戸次名称由来


  
   「戸次氏」や「戸次庄」のことは既に 「戸次氏苗字の由来」「戸次氏と戸次庄」のページにて
   記述した。そこでは、戸次氏は代々戸次庄「
市村」に居住したと書いた。
   これは「大分歴史事典」や、大分県史料に収録された「大友松野系図」の「戸次重秀」に関する記述に
   よるものである。
   当ページは、その後の調査で得た情報をもとに「戸次の由来」と「戸次旧址」について判明したことを
   記述するものである。

   「
戸次」の由来については各種苗字事典や「戸」「次」の文字のもつ意味から「戸次」とは家の戸割り
   に由来すると推測した。この事は、意味としては間違ってはいないと思う。しかし何故「戸次」という
   名称が生まれたかは不明であった。そのことについて、その後の情報で判った事を記述する。
   戸次庄(へつぎのしょう)は、近くを大河「大野川」が流れているがその昔、この戸次地域の人々は川
   を渡る時「
戸板をつないで渡った」ことに由来すると言うのである。
   おそらく杭を打って支えを造ったか、舟を並べて「戸板」を「次いだ」のであろうか。
   「戸板(戸)」を「次ぐ(次)」「次ぐ」は次々連続すると意味であることから、理にはかなっている。
   そのように理解すると「戸次」の由来はほぼこれに間違いなかろうと思う。「戸板を次ぐ」が「戸次」
   と変化した。もとは「
とつぎ」呼び「へつぎ」「べっき」などと呼ばれるようになったのであろう。
   確かに今でも戸次の苗字は此の
三つの呼び方がある。
   中世、此処を流れる大野川は、この辺りで「戸次川」と呼ばれていた。
   (注「戸次川の戦い)また、大分市中戸次より下戸次地区を南北に、大野川支川「佐柳川」が流下し、
   そして尾津留高山(小津留)にて本川へ合流するが、この川を「戸次古川」と呼ぶ。
   昔、戸板を次いだ場所はわからないが「戸次」の地名は「
戸次川」の名前に由来するのかもしれない。

   さて、代々の戸次氏の居住した場所は「
市村」とされてきた。「市」は「戸次庄」37村の一つで、
   現在の大分市中戸次あたりに在った、こん日地図上には見出せないが市と呼ぶ場所が在るようである。
   大正15年12月発行「佐藤蔵太郎氏」の「鶴賀城戦史」という歴史書の中に、 同氏の調査による
   「戸次氏の累葉居館の舊址(きゅうし)」は、いま尚「下戸次村字尾津留(小津留とも書く)
高山」に
   あり、その地に小祠を建て「高山権現」と称す。近くに池あって「道三池」と呼ぶ(このことは、
   
戸次鑑連獅子頭之事にて別記する)とある。
   こん日高山の地名は地図上には見当たらないが、大分市下戸次尾津留の中に「
高山」とよぶ地域があっ
   て、もとは枝村であったようだ。
   今は一戸のみであるが、かっては7〜8戸在ったが、川に近く度々の大洪水に襲われることから、山沿
   いに移転したという。いまはその石垣が残る。「道雪の獅子頭」の見つかった「道三池」は埋め立てら
   れて跡地のみであるが、場所は確認できる。
   「高山権現」というのは今は無い。近くに「熊野神社」がる。此の神社は、外から移転してきたもので、
   元は「権現さま」といったというから、前神は「高山権現」の可能性が高い。 
   又此の尾津留地区には「戸次姓」のお宅が7〜8戸ほどあって、戸次地区でこれ程多く戸次姓の集まっ
   て居るところは他に無いとのことである。
   此のうちの或るお宅は「小庄屋」を勤めたと伝えられている。古より「戸次一族」居住の場所であった
   可能性は極めて高い。地元の人は近くを流れる川を「古川」と呼ぶ。
   架かっている橋の親柱には「戸次古川」と彫られていた。
    累代戸次一族の「当主」が此の地「
高山」に住んだかどうかはそれでも不明であるが
   「
戸次鑑連(立花道雪)」の縁者が居て「鑑連獅子頭伝説」が誕生したのであろうか。

                      
                          現在の大分市下戸次尾津留「高山」地区。右は熊野神社
                        手前は「戸次古川」。「道三池」は左へ川沿い150m付近にあった


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