筑前河水記

     「凡國中にて、千年川遠賀川を大川とす」筑前国続風土記(元禄時代)巻之二提要下「河水記」の
    書き出しである。
    此のページは、当筑前国続風土記にある「筑後川(千年川)、遠賀川」中心に中世筑前国の川の名
    称等の扱いを見ることにする。続風土記の記述では、当時は流域、水系といった概念はなく、本川、
    支川も一つの川と捉えているところが面白い。
    先ず、「
千年川千歳川・こん日では筑紫次郎・筑後川遠賀川」について観て見る。

   
千年川は上座(かみつあさくら)下座(しもつあさくら)の西南の側を流れて筑前筑後の両間に
    あり。故に川を以って境とし両国に属す。其源は肥後国小国郷、豊後国玖珠郡より流れ出て、日田
    郡経、且つ筑後生葉郡(浮羽郡)よりも出、志波に至りて、其の水勢盛也。九州一の大河也と云」
   「上座、下座の漁人、昔より此川にて漁(すなどり)す。鵜船を下して鵜をつかひ、所所に網所(あ
    ど)を打て魚とる」此の記述より、この時代千年川では盛んに漁が行われていたこと、既に鵜飼漁
    もなされていたことがわかる。また「夏秋ハヤの多き時、下へ下らしめずして、その上で網を打つ
    ため、網所(あど)とて川向ひ迄竹木を立て、ふせぎとする所、筑前の内に所所あり」として、川
    へ簗を渡し堰上げ、ハヤ(魚偏に條)の漁が盛んであったことが知れる。(今にち人気の鮎の漁は、
    その習性のわかる後年になってからであろうか。とはいえ、古事記には神功皇后が最初に鮎を釣っ
    た記述がある。)
   「土民堰手をせき、川水引て田地に注ぐ、此の川両国に属せし證しなり」風土記の書かれた元禄時代、
    千年川(筑後川)では、恵蘇の宿に既に大堰手をつき川を堰上げて水を引いたことも書かれている。
    此の頃既に大石堰が築かれていたのであろう。
   「此川南は皆筑後なり。北は筑前肥前なり。筑後の方がながく川を帯たる故に俗に
誤まりて筑後川
    いふ。是本名にあらず、
千年川と称すべし」とある。となると一級河川「筑後川」の名称誤って
    こん日までそのまま使い続けたことになる。

   「
遠賀川」「遠賀川は鞍手郡木屋瀬より来り、敷村を経て芦屋に至り海に入る。故に此川、上にて
    木屋瀬川(こやのせがわ)といひ、下にて芦屋川といふ」とある。また別の巻きでは「此川の源は、
    嘉麻郡桑野より出、其外所々の山谷より出。又豊前田川郡よりも流出る。国中にて第一の大河なり」
    とある。

 
   また風土記には、「川上にて渡守所々に在って、船にて人を渡す。東は中間村より古賀まで、西は
    土生(はぶ)より広渡まで大河の両わき(両岸)に五十町(約6km)許の土堤あり。嘉永五年に
    国主忠之公(黒田二代・黒田忠之)の命うけて、下見孫左衛門、馬爪源右衛門是をつけり。此堤の
    間を大河流る。此川芦屋より潮入て、土生村まで三里半のぼる。遠賀郡土地低き事是を以って知る
    べし。土生村(現中間市垣生・はぶ)より上には潮上らず」とある。
    元禄時代、既に遠賀川には、両岸へ6kmもの堤防が築かれたこともわかる。
    河水記より遠賀川部分をつなぐと、遠賀川最上流部は
桑野川と云い、下って大隈川となる。飯塚片
    島で
飯塚川(穂波川)と合流。さらに下って嘉麻川となり直方川と変わる。(記述より、嘉麻川は、
    現穂波川合流点より彦山川の合流点間を指すと見られる)直方で嘉麻川、下境川(彦山川)が一つ
    になり
直方川、更に植木川(犬鳴川)を併せ木屋瀬川となる。木屋瀬川は下流で島津川(西川)と
    合流
芦屋川となり海に入る。総称して遠賀川である。遠賀という名称も元は瑦舸(おか)、岡が変
    じたとされる。

 
   千年川筑後川)、遠賀川の河川名には、呼び名で大きな違いがある。
    千年川は上流より下流まで千年川。一方、遠賀川は上流から流下地点ごとに呼び名が変わる。此の
    違いおそらく千年川が、筑前筑後肥前の国境(くにざかい)になっていたからであろう。


   「
舟 運」についてみて見よう。
   「国中船を浮ぶる川は、千年川、遠賀川なり。遠賀川の上、飯塚秋松まで船上る。又鞍手の境村の上
    は、豊前田川郡まで船上る。植木川(犬鳴川)の上は宮田まで船上る」
    遠賀川では、本川、支川共に上流深く舟運のあったこともわかる。
    千年川の詳しい舟運の記述は無いが、川下に船入川は、多々良川、那珂川等々の記述があるので、
    千年川は、川下だけでなく上流まで舟運のあったことが覗える。

    筑前国内にある「千年川、遠賀川」の「
支川」の主だった支川について見る。
   「
千年川支川
    ・ 蘆城川(あしきかわ) 「宝満川のこと。上流は柴田川とも云った。
                  香園村(筑紫野市)よりながれ出とある」 
    ・ 秋月川 「小石原川のこと。上座郡小石原村よりながれ出とある」 
    ・ 三奈宜川 「佐田川のこと。上座郡佐田佛谷よりながれ出とある」
    ・ 福井川 「大肥川のこと。小石原村、宝珠山よりながれ出、豊後国(現日田市)に流入とある」
   「
遠賀川支川
    ・ 漆生川(うるしおかわ)「山田川のこと。熊畑山よりながれ出とある」
    ・ 飯塚川 「穂波川のこと。君が畑、彌山、土師よりながれ出とある」
    ・ 仁保川(にほかわ) 「庄内川のこと」
    ・ 大賀畑川 「八木山川のこと」
    ・ 下境川 「彦山川のこと。中元寺川合流点より下流。上流彦山川豊前国田川郡より出とある」
    ・ 植木川 「犬鳴川のこと。上流は、宮田川、若宮川と呼んだ」
    ・ 島津川 「西川のこと。上流は新延川(にのぶかわ)と呼んだ」
    ・ 猪隈川 「神田川のこと」
    ・ 大渡川 「江川のこと。遠賀川芦屋の末。三頭といふ所よりわかれてとある」
    ・ 長崎川 「新々堀川のこと」
      遠賀川の下流右岸では、曲川、笹尾川、黒川など記述は無い。

   「
筑前国他の代表河川
    ・ 糟屋川 「多々良川のこと。金井手川とも呼んだ」
    ・ 宇美川、須恵川 「よび方は今も同じである。現在は多々良川へ合流しているが、当時は直接海
      への流入するとが書かれていることから、この辺りまで海であったことがわかる」
    ・ 比恵川 「御笠川のこと。上流部は宰府川と言った」
    ・ 那珂川 「中流部は、岩戸川とも云った」
    ・ 早良川 「室見川のことであるが、中世室見川と呼んだのは、現在の国道202辺りより下流を指
           した」
    ・ 田島川 「樋井川」
    ・ 高祖川 「端梅寺川」
    ・ 莚内川・青柳川 「花鶴川のこと」
    ・ 江口川 「宗像市の水源、釣川のこと」

   「
ハヤ漁
       先に少しふれたが、当時川漁は、「
ハヤ漁」が中心であったようだ。
      続風土記は、「国中ハヤ(魚偏に條と書く)の産する川、上座、下座の千年川、下座美奈宜川、
      夜須郡秋月川、那珂川、糟屋川、莚内川、鞍手郡若宮川、吉川川、大賀畑川、嘉麻郡大隈川、
      漆生川、御笠郡平等寺川、蘆城川、早良川(室見川)、怡土都高祖川(端梅寺川)、井原川
     (端梅寺川上流)、雷川(和泉川と云った)なり。此外の小流には、ハヤの産する事すくなし。
      又深山の内には、高滝ありて ハヤ上らず。是をハヤ返りといふ。」
      此の記述見ると、中世筑前国の各河川は「ハヤ」が多く生息していたようである。「ハヤ」は
      ウグイのことと辞書にあったが、豊後国では「ハヤ」は「ハエ」と呼び「ウグイ」は「イダ」と
      呼んでいた。一般にハヤは小型の川魚で今もハエとも呼んでいるが。

      以上、筑前国続風土記河水記より



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