大友加判衆 


      豊後大友氏には「加判衆かばんしゅう)」と称する武家の家老職(老中・年寄)に相当する重臣職が
     あったとされる。
     「
加判」あるいは「加判列」は中世戦国時代より藩政時代には、武家の間では広く用いられた。
     「加判」は文字通り「判」を加えることを指し、当主の意向を執り行うための文書に署名押印することを指す。
     「
広辞苑」によれば「武家時代、執政の職に列する者。鎌倉幕府の連署、江戸幕府の老中」とある。
     従って「加判」とは当主を補佐し、公文書に連署押印しする重臣、あるいはその家柄を指し示す呼び名で
     あったとみられる。
     「
大友加判衆」は当主を補佐するため、「加判」これが発展的に長じて年寄=加判衆、または年寄りに変わ
     る重臣職として扱われるようになったものであろう。
     加判衆は、当主を補佐し領地の受け渡しや、各種奉行、政所の全般を統括管理し、その意見や行動は
     当主の執政を左右したこともあった。
     「義鑑・義鎮」時代、大友氏の名のある有力重臣は、殆ど加判衆に任じられている。
     「戸次鑑連」は永禄4年(1561)から元亀2年(1571)の間「加判衆」努め、同年「方分」として「立花山城督」
     として筑前に入った。
     このほか大友氏には「
方分かたわけ・ほうぶん)」「政所まんどころ・まどころ)」といった地方支配の職も
     あった。
     「方分」は新たに切り取った他国の領地(征服地)を統括するもので、同紋衆の重臣らが当てられた。
     「政所」は豊後国内統治を円滑に行うための職で、その職に国人領主らを宛がい不満を押さえ、国内支
     配体制の体裁をとったもので、言い換えれば大友氏の国衆支配の不完全さを示すものでもある。
     こんにち大分県内には、地方中心に政所という地名が各地に残る。
     「加判衆」が大友氏の年寄職に相当するものであることは衆知の事であるが、加判衆の名称が文書上に
     見える のは「大友義鑑」「大友義鎮」のころで、其の代表的なものが「二階崩れの変」後、傷ついた「義鑑」
     が死の直前遺した「
義鑑条々」に、加判衆について規定している。
     是によれば「
国衆加判衆一意之事」「加判衆之儀者可為六人可為紋之衆三人他姓衆三人事」と規定し、
     加判衆の人数割り振りを「
同紋衆3人国衆3人6人」とすることや、同紋衆と国主家臣団との協力体制
     について示している。
     また、「
萬雑条々」には「加判仰せつけられ候事、当時加判衆無人数之条、御辛労乍各々申談じられ、前々
     之如く執沙汰肝要に候、恐々。何之何かし殿、いくたりもへ、銘銘に下され候也
」と加判衆の任命について
     定めているとする。
    
 武家には、年寄、家老、老中といった重役職が見られる。しかし大友氏においては「老中、老共、家老、年
     寄、宿老等々」は俗称であって公式呼称は「加判衆」と称するのが正しいとする説がある(大分歴史事典)。
     しかし橋本操六氏(大分歴史事典) は、加判衆だけを正式呼称とするわけにいかないとしている。
     それは、大友19代当主「
大友義長(1478〜1513)」が出した「条々事書」には、「年寄衆、常に在宅然るべき
    
 候」とあり、「萬雑条々」にも「年寄中」「宿老」の名称が頻繁に出ていることにあるとする。
     また、明応初年(1492)「田原親宗」の出した書状にも年寄共、宿老の名称が見えるともあり、加判衆の名称
     は出てこない。
     また、「
大友公御家覚書」の中「代々御定の事」では、「老中六人、申次二人、御膳番六人」とあり、加判衆の
     名称はは出てこない。
     義長の時代「朽網親満」「小佐井堅永」「寒田親景」「永富繁直」本庄繁秀」「大津留繁綱」らを「大友政親」
     時代の加判衆を引き継いだとするものがある。
     しかしこのことを伝える明応6年(1497)の奉書も「
大友年寄衆連署奉書」となっており、「年寄衆」と表現して
     加判衆の文字は見えない。  この様に、義長以前には加判衆のみの呼称の定着は見られない。

     「加判衆」と言う大友特有の重臣職がいつごろ成立したかは定かでない。冒頭にも記したように、「加判」の
     言葉は戦国の頃より広く用いられていたので、豊後国でも当然使われていたことは考えられる。
     書き物によっては、義長時代に「臼杵長景」が臼杵氏初の加判衆、前記のごとく「朽網鑑康」「一萬田常泰」ら
     も義長の加判衆としてはいるが、このことを記した「大友年寄衆連署奉書」は年寄衆としており、「政親、義長」
     時代は、年寄から重臣職「
大友氏加判衆」への移行期にあたり、「加判衆」の職が年寄(家老)職に変わるも
     のとして定着していくのは、義鑑以降ではないだろうか。
     まず一つには、それ以前の年寄、宿老らを「加判衆」とするは、中世戦国期「加判」の言葉が広く用いられて
     いたことや、近年の歴史研究活動において、それまでの年寄、宿老を、特に「義鑑・義鎮」時代の加判衆に
     準え、年寄重臣らをその様に呼んで整理したのではないかと推測する。
     また二つには、広く「加判」の名称が使われていた事を考えると、実務上「加判」の業務を任じられていた
     「加判列」に属す特定の年寄・老中重臣を、「加判衆」として重複して称したとも考えられるのである。

     
      なお、大友氏が豊後入府後、豊後大神氏一族「稙田氏(わさだ)」が大友氏に重用され「加判衆」を努めた
     とされているが、おそらくこれはまさに「加判」を行う「加判衆」であったと推測され、大友氏を支える重要な
     一族であったには違いないが、戦国末期の「
大友加判衆」と称される職とは性格が異なると見られる。


        「
義鑑・義鎮・義統 時代の主たる加判衆

                       一萬田常泰、吉岡長増、佐伯惟教、小原鑑元、
                       「臼杵鑑速、
戸次鑑連、吉弘鑑理の豊州三老」
                       田北親員、朽網鑑康、田原紹忍、志賀親守、
                       志賀親慶、斉藤長実、
戸次鎮連戸次宗傑


                                                 
    参考資料   大分歴史事典



                                 加判衆