築されたという。)がある。     

       武将にとって巻狩(牧狩り)は、馬揃えと伴に武威を誇示する一大軍事デモンストレーションである。
       建久4年5月28日(1193)、鎌倉に幕府を開いた「源頼朝」は富士の裾野で大規模な巻狩を行った。「頼朝」にとっ
       ては、征夷大将軍の権威を誇示する一大軍事パレードであった。多くの御家人が集まったが、これには豊後国
       大友氏初代「大友能直」も頼朝側近として名を連ねた。。
       この時「工藤祐経」が蘇我兄弟に討たれた。工藤祐経の末裔「工藤祐持」は「日向伊東氏」の祖である。
       大友豊筑乱記によれば、大友能直が豊後の国を与えられたのは、曽我兄弟が工藤祐経を討った折、源頼朝は
       物具を召され(武具を身に着け)出で発とうとした、能直は御前に進み出て「かかる小事に君御出には及ばず」
       と申し上げ、五郎時致を搦めとって参った。これに頼朝は御感して豊前豊後を与えたという。

                                
                           久住山南山麓猪鹿狼寺舊跡の祠(標高1070m)
                              (大分県竹田市久住町久住)
                         標高の高い場所だが、付近には冷たい沢水があっ
                         て、用水に不便はなかった。当時はもっと水量多か
                        ったはず。
                        山中の寺院跡であれば石積みの遺構は残りそうだ
                        が見当たらないが、寺移すとき持ち出したのであろ
                        うか。

                            
                      現代の「猪鹿狼寺」天台宗  本尊:十一面観世音菩薩
                                (竹田市久住町建宮)
          
                        猪鹿狼寺の名は「頼朝」より与えられたと伝わる。 
                        猪鹿狼の由来に、当時 猪、鹿は居たが狼はいな
                        かったので猟犬を狼に準えたとの説をみたが、日本
                        には明治のころまで、北海道除く日本全土に狼は生
                        育していた。当然久住高原にも生息していたはず。
                        猟犬の普及は極ごく近世である。巻狩は大勢の勢子
                        が列をなして獲物追い出す。