戸次鑑連諌言之事


        弘治4年は改元され永禄元年(1558)。豊後国「
大友義鎮」は絶頂期を迎えていた。
       「二階崩れの変(1550)」より8年、この年大友家は「義統」が誕生。義鎮は九国六カ国の
       守護を手にいれ、その武威火の燃ゆる如くであった。
       この「大友義鎮」に対し、京都公方「足利義輝」は豊後(豊州)へ使者を下し「九州静穏の
       條武略の至り、天下の倚頼他なし、早々に筑紫勢を鎮圧上洛し、皇都の乱鎮むべし」と
       御教書を下した。しかし、豊後国と京都は海路はるか数百里を隔てており、遂に義鎮が
       上洛することは無かった。
       この時期、豊後府内城下は商屋が軒を並べ、府内に近い浜、浦々は多くの商舟が集まり
       その繁盛振りは大変なものであった。博多に着いていた唐の商船も永禄2年ごろよりは
       府内にも着くようになった。
       「大友義鎮」のこの勢いは「吉岡長増」「戸次鑑連」「吉弘鑑理」「臼杵鑑速」といった有能
       家臣団の働きによるところが大きかった。
       しかし「義鎮」いつの頃よりか、歌舞酒興の乱舞好み、京の都、堺港など諸国より美女を
       招き、昼夜閨中(けいちゅう・寝間の中)で過ごすようになってしまった。この為「義鎮」に
       媚(こび)ヘつらい、寵を受けようと争う者が続出した。
       「義鎮」は驕り高ぶり、その時の機嫌に任せ幼いものにも賞を与えたり、科(とが)の無き
       者を罰することも後を絶たなかった。
       こうした「義鎮」に対し、大身(たいしん)の者は禄(所領)を重んじ、小身の者は身を憚り
       諌める者が出なかった。
       こうした大友家中にあって大友一族「
戸次丹後守鑑連」は、知勇に優れ、忠義当世に稀
       なる武将と家中の評判は高かった。 
       この「鑑連」申すに「諌むべきを見て諌めざるは、即ち家臣の道にあらず」と日々登城し、
       義鎮に面会を求めるが義鎮は一向に逢おうとしなかった。
       どの様にしたものか思案した「鑑連」は、「義鎮」の日常の所行を逆手にとることにした。
       京より、容貌麗しき女を大勢招き、昼夜に躍らせて見物した。これを洩れ聞いた「義鎮」
       「戸次は武芸ばかりで、遊興は好まぬ者が心得ぬことかな見物すべし」となった。
       これに「鑑連」大いに悦び踊り子を多数従えて登城し、「三つ拍子」という踊りを三度まで
       躍らせた。是を見ていた義鎮の入興は甚だしい限りであった。
       この時「丹後守鑑連」は、「義鎮」の前に進み申し上げた。「お屋方様の勢い日の昇るが
       如くあり、隣国を伐り従え、六カ国を掌(たなごころ)に握らせ給う。去るによって、御威光
       先祖に十倍せり 、然るにこの頃、政事(まつりごと)なげうち、色を重んじ酒興に昼夜を
       忘れさせ給う故、六カ国の善悪に付き、兎角申し上げるべきようも候わず。特には中国の
       毛利時を窺い、当家を滅ぼし九州を手に入れようとあい企み候。もし領国の中より反逆人
       でれば、一大事に及ぶべし。かかる時に逸遊を好み、美女を愛され候こと当家滅亡の基
       何事か是に如かん。国の為、御身の為、御先祖の為、御子孫の為、家臣の為に候えば
       御行状改め候らえ」と涙ながらに申し上げた。
       義鎮も思いもよらぬ鑑連の諌言に驚いたが、頷き納得をした。
       翌月7日、家中祝儀があって家臣が登城してみると、義鎮は儀式正しく対面し、家臣らを
       驚かせた。人々は、これは「鑑連」の忠義の「諫言」と感じ入ったという。
  
              「 
諫言は、一番槍より難し  ・・・・ 徳川 家康 」

       「一番槍」とは、読んで字の如しの意味もあるが、「合戦において最初に戦功のあった
       名誉ある武士を指す」

                                       引用資料   九州諸家盛衰記
                                                豊肥軍記集

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