戸次氏祈願所
上津神社・上津八幡宮(かみつじんじゃ)豊後大野市大野町大字片島字上津山
「鎧ケ嶽城・戸次氏」の崇敬集めた神社
御祭神「月読尊」「神功皇后」「応神天皇」
(注)応神天皇は、一般には「八幡神」とされる。
「八幡大菩薩」は「源 頼朝」鎌倉以来、
源氏はじめ武家の崇敬を集めた。
開基、神功皇后3年(203)11月3日、月読尊勧請
その後、聖武天皇の神亀元年(724)応神天皇、神功皇后を相殿に勧請して「上津八幡大神」と号す。
承和元年(834) 国司大江宇久宮社を造営。
寿永2年(1183)「緒方三郎惟栄」社殿修復、田地30町歩j寄進。
寛正3年(1461) 鎧ケ嶽城主「戸次親載」「一之鳥居」奉献。
天文19年(1550)大友義鎮(宗麟)、田地5段を寄進。
永禄9年(1566)「戸次鑑連」(道雪)、金幣を奉献。
永禄12年(1569)「戸次鑑連」鰐口奉献及び田地3段を寄進。
「上津神社」は、神社背後「上津山」山頂にあったが、氏子の参拝に不便なことから昭和42年麓の
「一之鳥居」前に遷宮した。
「戸次親載」の奉献した「一之鳥居」は「県指定文化財」である。

上津神社 戸次親載奉献「一之鳥居」(神殿の裏手にあり)
成大寺(じょうだいじ) 大分市上戸次利光
開基は詳らかではない。案内板によると、建久7年(1196)大友氏が豊後に下ってのち、嘉禎2年(1236)
戸次氏の祈願所となった。
只、大友系の戸次は1269年以降と考えられることから、姓祖の「戸次惟澄」がこの時代まで存命して
いたのだろうか。やや不自然な気もする。
正平2年(1347)には利光氏の「香厳院」となり、末寺六つの大寺院で有った。
天文22年には、大友宗麟より肥後の土地十町四反を寺領として寄進された。
しかし天正14年(1586)島津の乱入で焼き払われた。その後再建されたが現在は寺籍はなく。地元の利光
地区が管理している。
成大寺跡風景 左奥 利光宗魚の墓碑・天正14年12月7日戦死
法名:長空院殿前越州刺史水雲宗魚大居士
右 住職信庵阿奢梨正忠墓(1350)
利光宗魚の妻は「鑑連」の妹、宗魚の戦死隠し
島津の大軍相手に退けた
柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう) 大分市大字八幡
平安時代天長4年(827)「宇佐神宮」より「分霊」し創建される。
承和3年(836)国司により社殿造営。
古文記録では嘉応3年(1171)に名があるという。豊後一之宮、旧国幣小社。
御祭神、応神天皇、仲哀天皇、神巧皇后。
中世、源頼朝、源範頼はじめ「大友氏、竹中氏」らの崇敬も厚かったと言う子に恵まれない戸次氏十四代
「戸次常陸介親家」夫婦は健やかな男子出生をこの「柞原八幡宮」に祈願した。
願叶い永正10年3月17日(1513)豊後国大野荘藤北「戸次館」で男子誕生。後の「戸次鑑連」である。
祈願した「柞原八幡宮」に因み「八幡丸」と名づけた。

柞原八幡宮参拝口 柞原八幡宮拝殿
六所神社(ろくしょじんじゃ) 福岡県新宮町立花口
立花山の北麓「立花口」にある「産土神」である。
人々が、土地の開墾にあたり五穀豊穣を祈った所とされる。
「六所宮」「六所大権現」として地域に親しまれている。
古代より「天照大神」が鎮座していた。その後、様々な大神、産土神を合祀し「六所大権現」となった。
立花山城督「立花道雪」は出陣に際し必ず「武運」を祈願したという。

六所神社(新宮町立花口)
参考資料 新宮町教育委員会公開
九州戦国の武将たち 吉永正春 著
上津神社案内書
六所神社案内書
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