景行伝説
             「大和政権と土蜘蛛



    此処に書く「景行伝説(けいこうでんせつ)」は豊後風土記にも伝えられる、豊後国における大和政権の地方統治の
   あらましである。  「豊後国」即ち「大分」は古くは「碩田於保岐陀おおきだ)」と呼んだ。
   景行伝説は、「日本書紀」の景行天皇紀が伝える出来事であるが、「伝説」とするのは、景行紀の記述はこんにちの
   歴史感にはそぐわず、ほぼ創作とされているからである。
   日本書紀では、景行天皇は「景行天皇元年辛未(かのとみ)(西暦71年)」より「景行天皇六十年庚午(かのえうま)」。
   在位六十年106歳で崩御した事になっている。実に、正妃、次妃の間に八十人もの皇子皇女もうけ、うち七十人は各
   地に封じられ、其の地方の祖となったとしている。
   しかしこの時代日本は「弥生時代」「倭女王卑弥呼」さへ未だ現れていない。こん日の歴史観では卑弥呼以前に大和
   政権が国を統一したとは考えられない。従って「景行天皇」その実在すら疑わしいのである。景行紀は、天皇自らが
   大和政権に従わない地方の有力者(土豪)らを討伐し、大和政権の成立させた旨を伝えている。その風土記の中心
   は「土蜘蛛(つちぐも)討伐」である。大和政権に従わない辺境の者たちを、「耳垂」「鼻垂」などの非人間的な言葉で
   表現し、天皇をより尊大化しょうとしている。
   「土蜘蛛」は、日本書紀「神武天皇即位前記巳未年(前662年)二月」に既に書かれている。 大和国の「新城戸畔
   (にとべ)」「居勢祝」「猪祝(いのり)」この三箇所に土蜘蛛がいて従わないので誅罰した。また、高尾張邑(たかおは
   りむら)に土蜘蛛が居て、その為人(ひとなり)は、「身短而手足長(身丈短くして手足長い)」とある。土蜘蛛の呼び
   名の発祥はよく分らないが、政権に従わない地方の首長等を非人間的に卑称したものである。これには当時国民を
   さげすみ奴隷視していた政権の思惑も見て取れる。土蜘蛛伝説は豊後国のみならず、常陸、越後、摂津、日向、
   肥前等にも見られるが、多くは地方の内陸部にあって、その呼び名を「猿・猪・鹿」など野生動物名に例えたり「土折、
   猪折、麻剥」など、様々に蔑称している。是は、海辺域に比べ内陸には大和政権の影響が及ばなかったのではない
   かとも見られているが大分県では5世紀には、直入、日田などの内陸部まで前方後円墳が築造されており否定的な
   見かたもある。 以下、日本書紀「景行天皇」紀を中心に、「景行伝説」として記す。

   「景行天皇十二年(82)壬午(みずのえうま)「冬十月。到碩田国。其地形広大亦麗。因名碩田也」とある。
   「碩田。此云於保岐陀(現、大分県の古代名)」。
   景行天皇は十月大分(県)に到着した。其の広大で美しい地形に碩田(おおきだ)と名づけた。是が「大分」の語源と
   いうわけである。
   碩田に到着した天皇は「速見邑(はやみむら)」で「速津媛(はやつひめ)」の出迎えを受けた。速津媛の言うには、
   山に「鼠石窟(しょせっくつ)」という大石窟があって、その石窟には二人の土蜘蛛が住み、一人を「青」、二人めを
   「白」という。 また、直入県(なおいりあがた・現竹田市)「禰疑野(ねぎの)」には三人の土蜘蛛いて、一人を「打猿
   (うちさる)}二人めを「八田(やた)」三人めを「国摩侶(くにまろ)」。この五人の人なりは皆猛々しく(強暴)で其の
   一族も多い。この者達が言うには「不従皇命」天皇の命令には従わないといっていると伝えた。天皇は来田見邑に
   権興宮を設け逗留し土蜘蛛討伐にあたった。
   天皇は、山を穿ち草を払い土蜘蛛を山野、石窟に追い悉く殺戮した。天皇は城原(きばる:竹田市)へ返し、打猿、
   八田を禰疑野で征伐した。其の流れる血は稲葉川(大野川)を染、其の血の流れ着いた所を「血田(知田・豊後大
   野市緒方)という。天皇の直入県禰疑野の打猿、八田、国摩侶一族の退治には十月いっぱい費やしている。このの
   ち景行天皇は、日向国へいり熊襲討伐にあたり。葦北、八代、阿蘇、筑紫 、浮羽と転戦した。

   研究者の文を借りれば景行伝説は創作であるが、大和の豪族達の家の伝承とする。五世紀大和政権が九州を従
   えるため、大和の豪族を九州へ派遣した事実によるものとしている。大和に従った有力者は前方後円墳を築いてい
   った。また、服従しない者の情報受けた大和政権が討伐軍を派遣した。「景行伝説」は辺境などの大和政権の力の
   及ばない地方有力者を「土蜘蛛」という蔑称で呼び、是を退治した景行天皇という人物をつくりあげ、英雄伝としたも
   のである。


   七ツ森古墳と禰疑野土蜘蛛伝説
    大分県竹田市の菅生戸上(すごうとのうえ)というところに「七ツ森古墳」がある。 また古墳より2km西、今地区
   には土蜘蛛伝説の伝わる「禰疑野にぎの)神社」もある。
   この七ツ森古墳は「古墳時代前期」の古墳とされ、文化庁指定の史跡である。大和地方の特徴もつ此の古墳群、
   とりわけ「前方後円墳」は九州最古のものとされている。
   此の菅生地区は大分県の西南部に位置し、古代には九州でも著しく辺境の地であったと見られる。
   では何故、このような豊後の奥地に早くより古墳が築かれ、土蜘蛛と称す地方豪族、そして「禰疑野」の名称が中央
   大和まで伝わっていたのか。
         
          九州最古七ツ森古墳(竹田市菅生)    土蜘蛛伝説の伝えられる禰疑野神社
  
    この辺境の地に、古墳時代前期の古墳が何故築かれたのであろうか。それは何にもまして、当時の大和
    中央集権国家の力が強力であったことを意味する。国家の派遣した国司による国衙の国府統治がほぼ
    行き渡っていたのである。この菅生台地にも、早くに中央政権に従った豪族がいたことが、七ツ森古墳が
    証明している。しかしそうした中央政権に従わない有力者がいたことも、土蜘蛛伝説が物語っている。
    禰疑野の土蜘蛛伝説は、早くに大和政権に従った有力者によって、天皇に従わない一族のいることを中
    央政権へ伝えていたことは間違いない。それが日本書紀の景行紀の伝える「禰疑野」の名が、日本書紀
    の成立した八世紀の初頭、大和にまで聞こえ「土蜘蛛」伝説が創作されたとみられる。

                       参考資料   日本書紀
                                古事記
                                大分歴史事典

                            トップへ