岩 剣(いわつるぎ)
                 
              「日本で戦いに初めて鉄砲の使われたとされる山城

       「岩剣」とは、鹿児島県姶良郡姶良町平松にあった「山城」である。こんにち地図上には剣ノ岡(225m)と
      記されている。
      岩剣は三方をそそり立つ崖、南西の山へ続く鞍部も急な崖をなし、まさに岩剣と表現される要害である。
      この地点は、錦港湾の最北端に当たり、約二万五千年前の姶良火山の大噴火による陥没により、最終形成
      された姶良カルデラの北西端の縁に位置している。岩剣はその時カルデラの縁に残った輝石安山岩の崖の
      と見られる。この様な地形は、錦港湾北部縁の加治木一帯にも見られる。岩剣の急峻な地形は、一般人の
      登坂は危険である。
      「岩剣城」築城の詳しい経緯は不明であるが、現地説明板によれば享禄2年(1529)ごろ、西大隈を本拠とす
      る蒲生方によって築城されたとしているが、祁答院良重の築城、渋谷一族築城など様々である。
      岩剣城は薩摩と大隈の接交点に位置し、軍事上重要な城であった。

                     
                        手前「平松城跡(重富小学校)」より望む「岩剣
                        厳しい山様、とても人の住んだ山と思えない
                        小学校の石積みは、当時の平松城の石垣
                
                     「岩剣(剣ノ岡)」の麓、奥山花にある「岩剣神社」と案内板

       天文年間、「島津貴久」は父「日新斎」と共に薩摩半島をほぼ制圧統一した。そして向かう先は、西大隈の
       蒲生氏に、大隈本城「高山城」の「肝付氏」であった。南九州三州統一を目指す「島津貴久」にとって、薩摩
       大隈の国境に位置する要害「岩剣城」はどうしても制圧の必要があった。
       天文23年(1554)9月、西大隈の雄「蒲生範清」は、北薩においてなお島津へ抵抗する「渋谷良重、祁答院、
       入来院氏」らの一族に、菱刈、北原らも加わって島津討伐の挙兵をした。
       この時、「岩剣城」には渋谷一族の「祁答院良重」が、そして島津側は大隈「加治木城」を「肝付兼演(きも
       つきかねひろ)」が置かれていた。
       (注):肝付兼演は肝付氏の庶流で早くより島津氏に仕え、後に「喜入」へ移り治行5500石の重臣として
         活躍した。江戸末期「小松帯刀(肝付尚五郎)」を出したことで知られる。
         一方本家「肝付氏」は、永禄4年(1561)の島津氏と肝付氏との酒宴の席での家臣らの鶴狐騒動を
         発端に島津との抗争が続いたが敗退、天正5年には島津義久によって領地を奪われ、薩摩阿多へ
         移され、僅かの菜邑を与えられ小番格で島津氏へ使えた。これにより平安時代より500年にわたり
         大隈に君臨した肝付氏本家は衰退した。
       挙兵した蒲生方は、島津氏と友好関係にある「肝付兼演」の守る「加治木城」へと向かった。この報は直ち
       に島津貴久へ届けられた。貴久は薩摩国内の国人領主達を動員、忠将、尚久の兄弟に、義久、義弘、歳
       久の息子兄弟を従え加治木城救援へ向かった。
       貴久の策は直接加治木城救援を急がず、渋谷一族「祁答院良重」の守る「岩剣城」を攻めれば、蒲生勢は
       必ず加治木の囲み解き、岩剣救援に押し寄せるだろう読んだ。その時「肝付兼演」が撃って出て蒲生勢の
       背後を襲うとするものであった。貴久はまず蒲生の拠点「帖佐、蒲生」の両城へ兵を向け攻撃、蒲生勢の
       関心を引き、義久、義弘の息子たちに岩剣攻撃の陣形を取らせた。
       天文23年9月12日、島津貴久は岩剣城攻めを開始、攻防は熾烈を極めた。このとき島津は鉄砲を用いたと  
       され、祁答院側も鉄砲で応戦、これが日本で最初の鉄砲戦となった。島津の攻撃開始以来半月が過ぎた
       が天険の要害「岩剣城」は容易には落ちず攻防は一進一退。駆けつけた「日新斎」も兄弟の一人は死な
       ないと落ちまいと檄をとばした。これによって島津勢の士気はおおいに高まったという。10月1日総攻撃開
       始。島津勢は火を放ち城内を混乱させ城へ迫った。
       一方蒲生方は岩剣危急の報に、加治木城の囲み二千の兵で岩剣救援へ駆けつけた。これに貴久、義久、
       義弘の親子が激しく応戦。両軍死力を尽くしての激戦となり両軍に多くの損害が出る。戦いは蒲生の重臣
       「祁答院重経」の戦死するなど、名のある武将の多くが討たれ、蒲生軍は劣勢となりついに敗退する。
       「祁答院良重」僅かな兵ともども夜陰に紛れ落ちていった。このとき残された女たちは、化粧箱を投げるなど 
       抵抗したが、ついに岩剣の崖より身を投じたちいう。
       こうして「岩剣城」は落城。西大隈の要であった蒲生の防衛線が崩れた。敗れた蒲生範清はその後も島津
       へ抵抗するが弘治3年ついに降参する。
       島津にとって「岩剣合戦」の勝利は、南九州「三州統一」への扉を開いた戦いとなったのである。
      
        「岩剣城には「島津義弘」が守将として入城するも、岩剣の余りにも険しい地形に、日常生活には不便と、
       岩剣の南の麓平松へ「平松城」を築き守備の拠点とした。
       現在平松城址は重富小学校となっていますが、敷地を囲む石垣は「義弘」の築いたものであります。
      

                                           参考資料  現地説明板ほか
                                                   

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