小金原の戦い
加筆再更新

 
       立花道雪激怒 
                   「
宗像氏貞苦悩 無惨、一所懸命を地で行った若宮郷士(元、西郷党)の遺恨戦 

      「小金原」とは福岡県宮若市若宮、現在山陽新幹線稲光トンネルの抜ける南東一帯乙野、小伏、高野、
    稲光の地域に緩やかに広がる丘陵のことである。今はその多くが「ゴルフコース(コース内に、この戦
    で討死した、若宮郷志士
古野甚九郎の墓がある)に開発されている。
    中世このあたりは高野村、小伏村等々の村に分かれ、若宮河内、吉川河内の間に位置する。
    ここに「小金原」という枝村があって小伏村に属していた。後年、この小金原の「鎗場」と呼ばれる
    所において、天正9年11月13日(1581)「立花道雪」「宗像氏貞」の両家の家士による終日に亘る大き
    な戦いが繰り広げられ、宗像勢に壊滅的な多くの戦死を出す。中世戦国期筑前国、この地方最大の合戦
    である。(年次は、筑前国続風土記には天正10年とあるが、研究者の採用する9年とした)

    福津市JR福間駅から西郷川挟みこの一帯、中世には「
西郷庄(さいごうのしょう)」と云い「津丸村」
    「久末村」「手光村」西郷川下流一帯を「下西郷村」上流部を「上西郷村」の五村 300町程あった。
    現在の地図上に下西郷の地名は消えたが「上西郷」などの地名は今も残る。
    
この西郷庄は、観応2年(正平6年 1351)頃には「足利尊氏」より大友氏7代「大友氏泰」に与えられ
    地頭職を命じられていた。従って後述する「西郷党」と呼ばれる一団がこの地へ定住するのはそれ以降
    のことであろう。

    戦国時代、この西郷庄には「
河津民部隆家」を頭領に、深川修理、温科将監、井原左衛門入道、難波将
    監、桑原雅楽助、川野弾正、石津といった三十六人の「西郷党」と呼ばれる郷士集団がいた。彼らは、
    宗像氏、立花氏のどちらにも属さず、「隆家」の父「隆業」の頃は、宗像、立花両家から攻められ是を
    退けた。頭領の「河津家」は伊豆国「伊藤祐清」の七代孫「河津重貞」が糟屋郡尾中庄に入り、さらに
    西郷庄に移り以後代々、中国「大内氏」の支配を受け領土を安堵されてきた。しかし大内氏が天文20年
    (1551)「陶晴賢」に滅ぼされると、永禄10年10月「宗像氏貞」の旗下となる。

                 
     
              西郷庄・西郷党頭領「川津隆家」の亀山城址の風景(福津市福間)

       「亀山城の河津党は、戦国末期には宗像氏貞に従っていたが、元は中国大内氏の御家人として
        西郷の地を支配していた。最近の調査により、亀山城跡の南を近接して流れる西郷川を挟ん
        で対岸の上西郷ニホンスギ遺跡において、戦国期中国大内氏の支配が及んでいた事を証明す
        る城下(町屋)の建物群遺構や中国明時代の陶器片、渡来銭などが多数出土した。」
                    
遺構の発見伝える西日本新聞


    常々彼等西郷党を、宗像の旗本としたかった宗像氏貞は大いに悦び、河津を頭領に西「立花山城」の
    押さえとして、三十六人衆を其の儘に西郷庄へ差し置いていた。
    これに対し立花山「立花鑑載・怒留湯融泉」は、西郷党を取随えんと「薦野河内守」「米多比大学」を
    先手として千五百余人、新宮下府村「下府松原」に陣取り、西郷庄福間辺りにまで押し出すこと度々。
    ある年「宗像氏貞」も赤間山(蔦ガ岳城)を出、許斐左馬大夫、占部越後、大和治部等を先手として、
    二千余人これまた福間河原へ押し出し、川を防線に陣を敷いた。双方弓鉄砲で攻め合い4〜5日過ぎる
    ころ、筑前において常に大友に対峙してきた、秋月の後詰に中国勢来襲するとの聞こえに、鑑載、融泉
    は、立花表心なしと「薦野河内、同彌十郎」を殿として夜中に陣を退いた。ここは宗像勢も追討を懸け
    なかったので、立花軍は立花、薦野の城にへと難なく退くことができた。
    永禄11年立花山城主「立花鑑載」大友に謀反。これに「大友宗麟」は「
戸次鑑連」を総大将に立花山城
    を落とし「鑑載」は自害する。元亀2年「戸次鑑連」が城督として立花山城へ入った。
    「鑑連」は、糟屋郡表、裏等切り随え合わせ3000町(およそ5万石)を領する勢力となった。
    その頃「宗像氏貞」は、頼みの中国勢の支援が望めない事態にあって、立花山とは多勢に無勢、ついに
    「立花山城・戸次鑑連」との和睦を選んだ。
    その和睦の取り決めとして、立花方が切り取っていた宗像領若宮郷を「氏貞」へ返す。引き換えに宗像
    領西郷庄(300町)を立花方へ切譲する。さらに氏貞の妹「
色姫」を鑑連に嫁がせる。西郷庄は名目上
    色姫のその化粧田(けはひでん)として「
戸次鑑連道雪)と改名」に贈ったものとなった。
    この和睦に、この地を懸命に守ってきた河津、深川といった西郷党には納得いかなかったが、憤りを
    抑えたまま若宮郷へと追い立てられた。
    若宮郷へ移った西郷衆は、若宮河内長井鶴(犬鳴川と、その支川倉木川に囲まれる合流部一帯)という
    所に形ばかりの家宅をこしらえ住むことになった。
    こうして西郷庄は立花山領となり、立花家重臣「小野、十時、堀、安東、内田」等に与えられた。
    西郷党にとって領地を失った上に、遺恨を増幅することとなったのは、和睦に際し「
道雪」が西郷党の
    頭領「
河津(川津)民部隆家」のを要求したことであった。
    「河津民部隆家」は
亀山城(福間駅裏の小山)を本城とし西郷党を率いてきた。かって、氏貞が大島へ
    逃亡、のちに「許斐城」を奪回した時、氏貞は隆家の助けを受け夜陰に紛れ亀山城に入り、許斐城奪回
    した経緯もある。氏貞にとって、隆家を殺すことは断腸の思いであったが、元亀元年1月15日(1570)、
    「
隆家」を蔦が嶽麓の「妙湛寺」に招き、伏せておいた家臣によって謀殺した
    隆家の首級は立花山城「
戸次道雪」へ送られ首実検された。
               
                       
河津隆家謀殺
                  川津隆家の謀殺された妙湛寺(宗像市陵厳寺三丁目)

     下って10年後の天正期、相次ぐ敗戦に豊後大友氏の力は急速に衰退。筑前国にあっては、立花山城
    「道雪」。岩屋城「紹運」によって大友の牙城は堅持されていた。
    そのような情勢にあって、鷹取城「森鎮実」は大友氏への忠節を守っていたが、鷹取の領地も、秋月、
    杉等に所領を徐々に切り取られていた。そして天正9年の秋は、直方川流域(現、遠賀川)は飢饉で
    米が不作、鷹取城は兵糧に窮し餓死もでる有様であった。
 見捨ててはおけぬと、救援を決めた。
    救援米を送るにあたり、道雪には気がかりなことがあった。それは西郷党が移り住む若宮郷を通過する
    必要があったからである。遺恨を持つ西郷衆の襲撃を懸念した道雪は、あらかじめ仔細を氏貞へ伝え、
    若宮郷通過の了承をとった。氏貞もまたその旨若宮郷士に対し、立花勢通過に際し粗忽の振る舞いなき
    よう伝達した。それでも道雪は猶も用心のため、小野和泉、由布雪荷、薦野三河をはじめ、八百余人に
    て米三百俵余りに弾薬。人馬に負い持たせ、天正9年11月12日鷹取へ向け送った。
    一方、若宮郷に移った西郷党西郷衆は、今は若宮郷士となっても領地を追われ悶々として日々を過ごし
    ていたが、立花城への遺恨は募るばかり、機有らば立花家人と刺し違え、悪霊となって無念を晴らした
    いと覚悟していた。
  
    立花山発った輸送隊は、青柳より米多比、薦野両城下経て本木から難所の「見坂峠」越え、山口川沿い
    に犬鳴川に達した。(この付近当時は若宮川といった。おそらく帰路の事件からしてこの辺りで渡河し、
    現犬鳴川の南(右岸)を東へ進んだと見られる)。
    ところが、鷹取まで二里あまりの龍徳に到った時、龍コ城「杉十郎連並」の手勢三百余りが行手を遮っ
    たが薦野三河守、米多比比五郎次郎の三百が突きかかり、杉勢を蹴散らし難なく兵糧を鷹取城へと送り
    届けた。 翌13日早朝、輸送隊は鷹取城を発ち立花山への帰路についた。
  
               

                 立花道雪が救援米送った鷹取城址に残る礎石の列。標高 630m


    そのころ若宮郷では「若宮八幡社」に、今は若宮郷士となった旧西郷党「河津修理進盛長」はじめ、
    深川右京進貞国、河野伊豆守、井原次郎左衛門、原九朗貞永、鮎川六郎、古野甚九郎そのほか彼是相加
    わり、都合五十一人が一味して評議していた。
    一味の申しけるには「いかに氏貞公よりの仰せとはいえ、立花勢を安穏に通したる事無念。我ら共は数
    代に亘り西郷の住人たるに、西郷庄を立花領に故なく付けられ、住所追い立てられ、その鬱憤やるかた
    なし、せめてこの者共討ち取りて数年の遺恨を散ぜむ」と企てを行った。
    寄り集まって評議の結果、若宮川をせき溜めて、これを渡らんとする所を弓鉄砲にて撃ちかけ、乱れる
    ところを討ちとって如何と云う者あって、此の儀まこと然るべしと河津修理進盛長を奉行して、若宮川
    井杭を打た川を堰上げた。


                
                若宮郷士が川を堰上げ、戦いが始まった友池付近、現在は河道が固定され
                   河床も低下していると見られる。当時は堤防もなく川は自由に氾濫していたので
                   も少し川幅広く、河床も高かったであろう。


    鷹取を発った輸送隊は13日午の刻、若宮郷友池川に迄到った。(友池は、長井鶴の対岸に位置する。
    友池川は此処を流れる支川とみられる)小野和泉、由布雪荷、真っ先に川を越えたが、若宮川は昨日
    まで浅瀬で有ったのが、雨も降らぬのに増水していることを怪しみ、敵の手立てによろものと、四方に
    目を配り押し進んでいくと、川津が折しも支卒に下知していた。是を見て「由布七右衛門」先ず軍神の
    血祭りにせよと鉄砲でにて打ち倒す。是に友池、金丸の者たちは、我劣らじと立花勢に馳せ向かう。
    立花勢馬を下り立ち、槍を揃えて突き崩し原田(友池の南)へと引き取ろうとした。
    友池、金丸勢は猶も後を付ければ、立花勢は人数を繰り返し繰り返し車引きに引きて行く処を、宗像の
    旗下家人共、此処かしこより蜂の如くに湧き、蟻のように群れて懸かったので、さしもの立花勢も敗色
    となり、重臣「足立飛騨」ら数人戦死。由布美作はじめ手負いも多くなっていた。 この戦況に、二番
    手、薦野三河、同彌助、米多比五郎次郎の三百余人、行く手を左にとって鯨波(ときのこえ)作って懸
    かった。これで河津、深川陣が混乱、散りじりになって退いた。立花勢はこれを追い多くを討ち取る。
    薦野三河は、敵将深川九郎を討ち、米多比五郎次郎は十七歳の青年武将であったが原孫九郎を討ち取り
    高名をなした。
    立花勢は友池より金生(かなふ)の北辺りで若宮川(犬鳴川)を渡り高野へと退いた。これに若宮の諸
    所から討っ手が馳せ懸けたが、立花勢はこれを追い払い、討ち取って稲光の城山へ取り上がり兵粮とり
    人馬を休めた。
    若宮勢も小伏せの北まで追いかけ此処で人馬を休める。若宮勢にはこの事態を聞きつけ、近辺城主も
    「氏貞」の許しなく駆けつけた。秋月の家臣江利内蔵助は、笠置城(笠木城)を預かっていたが、乗手
    石見、柏井九郎右衛門等三百余人率いて「小金原」へ押し出した。
    この若宮郷での戦のことは「蔦ガ岳・宗像氏貞」へ注進される。氏貞は驚き直ちに「吉田次郎左衛門
    貞辰」「石松加賀守秀兼」に対し、急ぎ馳せ向かい制せよと命じた。
    二人馬速めて馳せだすところへ、縁者の吉田少輔六郎貞永、石松新三郎、同十郎、吉田飛騨、らも追取
    刀で駆け出す。友池に到った吉田、石松は、立花勢は高野指して引いたと聞き、原田、金生経て下村よ
    り川を渡り、若宮勢が集まる小伏村の原野に馳せ着き、郷士達に向かって言った。
    「是はいかなることを仕出かしたか、氏貞公以ってのほかの御気色(おどろく)にて、我等両人に急ぎ
    引き取らせよとの御事なれば、早々引き取り候へ」と散々に叱りつけた。
    若宮郷士「何れも申し様、仰せ尤もに候え共、かように成て唯今逃げて帰るべき様も候はず、たとえ氏
    貞公の御勘気蒙るとても、我々生きて帰ろことこそ迷惑と存ずる。
    唯今をかぎりの命にて候えば、とかくの沙汰に及ばざるに候。お前様たちは、早々帰りてこの由申し上
    げ給え」と聞く耳もたなかった。
    貞辰、秀兼は「さては、そこまで思い定めらる々上は、是非を論ずるに及ばず。見捨て帰るべきにあら
    ず。さらば合力致し同じく戦死申さん」と一味に加わった。
    かくして、友池、金丸、長井鶴其の外若宮のあらゆる郷士三百余人、赤間より馳せ来たる石松十郎はじ
    め彼是数百、秋月勢と一つになり都合八百余人、小伏の前に備え、稲光山上の立花勢に攻めあがろうと
    した。
    方や、立花勢は今朝からの戦いに人馬とも労れ、敵多勢とみてやや攻めあぐねていた。そこへ薦野三河
    「おのおのは、始めの戦いで手を砕いている、今度は某に任せ給え」と、彌助成家、米多比五郎次郎を
    左右に備えて三百余人、宗像勢に馳向かい入り乱れの戦いになった。
    この日、時はすでに早申の刻(午後三時より四時)冬場のこと、陽は西へ傾き西陽を強く受けていた。
    宗像の将石松が言った「この夕陽に向かい山上の敵に懸かることは軍法に反する、ここは一旦西に廻っ
    て備えを立て直し、北に向かって攻め懸かれ」と下知した。しかし早立花勢は既に城山の高みより攻め
    下る。友池勢もこれ見て相いかかりに押し出すが、立花勢の三百余人漲(みなぎ)り落ちる瀑の如く押
    し下った。
    請太刀の友池勢は、こらえられず忽ち小伏の谷は追い落とされる。然れどもまた谷より盛り返し切りあ
    がるに、夕陽に眼を奪われ太刀の打ち所定まらず、顔も上げられなかった。立花勢は夕陽を背負って勢
    いよく攻め下ったが、宗像勢は多勢若宮勢も必死に戦ったので互いに入り乱れ、勝負の行方は見えなか
    った。この時立花勢の中より「内田壱岐入道玄怒」馬乗廻し、采配振って「先手が猶予し戦い負ければ
    味方危うし、今一揉みぞ」と下知した。
    小野和泉、立花中務、
戸次(立花)越中守、戸次右衛門大夫ら三百余人、宗像勢の真只中に喚いて駆け
    入り、火の出るほど戦ったので、宗像勢は終に敗色濃くなり、吉田左近は深手負い、戦い半ばにて手勢
    引き連れ東へと退く。吉田貞辰、石松秀兼は討たれた。吉田少輔六郎は小伏にて立花勢を追い返し、勇
    んでいるところへ、兄貞辰が討たれたと聞き、兄が討たれて逃れるわけにはいかぬと引き返し、敵中へ
    切り入り、押し包まれて戦死。石松十郎も、父秀兼の討ち死を聞き切り返し討たれる。日も暮れ宗像勢
    は大敗。
    若宮郷士の私戦に始まったこの戦いは、郷士たち百五六拾人残らず討たれ、応援の秋月勢も多くの損害
    し退いた。
    また立花勢にも足立式部ら名のある武将三十人ばかりが戦死した。立花勢はその夜は清水観音で討ち取
    った首を検分、兵糧取り人馬休め翌朝西山の難所を越え、薦野領の清滝へと下って引き上げた。
    「氏貞」に対し、米輸送隊の宗像領内若宮郷通過の了承を取り付けていた「道雪」、宗像勢のこの行い
    に、武将の道義に劣る行為と激怒、怒りは収まらなかった。側室となった「側室・色姫」に対し氏貞を
    悪口雑言ののしり、板ばさみの色姫を悩ませた。
    「宗像氏貞」も郷士の勝手な振る舞いを詫びたが、道雪は許さず兵を押出し、宗像の支城攻めた。
    これに氏貞やむなく応戦。宗像・立花の和睦は10年あまりで壊れ、以後両家の家士間の争いが続く。
    間にあった「
色姫」は山田地蔵尊の命日、自ら命絶った。

         
筑前国続風土記は、この戦いの勝敗は、立花勢の軍法にかなった戦い方に対し、
        宗像勢の軍法武略の拙さ(つたなさ)に有ったとしている。即ち、朝は、立花勢
        東より西に向かい、宗像勢は西に備えた為に朝日を眼に受け自由な働きがとれず。
        夕方は、立花勢犬鳴山背に負い、西に陣し東向きに備えたので、宗像勢は夕陽に
        向って備えることになった。
        立花勢が自ずから天の時、地の利にしたがい、宗像勢は、天の時に逆らい、地の
        利を失う。これは軍立ての拙き所なりと、皆評したとある。また、風土記は若宮
        郷士が君命に逆らい、私恨をもってこの合戦に及んだことを厳しく糾弾している。
        西郷衆が住みなれた土地を離れ、若宮郷に移ったのは、和睦し、婚姻結び互いの
        和議により土地を替えたもので、我が意にそぐわないとして立花家をうらむのは
        筋違いである。且つ、立花より人数を通すべき断りに氏貞了承し、立花の兵その
        地往来の時は、恙(つつが)なく通すべしと下知されていた。
        その命を聞きながら、君命に背きし事は莫大なる罪科である。主人と立花家との
        和睦妨げしこと大不忠也。罪なき敵味方多く殺せし事不仁のいたりなり。これは、
        いたずら(徒)に私心を以って公儀を廃すというべし。ましてや軍法軍略もなく、
        妄(みだり)に怒りふくみ、かるはずみに兵を起こし、節所に陣する多勢の敵に
        向かいて、小勢追々に切りかかり、なすことなく処処にて討たれ、終に味方の多
        勢を亡ぼされ身を失いしこと。不義を以って兵を起こし、謀(はかりごと)拙
        (つたな)きを以って敗れる。誠に愚痴の至り、是非を論ずるに足らざると言う
        べし。と書く。




                                 
参考資料  筑前国続風土記

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