大友氏の終焉
   
石垣原の戦い・・・・再更新

 
   凡庸、凡将、臆病、戦国武将でありながらこれほど無能扱いされる武将はいない。「大友義統」である。
   大友宗麟の嫡男でありながら、他人の意見や行動に左右され、主体性に乏しく、武将としての器量に欠ける
   所があった。義統の武将としての才覚に疑問を抱く結果を示したのが「戸次川合戦」である。
   この合戦前後に取った彼の行動は「秀吉」の義統評価を決定付けたと云って良いだろう。これが後の秀吉朝
   鮮出兵における「文禄の役」での敵前逃亡の汚名を一身に負わされる結果を招いた。秀吉はとっくに義統を、
   一国を預ける器に無いことを見てとった。秀吉にしてみれば恩賞地とし与えるの豊後国を手に入れたかった。
   これが朝鮮出兵の不公平とも思える処分に繋がった。「小西行長」は「小早川秀包、黒田長政」にも救援を
   要請したが、両者は断ったというが、両者には何の咎めは無かったのである。
   こうして義統は除国、毛利輝元に預けられ、文禄2年5月周防國山口本国寺に幽閉され剃髪「宗巖」とした。
   鎌倉創期より400年続いた大友氏の豊後支配は終わる。翌年文禄3年9月水戸へ配流、佐竹義宣の監視下に置
   かれる。慶長3年「豊臣秀吉」逝去。
   義統への処分は不公平とする「徳川家康」の追求と、朝廷にあがったの姑「大弐」、後水尾天皇の乳母とな
   った妻「少納言」らの尽力で赦免となった。しかし江戸に義統の屋敷なく、住所を転々とする浪々の生活で
   あった。やがて時代は「西の豊臣」、「東の徳川」の対立はますます深まり、国人領主達は生き残りをかけ
   身の振り方に苦悩していた。この時期浪々の「義統」は、西方「増田長盛」に大坂に屋敷を与えられる。
   「秀頼」を奉じ実質大阪城盟主となった「石田三成」は「毛利輝元」らを通じ西方への加勢を募った。当然
   義統にも誘いがあった。義統は長男「義乗」が家康に世話になっていたことから「よろしくお願いする」と
   の書状を家康に送り。また、黒田如水、中川秀成らと徳川へ味方する旨密約していたともいう。義統の心は
   徳川方にあった。しかし元来思慮に欠け、人の言動に左右され易い義統は、毛利輝元の「秀頼公豊後一国安
   堵、豊後下向に際し、武具、軍資金、軍船、援兵を用意する」との言葉に一転翻意、お家再興とばかりあっ
   さり西方へ傾く義統は二男「長熊丸」らを人質に置き西方へ加わることを決める。
   この思慮に欠けた判断が、大友再興はおろか滅亡をまねくことになる。。「豊州亂記」によれば義統のこの
   決断は、8月16日杵築城より「黒田如水」に知らされたとある。黒田如水は義統に使者を送り翻意を促すが
   既に手遅れであった。
   この時黒田如水が素早く動いたのは、義統を買ったわけではない、自らの野心であった豊前、豊後を手中に
   収めたかったからである。如水は義統豊後帰参と聞き、蓄財をはたいて浪人者を集めた。恐るべき手配りで
   八千の兵を集め備えた。如水はこの後行われた「石垣原合戦」に勝利するとたちまち豊後各地を制圧、豊後
   豊前二國を手中に収める。如水には野心があった。がこの如水の野心も「徳川家康」には通じなかった。
   直後に行われた「関ヶ原合戦」後、如水への恩賞はなかったのである。
   「義統」は浪人らを募り長門より海路豊後へ向かった。この間も家臣らは徳川への説得を行ったが義統は聞
   きいれなかった。此の時点ではさすがに義統も自身の判断の誤りに気づいていた。がすでに突き進む以外に
   ない立場となっていた。義統帰参は、肥後加藤清正より豊後へ報じられ、木付城細川の守将、松井康之、有
   吉立之らは、旧領主の帰還に住民らを人質にとり、城の護りを固めた(豊州亂記には、柴田小六なる者が農民
   共200余りを引連れ、木付城へ押し寄せ、二の丸を打ち破り人質を取り返したとある)
   慶長5年9月9日義統は、柳川の立花宗茂に仕えていた従兄弟の「吉弘統幸」、豊後岡藩中川氏の与力に召し
   えられていた「叔父田原紹忍」「宗像掃部」ら旧臣に迎えられ別府浜に上陸した。(この時田原紹忍は、
   中川氏の旗印を持ち出し大友軍陣地に掲げる。これは後に中川秀成を窮地に追い込む。この紹忍の軽率な行
   為が佐賀関合戦へ繋がり、紹忍戦死を招く)
   知将吉弘統幸は、義統嫡男「義乗」が徳川家康に世話になっていることもあり、徳川に組することが利する
   と、徳川方への味方を進言したが義統の決意は固かった。義統は立石村古屋薗に本陣を置く、この地は標高
   240mの小高い丘陵地で、石垣原を遥か眼下に一望できる。背後は朝見川が深く落ち込み、まさに背水の陣
   であった。義統は鶴翼の陣を敷き、左翼に宗像掃部助鎮続、田原紹忍を、右翼に吉弘嘉兵衛統幸を配した。
          
       大友義統本陣跡(別府市南立石本村・旧立石村古屋薗)  南立石宗像陣地跡より石垣原方面望む
                                  後方の小山は実相寺山

        
           左翼宗像掃部助陣跡(南立石)       右翼吉弘嘉兵衛統幸陣跡〔別府市観海寺)

   慶長5年9月10日吉弘統幸率いる大友軍は、着陣早々杵築城に夜襲をかけるも敗退。さらに黒田如水着陣の
   報に石垣原まで後退する。この一帯は太平山(扇山)に続く緩やかな丘陵地で標高140m、火山噴出堆積物
   よりなる無人の荒野。海へ向かって境川が流れ、石垣原あるいは鶴見原と呼ばれた。
   9月11日黒田如水も石垣原へ、13日には木付城細川家の守将松井佐渡守、有吉武蔵守軍に援軍の宇佐時枝
   掃部軍が鉄輪に集結、木付勢は實相寺山に陣を、時枝軍は麓の谷筋に、黒田如水は実相寺山の西二町ほど
   「角殿山(現在ここは団地開発されている)」に本陣を敷いた。
   豊後府内よりも、竹中伊豆、不破彦左衛門らが黒田勢に加わった。れに大友勢は五町隔てて対峙。両軍の
   戦力は、大友軍寄せ集め2000騎(900とも)、黒田如水3000騎、木付勢200騎、時枝勢200騎、戦力には歴
   然とした差があった。
   大友軍の将「吉弘嘉兵衛統幸」状況を察していた。出陣に際し死を覚悟、義統の前に進み出て涙をはらい
   挨拶をした。
     「臣ハ累代厚恩ヲ蒙リ、死ヲ以テ君恩ニ報ント存レ共、是ノ度ノ戦ハ縦ヘ一旦利ヲ得ル共、
      後ノ利運トハ成難シ、臣今軍陣ノ中ニ入リ、生テ再ビ歸ラズ。然レバ今君ノ尊顔ヲ拝ス
      ルモ現世ノ御名残ニ候

   と再び涙を拭って拝謝して、手勢僅かに三十余人で石垣原へ下っていった。。
       
  
       黒田如水陣跡(旧角殿山、現在団地公園)     時枝掃部陣跡(実相寺山麓)

    戦いは大友軍の仕掛けに始まった。序戦は実相寺山を下った木付勢が大友軍を押し返す。統幸も実相寺山
   へ攻撃を仕掛けるが一旦石垣原まで引く。しかし追い討ちの黒田陣の森太兵衛、時枝軍に向け「統幸」は鉄
   砲の攻撃を仕掛け、黒田勢に大くの戦死をだす損害を与える。この日の合戦は七度に及び熾烈を極めた。
   二陣、三陣と繰り出す黒田軍に、宗像掃部も討ち死。「吉弘統幸」は馬上より大太刀を振るい敵陣に切り込
   む、この中で黒田の将「小田九朗左衛門」の鎗を相手に一騎打ち、小田九朗を組討で首を掻っ切り首級を挙
   げる。孤軍奮闘の統幸は、多くの切り傷を負うも三四十人を切り回すが劣勢の中遂に石垣原の高台へと後退、
   傍の大石の上に駆け上がる。此処で統幸は、黒田の将にて旧知の間柄「井上周防守九朗右衛門」の300騎に
   押し包まれる。

    以下豊州亂記の記述。
   「吉弘是ヲ見テ石上ニ立揚リ、又長刀ヲ振リ回ラシテ井上目掛テ突テカカリ、散々切立、前後左右ヲ切立テ
   追廻ラシ、向フ敵モ無キガ如クニ働ヌレド、周身諸處ニ疵ヲ負ヒ、サスガニ猛キ勇将ナレド、身心共ニ疲レ
   果テ、一段高キ處ニ跳リ上リテ、大音揚テ吉弘統幸此ニ在リ、我ガ首取テ功ニセヨト、腹十文字ニ掻切テゾ
   死シタリケル」統幸の最後については、井上周防の鎗で頬を切られ自刃したとも伝えられる。
   時に「統幸」37歳。彼もまた武門の誉れ高い吉弘一族忠義の将であった吉弘統幸終焉の地は、現在別府市
   荘園町に「七ツ石激戦地」として「大石」が保存されている。傍に「七ツ石稲荷大明神」奥には七ツ石温泉
   がある。
  
         吉弘統幸辞世の詩

             
「 明日は誰が草むす屍や照らすらん
                          石垣原の今日の月影 」


         
               石垣原古戦場跡          吉弘統幸終焉の地 七ツ石激戦地(別府市荘園)
                               右手の旗のぼりの奥に統幸が上り戦った「大石」残る

                   
                  
吉弘統幸供養塔・吉弘神社(別府市石垣西吉弘町)
                       石殿は統幸二男正久の仕えた細川氏が建立

   統幸の首は、黒田の武将小栗治左衛門によって黒田陣へ送られた。統幸の墓は別府市石垣西{吉弘神社」に
   ある。
   大友軍は立石に引き上げる。生き残ったのは、総大将「大友義統」の他、名のある武将は「田原紹忍、清田
   八左衛門、江藤又右衛門、春日善八朗」の四人に雑兵たちであった。
   9月14日、黒田陣営では義統討伐の軍議がなされる。一方「義統」はもはやこれまでと自害しょうとするが、
   田原紹忍に制止される。義嶺は森太兵衛を通じて降参を申し出る。義統は如水のとりなしで罪一等減じられ
   江戸へ送られる。書物によっては江戸牛込嫡男義乗の許に至ったとするのもあるが、慶長10年乙巳7月19日
   配所にて病死、享年48歳。法名 中庵宗厳院。400年続いた大友氏は終焉を迎える。
   嫡男「義乗」は利発で「家康」に仕え、慶長17年壬子7月12日病死。享年36歳
   法名 松聲院香嚴眞馨居士  子孫は代々高家として徳川に仕える。
   一人で踊り転んだ義統。時局を読めずうまく利用されたともいえる。やはり彼は凡将であったのだろうか。
   義統を西方に引き込んだ毛利輝元、大坂を動かず関ヶ原には向かわなかった。毛利は「元就」の代より大友
   と確執があった。策士「輝元」の魂胆が知れる。
   関ヶ原の前日、豊後の一地方でのこの合戦、それは豊後一国に留まらず、九州の支配が完全に徳川に移った
   ことを意味し、九州國人領主の去就に大きく影響した。
    別府温泉の歴史は古く、大友義鎮も別府温泉で「二階崩れの変」を聞く。 元禄時代には既に18軒もの
   温泉宿が有ったと言う。そして、温泉客の名所見物は石垣原古戦場巡りに人気があったという。
   九州に多くの古戦場が残る中でも、これほど多くの史跡が残る古戦場は歴史上貴重である。

   
    
吉弘統幸吉名川悲話(よしながわひわ)・・・既公開ページを統合した

     
     吉弘嘉兵衛統幸(吉弘鎮信 嫡男、高橋紹運の甥子、立花宗茂従兄弟)
           (永禄7年〜慶長5年9月13日  37歳 戦死没)


         
吉弘嘉兵衛統幸は慶長5年(1600)大友義統に従い「関が原の戦い」の直前行われた
         「石垣原の戦い」で「黒田如水」の大軍と戦い、壮絶な戦死をとげる。
         「統幸の首」は首実検の後「石垣原」の獄門台にに晒されたという。
         統幸の戦死を聞いた「吉弘氏」の菩提寺「金宗院」の住職は「統幸」の霊を弔うため、
         密かに石垣原へ「統幸の首」を取り戻しに行きました。
         「統幸の首」は風に光るカヤ原の中に変わり果てた姿で晒されていました。住職は涙
         ながらに「統幸の首」を背負い、鹿鳴越より奥畑を経由しやっとの思いで統幸の故郷
         「長岩屋」に帰ってきました。
         前の長岩屋川で統幸の首を洗おうとしました。すると「
統幸の首」はカツを開き
         「
ああ! 住職よしな吉名・やめなさい)」と叫んだのです。
         住職は大変驚き洗うのをやめました。そして寺(金宗院)へ持ち帰り供養しました。
         それからいつしか人々は、首を洗った此の場所(長岩屋川)を「
吉名川」と呼ぶよう
         になりました。


                      
 
                      
吉名川(長岩屋川)と呼ぶ付近の現況は
                  きれいな水が流れている
                     (現地案内板の絵)


          「吉名川悲話」伝説の案内板は、金宗院跡のある松行地区より、
           天念寺(川中不動)方面県道548号へ入る。
          現道(旧道)を暫く進むと、天念寺の少し手前にトイレのある広い
          駐車場がある。其の川沿いに建っている。
          なお「吉名川」と呼ばれる場所は、これより2kmほど下流である。


                     

                        
                          近くにある金宗院跡の吉弘嘉兵衛統幸の墓
          金宗院跡とは吉弘氏の日常の居城「筧城」のあった場所ではないかと
          推測されているいます。本城は「屋山城」である。
                    


                            参考資料      大友興廃記
                                           豊州亂記(義統黒田ト石垣原合戦之事)

                                           西治録(大友黒田石垣原合戦)
                                           豊州雑誌本(黒田如水石垣原軍記)
                                           大分歴史事典(大分放送)
                                           別府市HP

                   
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