香春岳城争奪


    「香春岳(かわらだけ)」とは、筑豊の名山「福智山」山地の南端に位置して、南北に福岡県田川郡香春町を貫く
    山である。「一の岳・二の岳・三の岳」という三つの峰を持ち奇峰といって云い。「香春」の語源ははっきりとはしな
    いが古来朝鮮語ともされる。此の山の歴史は古く香春の地名は万葉集の中にもに詠まれている。八世紀頃には
    我が国最大の銅の産地となり、宇佐神宮へ奉納される鏡の原材料ともなった。銅の採掘坑口や間歩と呼ぶ坑道、
    採銅所の地名は今に残る。
    そして近代には、筑豊が石炭景気に湧いた時代のシンボル的存在として「ひとやま、ふたやま、みやまあこえ」と
    炭坑節にも唄われ親しまれてきた。こん日では石炭産業は終焉を遂げたが、新たな資源として一の岳では極め
    て良質の石灰岩が採掘されセメント産業が盛んである。かって491,8mあった一の岳は平らに削られ、往時の面
    影はない。管理人は平成6年、一の岳の石灰岩採掘現場を見学した事がある。目にした石灰岩は正に純白その
    もので白いダイヤと呼ばれる此の山の石灰岩の高品質を理解した。香春岳の石灰岩は余りにも高品質のため、
    掘削の際発生する表土等の不良品質の土砂も捨てることなく投入しセメント生産に都合がよいのだという。捨て
    るところの無い山である。
    「香春」の地は、古くには豊前国府へ通ずる「太宰府官道」が通り交通の要めの「宿町」として栄えた。こん日でも
    その交通要所としての位置づけは変わらない。このため香春岳城は、筑前、筑後に通ずる戦略上の要所として
    重要視された。  
    「香春岳城」は10世紀のころ築城したとされ、九州でも最古級の山城である。築いたのは「藤原純友」という。
    「純友」は有力な貴族の出身でありながら悪党(海賊)となって乱を起こす。香春岳城は「純友」が瀬戸内を蹂躙し
    さらに太宰府を襲う拠点として天慶3年(940)、二男の「紀年(純年)」に築かせた城だという。その「純友」も天慶
    4年朝廷軍の追討を受け太宰府へ逃れるが、博多湾海戦に於いて「大蔵春実(原田、秋月、江上、高橋氏の祖、
    春実はこの時の恩賞で筑前原田郷与えられ土着、原田氏を名乗る)」の水軍に破れ伊予に逃れるも捕らえられ
    獄死する。(香春岳城は「鬼ヶ城」と呼ばれ天主台等の遺構が残る。)
    香春岳城の名称は保元2年(1157)頃太宰大弐平清盛が改築し命名したともいう。

    以後香春岳城は、豊後「緒方三郎惟栄」を初めとして次々と争奪が繰り返され城主が交替するのである。建武
    年間には菊池や少弐も城を廻って争った。そして応永元年(1394)香春岳城は「千手信濃守興房」が少弐頼光
    下し城主となった。14世紀末には豊後大友氏の勢力下に入る。
    此の頃、将軍家にも匹敵する守護大名となった中国大内氏は九州制圧を窺っていた。 応永6年(1399)正月、
    千手興房の守る香春岳を「大内盛見(もりはる)」の軍勢が攻め入る。盛見は三日三晩に亘る攻撃で城を落とし、
    城主興房らは婦女子、家中数十名を道ずれに自刃する。こうして豊前、筑前北部は大内氏の支配下となった。
    (註)応永6年「大内盛見香春岳合戦」の年次には若干疑問も残る。応永5年〜6年は盛見の父「大内義弘」の
       幕府「足利義満」との対立が悪化し、義満の京上洛の命にも義弘は従わなかった。遂に応永6年10月義弘
       挙兵「応永の乱」が勃発。義弘は幕府軍3万の前に敗戦討ち死する。大内盛見が義弘戦死後の家督争い
       を制したのは応永8年(1401)の事である。応永6年正月は大内義弘と幕府の関係が一触即発の状態にあ
       ったと見られ「香春岳城」攻撃の余裕があったかどうか。「盛見」の家督を継承した以後の事であれば応永
       8年(1401)以降となる・・?・。

    時代は下って天文20年9月、「大内義隆」が「陶晴賢」の謀反によって「築山館(山口市)」に居たところ襲われ
    長門「大寧寺」に討れた。西国一の守護大名と隆盛を極めた大内氏は滅びる。其の「陶氏」も大内後継と名乗
    る「毛利元就」によって亡ぶ。以後、九州では豊前、筑前の諸城を巡って「大友」と「毛利」の対立は激化する。
    特にこの香春岳城は目まぐるしく動いた。
    永禄4年6月「大友義鎮」は側近「田原近江守親賢」「戸次伯耆守鑑連」「田北刑部少輔鎮周」「田北民部大輔鑑
    重」ら大友麾下の諸将に道中の豊前宇佐衆(時枝氏らか)加え六千余騎の大軍で豊前に侵攻、毛利方の諸城
    を落とし、同年7月に入り香春岳城へ押し寄せた。「香春岳城」では毛利とは親密な関係にあった香春大宮司家
    「原田五郎義種」が僅か三百余の将兵で守っていたが激しく抵抗、香春岳の天険の地形を巧みに利用し、天よ
    り石撃ち、弓矢を浴びせたので寄せ手の大友勢は多くの損害を出し一旦退く。この時「義種」は己より先陣きっ
    て引く大友勢に深追いを仕掛けたが、経験豊かな大友の将「戸次鑑連」は新手を注入、追撃してきた城よりの
    後陣を遮り香春勢を分断したので城勢は総崩れとなって多くが討たれた。「義種」は辛うじて城へ引き上げる。
    数日の小競り合いの後、7月15日大友勢の総攻撃が開始された。城守「義種」は残った兵を指揮し複雑な香春
    岳の地形を利用して果敢に戦ったが、大友の大軍の前になす術なく二の岳、三の岳と次々に落城。一の岳へ
    追い詰められた。覚悟した「義種」一族に主従23人は、雑兵の防ぎ矢の中、列座の上腹掻き切って自害した。
    香春岳城を占拠した大友義鎮は南志賀氏「志賀常陸介鑑隆」を城守として置き守らせたが、早くも翌年9月に
    は毛利は不意を突き猛攻の末香春岳城の奪回「杉連緒」を配した。元就が香春岳奪回を急いだのは、それ
    ほど此の城が筑前へ通ずる交通確保の要であった為である。
    九州を窺う毛利と大友の争いは熾烈化していったが、永禄6年5月(1563)幕府の調停もあって大友・毛利の講
    和が結ばれ香春岳城は破却の危機超えて一旦大友氏に渡された。(恐らく「千手氏」が置かれたと思われる)
    永禄11年毛利元就は大友毛利の講和を破棄再び香春岳城を占拠「堀立直正内藤就藤」が城将として入城。
    この時筑前の「立花山城」も毛利の手に落ち、大友氏にとっては筑前における最大の危機を迎えていた。
    此の非常事態に大友義鎮の加判衆「吉岡越前守長増(宗歓)」の知略が元就を動かす。長増は元就の主力が
    九州に集結している事に目をつけ、中国大内氏の旧臣達に働きかけ支援、豊後に亡命していた「大内輝弘」
    をたて大内氏再興の奇策を図る。中国に入った輝弘の下には忽ち六千余の大内旧臣が集まり侮りがたい勢
    力となった。驚いた元就は筑前、豊前に侵攻していた全軍を引き上げる命を下し、大友氏は労せずして立花山
    城、香春岳城を奪回。毛利氏が撤退した事により反大友の旗頭「宝満山三河守高橋鑑種」は遂に降参。
    戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理の大友三老は鑑種の切腹を決めるが、一万田氏の助命嘆願により小倉城へ
    移される。小倉城は毛利氏の支配下にあって鑑種にとっては、反大友の拠点を得たようなものであった。
    天正6年秋「大友宗麟」は日向へ侵攻したが高城耳川の戦いで致命的な敗北を規し、北部九州での反大友の
    動きが加速する。鑑種も公然と反旗を翻し、毛利撤退後香春岳城を守っていた「千手鑑元」を攻め降参させ、
    「高橋元種」を置いた。高橋元種は父「秋月種実」と共に九州制覇を狙う「島津義久」に組したため、方や全国
    制覇を進める「豊臣秀吉」の奉行「毛利輝元」、「黒田官兵衛孝高」を相手に抗戦するが遂に降伏する。
    「純友」の築城以来、是ほど争奪の繰り返された城は他にはあるまい。こうして「高橋元種」は九州戦国史上に
    おける香春岳城最後の城主と云っていい。

                     
                     香春岳遠望。一之岳は石灰岩の採掘で昔の面影はない
                    香春岳城は写真一之岳の向こう側二之岳にに近い中腹に
                    あったとされているが主要部は失われた。

                     
                     田川市石炭歴史博物館より香春岳を望む(H24.11.18)