切支丹宗之事
「田原紹忍」は「宗麟」へ「切支丹宗」を勧めたか ?
切支丹大名「大友宗麟」が初めての「切支丹」との出会いは、天文20年8月ポルトガル船が豊後日出港へ
寄港したことが切っ掛けとなり、山口にいた「フランシスコ・ザビエル」を府内へ招致した時である。
ザビエルの豊後滞在は短いものであったが、彼らの整然とした府内入りを見て、彼の随行者、運んできた
船長、商人らがザビエルを神のように尊敬する姿に、「義鎮」は深く感銘し二人の心はおおいに通じ合った
という。
ザビエルが去った後も、多くの宣教師たちが府内に入り、中でも「パルテザル・カゴ」、「コシメ・デ・トレロス」、
「ルイイス・デ・アルメイダ」、「ルイス・フロイス」らは、義鎮の庇護のもと布教に努め、切支丹は急速に豊後
国内へ広まったとされる。こうした環境の中で、「義鎮」もまた切支丹へ強く傾注したのである。
義鎮の切支丹化は一般的には概ね以上ように理解されている。
ところが「大友豊筑乱記」や「大友記」の伝えるところは随分違うのである。それによると両記には、義鎮に
重用された「田原紹忍」の弁舌に勧められ入信した趣旨のことを伝えている。大友記「宗麟公キリシタンニ
成タマフ事」には「南蛮国ヨリ、キリシタント云宗旨ワタリテ、府内丹生島ニ一宇ヲ建立シ其宗旨ヲトク、・・・
・・・田原近江守(紹忍)彼宗ニツキ、日夜聴聞ス。宗麟公御聞アリ、近江守ヲメサレ吉利支丹宗ノ儀尋タマ
フ。近江守ハ九国一ノ弁舌人ニンナレバ、吉利支丹外道ノ仔細ヲ、サモ面白クコソカタリケリ。・・・」とある。
こんにちの歴史観では田原紹忍は義鑑の時代より大友氏を支えた「吉岡長増、戸次鑑連、吉弘鑑理、
臼杵鑑速」らが義鎮の下を離れると急速に権力を強め、義鎮正室の兄と云うこともあって、義鎮にへつらい
重用された。しかし、切支丹について反切支丹の代表として信徒を威嚇した。京より田原家に養子に迎え
た「親虎」の入信には強固に反対、意思の硬い親虎を廃嫡にしているので、真の史実は判らないが、大友
関係資料上の田原紹忍は評判よくない。大友記などは「紹忍はもとより臆病にして」と伝えている。
以下に大友豊筑乱記「切支丹宗沙汰之事」より。
「近年南蛮国より商売のため本朝(日本)に渡海の船、豊後国に着津(入港)して、大友宗麟公を尊敬奉
り(たてまつり)、七珍萬宝の進物を持ち奉り、其の上切支丹と云ふ宗門を勧め、切支丹の作法を言上した
りと云聞へし(うわさが流れた)。
宗麟公は、田原紹忍(紹恩)に重宝の数をつくし、音信饗応せり。(田原紹忍へ貴重な物を与え、重用し、
度々招いてはもてなした)。 田原はこれに帰依して(服従してへつらい)寄り寄り(度々)宗麟公のご機嫌
をはかり、邪法(切支丹)を勧め奉る。
宗麟公仰せけるは、佛神を諌々(かんかん)する宗門のよし聞き及びたり(神仏の信仰を改めよとする
切支丹宗のことは聞いているが)。日本は神国にて神功皇后の御宇に、新羅、百済、高句麗を攻め給い
し以来は、神力にあらざれば、弓矢の勝利得難しと宣ひ(のたまい)聞召入れられず(聞き入れなかった)。
紹忍はかの宗門に深く帰依して、宗麟公のご機嫌伺ひて宗旨の遺命共(教え)を寄寄申上げ、近辺の若
輩にも言葉を進めさてまた、世間づくの事に云ひなし(世の中のことにも話をからめ)、弓矢の沙汰に及ぶ
(弓矢の作法扱いの事にも話が及んだ)。」
「南蛮国には、仏神の起こり奉る国なりと云ふとも、七珍万宝国土に満ちて、国に余りぬらん(南蛮国は、
信仰心の厚い国であると共に、珍しい物が国に満ちあふれていた)。遥遥の海上を凌ぎ(しのぎ)この遠国
迄運送して売買しなければ、本朝の重宝なり(遠くの国まで品々を運んで売買してくれることは、我が国に
とっても大事なことである)。」
「 弓矢の業も佛神の加護にあらずとも鉄砲を討掛けなば(神仏の加護や、弓矢に頼らずとも、鉄砲を撃ち
かければ)、敵何十万騎来るとも、眼前に退治たやすかるべし。」
「昔の軍(いくさ)は弓矢をもって遠きてきをなびかしけれど(倒したが)、人別に弓矢の達者なく勝負にて
(射る敵の人別なく、また将兵の弓矢の上手、下手に関らない戦いであるが)、特に弓取りの器量(弓の
扱いに慣れている)による事なり。」
「石火矢鉄砲は達者に限らず、また神佛の加護あらずとも、誰が放ちかけても岩石鉄壁をも嫌がらず、当
る所は破れ崩るるなる事目前なり。」と弁舌にまかせ語り散らし、さては諸寺諸山の僧出家に向かいひて
は、理不尽の沙汰を云掛け、切支丹のひいきを強く引いて(強く肩入れして)問答をさせ、色々に取って
かへし、佛法神道は世上の騒災を求むるなりとぞ見へけれ(そのように吹聴した)。
このように、「宗麟(義鎮)」の切支丹信仰は「田原紹忍」の勧めによる事を伝える。
以下に、その後の顛末を簡潔に記す。
臼杵の海蔵寺は、大友政親の菩提寺で大友氏歴代の崇敬を集めていた。宗麟も度々の参拝を欠かさ
なかった。そのころ、この寺の住職は京都「大徳寺」の真叙和尚であった。
(海蔵寺には、17代大友政親の墓所であった)
そのうち、宗麟は邪宗門に心を引かれていくうち、やがてその参拝も途絶えていった。この宗麟の行動に
近習や外様の者たちは佛道をうっとみ、邪宗門へと心がかたむいていった。そうした中にも、常々佛道を
崇敬する人々は、誅伐を恐れ病気などととりなして、近習の奉公なりがたしと領地に引き込んだ。
遂には人々の「海蔵寺」への参通は途絶えていった。この状況に紹忍はますます佛道を嘲り(あざけり)
邪宗への肩入れを尽くした。
海蔵寺の住職「真叙」、このままでは佛法も世上も思いやられると、三衣一鉢の体に、共の僧二〜三人に
て寺を抜け日向目出して落ちて行った。この事を聞きつけた悪党あぶれ共、よほど落銭料を持っていると
追いかけ山中で襲い身ぐるみ剥いで殺害する。
田原紹忍、この仕業が悪党共の犯行と知りながらこの事には沙汰せず、かえって和尚の悪口を吹聴し
「是は佛道邪教への天罰である」と宗麟にも弁舌巧みに言上したいう。
果たして「田原紹忍」はキリシタンであったのであろうか・・・?

|