許斐山城の戦い

         「八並村吉原口の戦い」:天正11年3月15〜16日

   「許斐山城跡」標高271m、宗像市の東の端にある古城跡の山。国道3号線、福岡方向へ向かい王丸交差点の南
  (左)に見える山である。中世この許斐山の場所は南を宗像郡王丸村、北を同郡八並村の枝村で吉原といった。
  山上には「許斐権現」があって、毎年9月19日には祭礼があり、田島の神輿(宗像大社)も行幸したという。
  現在此の山上には小さな石製の祠が祀ってある。この山上には人の見ざる池があり、大岩にて登る事ならず。山の
  九分に在りと伝えている。田島の社(宗像大社)にて神事のある時は、許斐の社、鐘崎の社より社人が集まって、神
  楽を努めていた。許斐鐘崎の社人は古来より宗像の社の神楽の役人であった。
  戦国期許斐山城は、宗像郡を本貫地とした宗像大宮司家の支城で、宗像氏の支族「許斐氏」が居城とした。宗像大
  宮司家は代々、中国「大内氏・陶氏・毛利氏」に従い筑前国の北東部支配、豊後大友氏とは長く敵対していた。
  「宗像氏」は、敵対する大友氏の「西の大友立花山城」に備え、居城の「白山城(後に、居城は80代宗像氏貞により
  赤間山蔦岳城へと移される)」中心に「亀山城」「飯盛山城」「許斐山城」等々の支城を置いた。中でも「許斐山城」は
  要であった。
  許斐山城がいつ頃築城されたかは不明。一説には「宇多天皇」の皇子「清氏親王」が宗像大宮司家初代を任じられ
  た時、次男「氏章」が許斐山を居と定め「許斐姓」用いたとする説もあるが、清氏の実在を疑問視する見方もある。。
  また筑前国続風土記「許斐山古城」の記述や現地説明板によればでは、大冶5年(1130)宗像大宮司家15代「氏平」
  が始めて開き、十六代氏宗補修正式に宗像家の出城とし、その子氏元が許斐家の祖としている。。その後城は一端
  放置されるが、天文24年宗像一族の占部是安が再築城した。占部氏は豊安、尚安、尚持と宗像大宮司家を支えた。
  永禄2年9月25日許斐城は立花山白岳の怒留湯鎮氏の大軍の攻められ手薄な宗像勢は氏貞共々大島へ逃亡した。
  しかし、翌永禄3年(1560)3月28日、占部尚持は西郷党頭領「河津民部隆家(河津隆家は、西郷党36人衆頭の領で
  氏貞の旗本であったが、のちに氏貞と道雪と和睦の際「立花道雪」は「民部隆家」の首を要求。止む無く氏貞は隆家
  を蔦ヶ岳麓の「明湛寺」におびき出し謀殺した。この事が後の小金原の戦いの発端の一端となった。そして、此処に
  記す「許斐山城の戦い」へと繋がっていく。)」の助けを得て大友勢の占拠する許斐山城を急襲して奪回、大島に逃げ
  ていた宗像氏貞は復帰する。
  (大島は、古代より宗像三神のお一人「端津姫」を御祀りする中津宮のある島。神湊の沖に浮かぶ。この島は(安倍
  宗任と云う者が配流されて後、安倍氏一族の支配する所であったが、安倍伊豆守の時、宗像大宮司家と争い亡ぶ。
  その子安倍和泉守は立花氏の臣、薦野三河守に仕える。宗像氏貞の時代、大島には許斐安芸守氏鏡、占部八郎
  貞保、吉田兵部少輔貞勝の三将を置き警護していた。)
  同永禄3年8月17日には氏貞の奪回した許斐山城をへ、戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理、怒留湯鎮氏の大友勢凡
  そ5千が攻め入るり、宗像氏貞の赤間山、白山、許斐山と攻め込むも、この時は占部尚持ら宗像勢がよく防ぎ、さし
  もの鑑連以下徒労に終り陣を引く。しかしこの合戦で「占部尚持」は討死した。
  永禄4年5月朔日(1日)には豊後大友義統の家臣、都甲十郎、矢野隼人、毛利鎮実らの軍勢が許斐山城を攻めた
  が、この時も許斐氏則、占部右馬助、石松摂津守らが良く防いだので、寄せては退散したと筑前国続風土記は伝
  える。
  永禄12年(1596)、豊前国、筑前北部に強い影響を持ち続けてきた「毛利」が中国へ撤退すると、毛利を後盾として
  いた「宗像氏貞」は多勢に無勢、氏貞は「立花山城戸次道雪」と和睦する。 しかし此の「立花山、宗像」の和睦も
  「小金原の戦い」を機に「戸次道雪」が憤慨崩壊する。

   此処に記す「許斐山の戦い」の発端は定かではない。筑前国続風土記には「戸次道雪、高橋紹運」が「宗像を亡
  ぼすべしとしてと」ある。ただ大方の見方で言えることは戸次道雪が「小金原の戦い」へ至った宗像氏貞への不信
  にあった事は間違いなかろう。
  筑前国続風土記によれば、天正11年3月立花道雪高橋紹運は相議して、宗像を亡ぶさすべし。それには先ず許
  斐山城を攻め取らんと3月15日両将は出陣したとある。軍勢は道雪一千五百余人、紹運一千余人にて宗像表へ
  攻め入った。是に宗像氏貞も二千余人にて出迎い、許斐山の西吉原口にての一戦となったが、宗像勢は打ち負け
  赤間山(蔦岳)城、白山城(宗像氏代々の居城)と方々の城へと引いていった。その後、道雪紹運は許斐城を囲み
  数日に亘り攻め立てた。許斐山城には宗像民部が城を守っていたが、氏貞よりの後詰めも無く、防戦の術盡きて、
  夜に紛れ城を落ちて津屋崎浦より小船で大島へと逃げた。許斐山城には立花山より人数を籠置き、道雪紹運の
  両将は引き上げた。
  この戦いで宗像の地士「吉原源内」という勇士を討ち取った「薦野勘解由」が高名をなし、道雪、統虎(戸次)の感
  状がある、日付は3月18日とあるのみで年号はないが、統虎が「戸次統虎」となるのは天正9年8月の事であるの
  でこの感状は天正11年のものであろう。吉原口にこの戦いで戦死した「吉原源内左衛門貞安」の墓があるが年号
  は永禄3年8月17日とあり年次は全く一致しない。、許斐山城をめぐっては「立花・宗像」の小競り合いは度々あった
  と見られるので、地元の口伝家伝は永禄3年の戦いと混同されているのであろうか。是も止む終えないことか。
  墓は平成10年改修され帆石のみ古いが、形が戦国期の特徴と異なる事や風化の程度から、墓は藩政期にに立て
  られたのではないだろうか。

   この時の戦いで、大友軍の許斐山本城の攻撃はなかったと見られる、許斐山城に籠もる手勢は少なく吉原口
   (邑城)を守る地元郷士らが崩れ、氏貞の宗像勢も討負け引いた事より城を開城したとみられる。

                   
                           許斐山王丸口登山口
    
        
      立花勢と許斐勢が戦った許斐山吉原口現況            許斐山頂上の祠
      登山道行った左手の高台に吉原源内の墓が
      ある。背後は許斐山

                      
                       天正11年3月16日戦死?吉原源内の墓
                       石碑は永禄3年とあり、統虎、道雪の与え
                       た感状とは年次が異なる。
                        墓は現在風へ改修された・・・・残念。

                                              参考   筑前国続風土記
                                                    筑前戦国史
                                                    現地案内板

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