鑑連雷山塁(かみなりさんるい:いかずちさんるい:豊後大野市大字田中字北)

         「戸次鑑連:雷に撃たれた場所???」


     豊後大野市田中は戦国期、大野荘藤北中心に「戸次氏一族」の拠点となった所である。現在この一帯には
    戸次居城のあったとされる鎧ヶ岳、藤北古屋敷跡、戸次館跡最乗寺、戸次親正城門跡、戸次常統墓所常忠寺、
    田中城跡、など戸次氏関連の遺構が多くの残る。其の一つに「雷山塁(かみなりさんるい)」と呼ぶ所がある。
    現況は山林で遺構は確認のしようもないが、戸次氏の城跡(塁:砦)ではないかと推定されている場所である。
    「雷山塁」読んで字の如く「雷の砦」(塁)と取れる。
    この地域において戦国期「雷」と関連する武将は「戸次鑑連」である。「戸次鑑連(道雪):立花道雪」は藤北の
    「戸次館」で生まれ、青年期を過ごした。ある夏の暑い日、戸次鑑連は大きな木の下に涼み台を置き昼寝をして
    いた。ところが俄かに雷雨となり閃光一線、鑑連の涼んでいた大木に雷が落ちた。鑑連はとっさに立てかけて
    あった太刀「千鳥」を抜き「雷」を切ったというのである。この時鑑連も雷を浴び、 以来足が不自由になったとさ
    れる。大木に落雷は事実としても、現代の科学(常識)からして雷を人が切るなどと云うことは不可能な事である
    が、晩年足の不自由になった「鑑連」に落雷をくっつけたのかもしれない。
    今となっては「雷山塁」の跡が鑑連の雷に打たれた場所か否かは確かめる術もない。しかし合戦に明け暮れる
    戦国時代、 「鑑連」が大木の木陰で長閑に涼んでいた姿は想像できる。雷切りの逸話やこの様な名称の残る
    ことは、当時戸次砦に強烈な落雷のあったことは事実かも知れない。しかし「戸次軍談」等の伝える鑑連の初陣、
    車帰し、休松、立花山などでの戦ぶりを見ると、足の不自由な武将の動きとはとても思えない記述である。足が
    不自由になったのは事実としても晩年になってからではないだろうか。

     リンク :  「鑑連雷切之事」  「雷切丸

                   
                    豊後大野市大大野町大字田中北付近の風景


              雷山塁の位置については、旧大野町教育委員会資料には田中北とあり、
              現況は杉山遺構は確認できないとあった。
              鎧ケ嶽の南方に831mの山があって雷山塁とする情報もあるが、此の山の
              位置はは大野町藤北にあたると思われるのでどうであろうか。
              鎧ケ嶽を現地調査したが狭隘でとても城館を築く地形にない、水の便も悪い
              戸次氏の鎧ケ嶽城というのは、藤北一帯含む総称というのが今日の見方で
              ある。となると鎧ケ嶽とほぼ同高の場所に塁を築く必要があったか ?。
              戸次鑑連が木陰で寛ぐのは日常過ごす館近くが自然では ?。

              

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