九州古戦場巡る

            
九州の著名な古戦場を巡る

             (他のページで紹介した「石垣原」古戦場は除いた

    (1)多田羅浜古戦場 (福岡市東区多の津)南北朝争乱

       多田羅浜(多々良浜)とは中世戦国期、今の福岡市東区箱崎と名島地区とに挟まれた多々良川(中世
       には、糟屋川とも呼んだ)河口一帯にあった浜(海辺)を指す
      中世この多々良川の河口は今の河口より三十町(凡そ3km)程東(上流、現在の
多の津流通センター
      にあって、宇美川、須恵川などの河口と共に近接して河口が開いていた。
      多多良川沿いに五十町程の干潟が続き、東は広々と平野が広がり、海側は博多方向へ松原が延びていた。
      このように、多々良川、宇美川の堆砂域群が広がり、多田羅浜という広大な砂洲が発達していた。
      多田羅浜は筑前博多東の要所で、警備の要の場所でもあった。延元元年(1336)この浜で南北朝が衝突
      する一大合戦があった。
      鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の建武の中興に貢献した「
足利尊氏」であったが、やがて建武の中興に不
      満をもつ様になり反旗した。「足利尊氏」は、1335年箱根竹下の戦いで、大友貞載、塩屋判官らの働き
      で勝利。鎌倉から京都へ入りを果たす。
      しかし「尊氏」は「新田義貞」「楠木正成」らの反撃受け京都を脱出、九州武士団「少弐、大友、島津」
      らを頼り、九州へ下る。
      九州に入った「足利尊氏、直義」兄弟は、少弐頼尚、宗像氏範らの反南朝武士団に迎えられる。
      この時「高橋光種」は先導役努め、その働きにより筑紫検断職の一人に任命される。一方九州南朝方の
      急先鋒「
菊池武敏」「阿蘇惟直」らは足利兄弟を迎え討つ為、九州各地の武士団へ兵を催促、日和見
      志向の強い九州勢の多くが戦力有利な南朝へ靡く。両者は多田羅浜で対峙。
      延元年3月2日(1336)「多田羅浜合戦」を迎える。迎え撃つ南朝方凡そ六万騎、方や足利軍三百騎
      (2000騎とも)に、少弐らを併せて凡そ二千騎。兵力では圧倒的に不利な足利軍であったが、当日は
      春の嵐吹き砂塵の荒れる中、松浦海賊党水軍が足利方へ寝返る。更に尊氏の積極戦法に元来日和見的な、
      旦南朝に呼応した九州武士団に多くの裏切りも出て、足利尊氏は大勝。
      となった「阿蘇惟直、惟成」兄弟は傷つきながら逃亡したが足利軍の追討は厳しく、肥前国まで追われ、
      名峰「天山」付近で自刃する。ホームページの管理人は、昭和62年冬、寒風のなか天山に登り、草原の
      頂上に建つ立派な「阿蘇惟直」の墓とされる石塔を確認した。 
      西日本新聞「阿蘇神社第九十一代宮司 阿蘇惟之(あそこれゆき)氏」への「聞き書き」によると、
      この合戦で「惟直」佩刀の太刀「1297年来国俊作三尺三寸「
蛍丸」が代々「阿蘇家の家宝」として伝っ
      ていたが、太平洋戦争終戦後の供出で所在が不明となっているという。
      (足利軍の兵力については、梅松論八百、太平記三百と著しく劣る。これについて天本孝志氏は著書の
      中で、尊氏が兵庫港発つとき、多くの兵を置き去りにし、尚且つ、馬、武具を失ったことから過小評価
      されたと評している。尊氏軍も一般に言われている程の兵力差では無かったようだ)
      多田羅浜に勝った「尊氏」は一色範氏、仁木義長、畠山らの足利一門を使い九州の反北朝勢力を駆逐する。
      これにより、九州の南朝勢力は一旦沈静化する。
      九州を制圧した「足利尊氏、直義」は、一ヶ月後再び東上するのである。
      これで、九州の南北朝の争乱が治まった訳でない。此の後「足利直冬」「懐良親王」らの登場により、
      九州武士団の南北朝の混乱は続く。

       (
兜 塚 福岡市東区多の津一丁目)
           此の戦いでは、数千人の戦死者が出たと言う。この「兜塚」は、これら戦死者
           を弔うための塚であった。現代は、大きく開発されてしまったが、此の場
           古来より「
花園の森」と呼ばれた兜塚の故地であったという
           毎年「れんげ」の花の咲くころには、地元民集まりて、供養のお祭りがていた
           とされる。

              
 
                     兜塚
福岡市多の津流通センター西口
                       お菓子屋さんに隣接する駐車場の中

      多々羅濱の碑
(同上の地、多の津一丁目)
            かって此の場所が「多田羅浜」であったことを示す近代的モニユメント

              
 
                   多々良濱の碑、多の津バス停の近く、交差点の中にある
                    この地点、名島河口より凡そ3km、当時はこの辺りまで
                    海が入りこんでいた


         南北朝の争乱から下ること二百有余年、この多々良川一帯で再び合戦が行われる。
         立花山の争奪めっぐて、豊後大友氏「戸次鑑連」率いる二万、方や立花山占拠
         した中国毛利軍四万が激突する。  
多々良川の戦い」参照



    (2)大保原古戦場(
筑後川の戦)日本三大合戦の一つ・福岡県小郡市大保)

   
        (註)三大合戦とは、「関ヶ原の戦い、川中島の戦い、筑後川の戦い」 

      南北朝期・南朝正平14年・延文4年(1359)筑後川(千歳川)支川豊満川流域。小郡原、大原、山隈原
      一帯にて、南朝征西大将軍「
懐良親王奉じる宮方肥後「菊池武光」軍は、新田一族も加わり四万騎、
      武家方「少弐頼尚、忠資、頼安」の一族に「島津貞久」「草野一族」ら六万騎の間で行われた一大合戦。
      九州「
南北朝」期最大の合戦、「筑後川の戦い」として知られる。  
      「少弐」は「味坂」に陣を。「宮方」は「高良山」「柳坂」「水無山(みなう)」に陣を置き、筑後川
      (当時 千歳川といった)を押し渡った。
      合戦は「懐良親王(かねながしんのう)」の馬が倒され「親王」自身も三ケ所の深手負う激しい戦いとな
      った。しかし、宮方軍勢の勢いと夜襲など、大将「菊池武光」の積極戦が勝り、宮方の大勝利となった。
      「武光」はこの合戦に備え、三人張りの強弓も通さぬ鉄板重ね、特別誂えの「鎧」を身にまとい、自馬は
      射倒されても次々馬を取り変え、十七度も懸ったと言う。 最後には、兜も落とされ「小鬢」に二箇所の
      太刀傷負うも、敵将を組討に「首」を挙げ兜を奪い、尚も戦い突き進んだ。
      「太平記巻之三十三」の書くところでは「懐良親王方」で討たれた者1800余人「少弐方」少弐一族23人、
      その朗従400余人、其の外3226人計3649人が戦死。双方併せ討ち死者5449人の多くに上った。負傷者も
      21000人ともいう。
      「宮方」の戦死は「武家方」に比べれば少なかったが、それでも1800人もの戦死に、次の戦いを怯んだと
      いう(菊池軍の損害6900名ともいわれる)。いずれにせよ「少弐」の損害は甚大であった。
      九州における武家の名門「少弐」は衰退へ向かうことになった(しかし少弐氏はその後もしぶとく生き残
      り、最期となるのは更に200年後のことである。永禄2年正月11日(1559)「少弐冬尚」が龍造寺隆信の
      だまし討ちで自害した時である)
      この合戦は「少弐、大友」の連合軍と「宮方」の戦いとされるが、「大友氏」は「大友氏時」が出陣した
      と見られるものの、山隈原に陣を敷いたが動かなかったともいう。大友氏の挙動は不明。
      それまで「大友氏時」は一端は「南朝」に下るも、反南朝に動き「豊後高崎山城」の備えを強化。篭って
      「武光」と戦い退けている。
      「懐良親王・菊地武光」は合戦後、肥前、筑前博多を押さえ、慶安元年(1361)懐良親王を奉じ大宰府に
      征西府を置き、九州を支配下に置く。
      「今川良俊」が九州探題として赴くまで、九州南朝は全盛期を迎える。「宮の陣」「太刀洗」など合戦に
      由来する地名今に残る。
      古戦場を示す碑は、小郡市役所東の公園内に、五万騎塚が久留米市宮の陣にあるが、当時の戦死者は、伝
      える死傷者よりさらに大きかったかもしれない。
      又「懐良親王」が傷つき、神の御加護祈願し治癒した事に因みお手植えしたとされる「将軍藤」が小郡市
      福童「中大臣神社」にあって、今も見事な花を付け参拝者も多い。
      宮の陣の親王が陣を敷いた「宮の陣神社」には「将軍梅」もある。


          
   
          大保原古戦場(小郡市役所傍公園内)      合戦の戦死者敵味方関係なく葬った五万騎塚
                                     往時は数千坪あったという。高速道工事でこの場所へ
                                     移された(久留米市宮の陣五郎丸) 
                      
                     「懐良親王」の合戦傷が神の御加護により治癒したことにより
                      奉納した
将軍藤齢600年超」(小郡市福童・中大臣神社)

                 
                    
久留米市宮の陣神社 「将軍梅
                      この場所に陣を置いた「親王」お手植えの「紅梅」とされる
                      古木であるが痛みがひどく心配




      (3)勢場ケ原の戦い
(大分県杵築市山香町勢場)
  
         勢場ケ原とは、大分県杵築市の旧山香町内に位置する丘陵地で、なだらかな起伏の地形の続く農業地帯
      ある。大分道の大分農業文化公園ICで降りる。
公園の東に位置、およそ3〜4Km。

      天
3年(1534)中国の大内義隆は「重臣陶興房、杉重信」を大将に参千の軍勢で豊前宇佐に軍を進め
      豊後を覗っていた。これに大友義鑑は「吉弘氏直、寒田親将」らに同じく参千の軍勢で邀撃に向かわせた。
      大将は「吉弘氏直」、「氏直」は本陣を「大村山(おおむれやま)」に置き1000の兵で固めた。更に、
      立石口に1800、後方鹿鳴越に350の守備隊を配備した。

           
           
大村山遠望(勢場の東 石河野より)           激戦地中心地付近
             現在、遥か「大村山」望むこの「勢場」一帯は、のぞかに里山畑地の広がる農村地帯となっている
                  
                             激戦地「
勢場」丘陵地の風景


      これは、大内勢の襲来経路を本経路の「山香口」と見たからである。しかし斥候情報は大内勢が上回って
      いた。4月6日大内勢は大友軍の配置の裏をかき、御許山から米神山西、現県道658号沿いの難路を夜行軍
      で突破。佐田〜内川野(現、安心院・あじむ)と大友軍予想の北口避け、夜も明けやらぬうちに西より
      大村山を望む「勢場」に突如現れた。
      旗指物背に眼下に現れた大内軍に、大友の大将「吉弘氏直」は自ら果敢に山を駆下り切りこんだが馬諸共
      倒され、壮絶な戦死遂げる。副将の「広瀬裕致、寒田親将」も戦死する。
      情報は、直ちに山香口の大友守備隊に急報され、駆けつけた救急隊は弔い合戦とばかりに大内勢に襲い掛
      かり疲れていた大内勢も徐々に後退。「杉重信」は戦死退却始める。これに大友軍は国東勢の応援隊が加
      わり追討。大内勢は多くの戦死だし退却。
      この戦いでの戦死者「大友軍280・大内軍360」であった。双方の戦死者は兵の10%にものぼり、恐らく
      相当の手負いも出た筈である。
      この戦いで戦死した「吉弘氏直」は、後年の「高橋紹運」の祖父に当る。
      今日でも
勢場に至るにはかなり苦労する。大内軍の案内人はよほどこの地の地理に詳しかったと見られる。
      管理人、この場所に辿りつくには何度も迷い、道を尋ねた。 私は上「小、中学校」の方より入るルート
      とったが、大分農業文化公園のルートの方がよいかもしれない



      (4)木崎原古戦場
(宮崎県えびの市三角田)「九州の桶狭間」 日向伊東氏衰退
                                       島津三州統一加速

 
     元亀3年5月(1572)九州の「桶狭間」と称される南九州の歴史が動いた合戦。 
      日向国真幸院は(現えびの市加久藤カルデラ盆地)七百五十町凡そ一万石をも越える穀倉地帯。本来大隈
      肝属一族 「北原氏」の支配するところであったが、伊東義祐の女婿北原兼守の死後は島津に帰順。
      永禄の頃には飯野城に「島津義弘」が入り、「義弘」は加久藤に城を築き夫人に川上忠智を着け守らせる。
      (「院」とは租税対象の地域指し、豊後の由布院、野津院など、同様に海辺では「浦」又特別な税徴収の
      「別符」などある) 
      一方日向の「伊東義祐」は飫肥城を奪い、真幸院の回復に動いた。元亀3年5月伊東加賀守祐安に参千の兵
      をつけ小林三山城に入った。
  
          
              
飯野城址物見郭跡               島津義弘の居城飯野城本丸跡

      5月3日夜、伊東加賀守は一隊を飯野城の押さえに配置。主力は加久藤城へと兵を進めた。一方島津軍は、
      飯野城300、加久藤城50騎あまり、兵力には大きな差が有った。
      飯野城「島津義弘」は間道伝いに加久藤城への連絡を密にし、早くから密偵放ち伊東軍の動向を探り伊東
      軍が加久藤城へ向かうことを察知。予てより白鳥の光厳上人、氏子などに下知し防備を固めた。山々には
      嘘旗を掲げ、加久藤の山々にも嘘旗掲げ大軍のいるように装いけん制した。

      伊東軍は遥か加久藤を望む丘陵の鳥越城に本陣を置き、加久藤へ向かう。「義弘」は、遠矢下総守50騎を
      加久藤に向かわせ、鎌田尾張守60余騎を伊東軍の背後へ回した。伊東軍は果敢に加久藤城を攻めたが、
      義弘の知略と厳しい地形、川上忠智も奮戦、伊東軍の攻めは失敗。夜が明けた頃、義弘は飯野城の備えに
      50騎あまりを木地口に置き、自ら130騎を率いて出陣。義弘は圧倒的な伊東軍に攻めては引き、引いては
      攻め、援軍到来までの時を稼いだ。
      序戦に失敗した伊東軍ではあったが勢力差に油断、暑い中甲冑を脱ぎ水浴びをする者もでる始末であった。
      この隙見て義弘は自ら130騎に、伏せてあった兵で一気に伊東軍圧し包み襲い掛かる。油断した伊東軍は
      混乱、多くの戦死者出す。これに島津の援軍大口城の「新納忠元」の150騎が追討し伊東軍は大敗。日向
      へと敗走する。この戦いを機に南九州の覇権は島津へと傾き伊東氏は衰退を早める。

      伊東軍の敗因は加賀守の経験不足、指揮系統の混乱と油断といわれる。しかし実はは「島津義弘」の
      知略にあったとみる。
      伊東軍が真幸院へ向かった時点で密偵を放ち、風評を流布伊東軍の目標を加久藤城へ向けさせるよう仕組
      んだのである。加久藤城は33万年前の火山活動により形成された加久藤カルデラの北壁に位置、地形も
      急峻標高も高い。一方「飯野城」は加久藤カルデラが一時期湖であった頃の体積層を、川内川などにより
      侵食うけえびの平野が形成された時乾陸化した。この低位段丘は標高も低い。防備には不利。伊東軍が一
      気にまず飯野城を攻めれば、義弘たりとも危かった筈である。
      義弘はこの地形の違いを巧みに利用したのである。

          
          激戦地えびの市三角田、林の中に六地蔵塔がある   伊東軍本陣跡鳥越城跡付近・左手奥に首塚                
          
                                        伊東軍「首塚」(えびの市)
                   この史跡は、地元のおばあさん H.Nさん(調査時87歳)30年もの奉仕により守ってこられた、自分の後を誰が
                   やってくれるか心配と話された。




    (5)水俣合戦・水俣城(熊本県水俣市 水俣川近く)・歌合戦で有名
 
      水俣城は肥後国八代球磨を中心に勢力を誇った「相良氏」の支城、南からの備えの要所であった。
      しかし水俣城は標高も30m余り、平地のごく小さな城である。それでも天正7年島津が3000の兵で攻めた
      が攻略でき無かった。水俣城は南に堀を為す水俣川が控え攻めを困難にしている。この戦いを有名にした
      のは、天正9年8月19日からの合戦で、島津軍「
新納武蔵守」と水俣城の守将「深水宗方」「犬童頼安
      らとの「短歌」のやり取りである。
      島津軍は「
秋風に、みなまた落ちる、木の葉かな」と地名「みなまた(水俣)」をかけ、水俣城の落城を
      うたい送った。
      これに相良勢は、「
寄せては沈む、月のうら波」と続け「よせては」は寄せ手にかけ、水俣の西南月浦に
      よせては砕ける裏波をかけ、島津勢を揶揄した。

     
        「秋風に、みなまた落ちる木の葉かな、
                          寄せてはしづむ月のうら波


      生死かけた合戦の最中、武将たちにはどうしてこのような「名歌」が生まれるのであろうか。
      水俣城はまったく小さな出城である。その守将にあっても戦国武将達は文武両道を身に備えていたことが
      覗える。「相良氏」は歌道においても優れた武家であった。家臣たちにもその歌道精神が行きわたってい
      たと見られる。
 
      この合戦により八代古麓城主「相良義陽(よしひ・よしてる・よしはる)幾つか読みがある)」は嫡男を
      人質にだし
「島津義久」に降参。
      島津氏に下った義陽は、同年12月義久の肥後制圧の捨て駒となって「阿蘇氏」の武将「甲斐宗運(親直)」
      の御船城を討つようを催促される。「義陽・宗運」は歳は離れていたが「妙見菩薩」に不可侵を誓った盟
      友関係にあった。薩摩の圧力に「義陽」は「宗運」の赤峯尾城など諸城攻める。
      武士の信義に反した戦いを強いられた「義陽」討ち死を覚悟していたと見られ、防備には適しない「響原」
      に本陣を移し油断もあって「宗運」の奇襲うけ斬殺される。

          
   
            水俣城跡遠望(熊本県水俣市)            水俣城本丸跡



    (6)響ケ原古戦場 (宇城市豊野町糸石)
     
          
盟友相戦う今も馬のいななき、兵士の叫びが聞こえる

      この戦いは、水俣合戦の続編と云える合戦である。
      「相良義陽」を水俣に降した
「島津義久」直ちに肥後領内へ侵入を企てる。それには肥後の有力領主
      「阿蘇氏」の家老「
甲斐宗運(親直)」が守る要所「御船」を押さえる必要があった。「義久」はその
      先陣を「義陽」に命じた。甲斐宗運は「阿蘇氏」の重鎮として、御船城を領し、領地に接して八代葦北を
      領する「相良義陽とは、互いに不可侵を交わす盟友関係にあったのである。
      この戦いは「義陽」には武士の信義に反する戦いであった。
      以下、「相良神社・響ケ原古戦場」の案内書を参考に紹介する。

      天正9年12月2日(1581)凡そ400年前。「相良義陽」と「甲斐宗運」の軍勢はこの場所(響ケ原)
      に於いて死闘を繰り広げた。
      「島津義久」は肥後進出の最大の障害、肥後の名門「阿蘇大宮司家」討伐を果たす為、まず阿蘇氏の
      名将「甲斐宗運」の守る御船城攻めの牛頭(先陣)を「相良義陽」へ命令した。義陽は盟友との戦い
      に気は進まなかったが、一族存亡の危機に12月1日800の軍勢率いて八代(古麓城)発ち御船に出陣
      した。先ず「娑婆神峠(旧、豊野村、小川町境)」に本陣置き、阿蘇氏の城、現中央町にあった「赤
      峯尾城」甲佐町「豊内城」を攻め、翌日には「響ケ原」へ陣を進め、直ちに「堅志田城」を攻めた。
      赤峯尾城、豊内城、堅志田城の戦いでは、先鋒「東左京進」の勝報に、敵大将を討ち取ったことが
      「義陽」に届き相良勢は大いに沸いた。
      義陽はその夜、軍勢の戦勝をねぎらう盛大な酒宴を開いた。陣中は酒盛に沸いた。
      天気はやがて小雨となり、冬の雨一帯は濃霧に包まれた。相良陣営は見張りの緊張も欠いていた。
      「宗運」は濃霧に紛れ、酒盛りに沸く相良陣営の隙を突いた。酒宴の最中、まさかの襲撃に不意を突
      かれた「相良陣営」は混乱、大将「義陽」はじめ、名のある勇将70余人、雑兵200余人、多くの戦死
      を出した。時に「義陽」は38歳の青年将校であった。
      「義陽」の骸は、この場所に葬られ、首は宗運の首実検の後返され「東駄左門」によって八代に運ば
      れ葬られた。戦場となった響ケ原には後年供養塔が建てられ、こん日相良神社「相良堂」と呼ばれて
      いる。また、この一帯には相良塚と呼ばれる供養塔もある。
      盟友との戦いを強いられた「相良義陽」は死を覚悟、家臣らの注言を遮り戦略上不利な「響ケ原」を
      あえて選んだのだと云う。
      「義陽」のこの戦いは「相良氏」が小藩ながら幕末まで家系を繋ぐ礎となった。

          
言い伝えによれば「相良堂」では、戦のあった12月2日の夜、響ケ原を通ると、
         馬の蹄(ひづめ)の音や、太刀の打ち合う音に交じり、多数の兵士の勇ましい
         叫び声が聞えると云われている

 
 
          

             相良神社・相良堂(宇城市豊野町糸石)         相良塚(御船町 平成音大前)

               
              
人吉市願成寺相良氏菩提寺第一墓所・右から二番目「相良義陽 墓」



    (7)今山古戦場
(佐賀市大和町今山 佐賀大和IC近く、小城よりの山手)  
              
        
豊後の王「大友宗麟」衰退の発端となる
      
「戸次鑑連出陣」

 
     元亀元年(1570)大友宗麟は勢いの台等してきた佐嘉城「竜造寺隆信」討つため三万の大軍を引き
      連れて高良山に布陣。諸将に佐嘉攻めを行わせたが進展は無かった。そこで宗麟は縁者の「大友八郎
      親貞」に兵三千を付けて佐嘉攻略に向かわせた。親貞は佐嘉の西6キロ程の今山の丘陵地に陣を敷いた。
      一方竜造寺方は十倍を越える大友軍に正面から当っても勝ち目なしと軍議を重ねた。竜造寺は戦勝を
      祈願すると偽り間者の僧を大友軍に入れる。警戒心の希薄な「親貞」、僧は巧みに様子を探り総攻め
      の作戦を聞き出す。この僧の知らせに竜造寺の重臣「鍋島信生」は大将首を取るべく夜襲戦を進言。
      元亀元年八月二十日未明、信生は決死の覚悟を以って僅か17騎で出立した。しかし途中地元郷士たち
      が次々と加わり700騎に達した。
      一方大友貞載は勝ったも同然と酒盛りを上げ全く警戒していなかった。今山に至った「鍋島信生」、
      大友陣の背後に忍び寄り一気に夜襲をかけた。奇襲を受けた大友陣は大混乱、二千の兵が討ち取られ、
      総大将の八郎主従十名ほどは山伝いに逃れようとしたが、既に待ち伏せしていた「成松信勝」に討た
      れた。
      この合戦以降、「竜造寺隆信」は九州の三大勢力の一角となる。大友軍の敗因は、大将親貞の油断に
      有るが、この頃から「宗麟」の武将の器量を計る眼を失っていく。又「鍋島信生」は戦勝記念に大友
      の紋所「杏葉」をとり「鍋島杏葉」をつくる。

      この合戦に「
戸次鑑連」も出陣していたが今山よりは遥かに東「柿村」に布陣し、夜襲戦の場には遠
      かった、混乱の中陣を引く大友軍の殿(しんがり)を務め、追っ手を退けながら将兵を筑後へと引か
      せたという。

           
 
              赤坂激戦地付近に立つ慰霊塔         今山激戦地頂上の大友大明神供養塔
               背後は親貞の討たれた山あたり         



    (8)沖田畷古戦場
長崎県島原市北門町 R251 沿い
       
「肥前の熊」龍造寺隆信討たれる

      天正年間、南九州では「島津氏」が、肥前国では衰退著しい大友氏に代わり「龍造寺隆信」が権勢を
      振るっていた。隆信は「肥前の熊」と恐れられ残忍非道、その行いは諸将の離反も当然であった。
      特に柳川「蒲池鎮並」の謀殺は周辺諸将には衝撃であった。こうした「隆信」に薩摩「島津義久」と好
      を通じ「龍造寺」離れが顕著となった。島原半島西の「日野江城有馬晴信」も其の一人であった。
      島原地方を本貫とする有馬氏は、隆信の軍門に降っていたが、領地の回復を図るべく、城を固め「龍造
      寺」の襲来に備え「島津義久」に援軍を頼んだ。
      天正12年3月18日「隆信」は、「晴信」を討つため自ら大軍( 2〜6万・現地・古戦場説明には数万と
      なっている)率いて海路出陣、島原半島の北の突端「神代」一帯へ上陸。沖田畷の北凡そ2km、三会
      (みえ)に宿陣した。この事態に「日野江城内」は戦々恐々として島津の援軍を待った。
      一方島津家中は、この応援に賛否両論あったが当主「島津義久」は、救援を求めた者を見捨てることは
       出来ぬと出陣を命ずる。総大将は弟、戦上手の「島津家久」であった。
 
     (余談・島津四兄弟は、夫々に皆戦上手であったが、中でも「島津歳久」は勝れた武将であったという。
      島津義久が「秀吉」に降った時、最後まで謁見を拒んだ武将である。天正15年5月22日秀吉が川内より
      宮之城、鶴田、大口に抜けるとき、悪路難所をわざと歩かせたという逸話が残る。最後まで秀吉に抵抗
      した歳久であったが切腹させられる)

      島津救援隊は三千の少数であったが、島津忠長、新納忠元、伊集院忠棟、山田有信ら島津家中の精鋭が
      加わっていた。中でも新納(にいろ)は鬼武蔵と恐れられ、山田有信は耳川の合戦の折僅か500の手勢
      で高城に篭り、大友の大軍攻撃を持ち堪えた武将である。島津軍は八代より海路日野江城へ入った。
      そして決戦の場所を「沖田畷」と決定した。
      (沖田畷は、島原市北門町付近にあって、島原城址の北1,3km R251沿いの一帯、この辺りはこん日
      でも無数の小河川が海へ向かって流入しているように、当時は葦原の繁る牟田(無田・湿地)であった
      という。
      島津有馬連合軍が、沖田畷を邀撃の場所に選んだのは、足場の悪い湿地帯へ龍造寺軍を誘いこみ大軍の
      動きを鈍らせ、一気に攻めかかる作戦であった。連合軍は、龍造寺軍の進軍前に配陣を終えていた。
      天正12年3月24日(1584)早朝、隆信進撃。しかし隆信は連合軍を少数とみて侮った。「家久」の地
      形を巧みに利用した布陣に気付かず、竜造寺軍は先陣に続き、主力が大軍の余勢をかってどっと細道を
      突き進んだ。じっと、東西と山際に伏せ、機を覗っていた連合軍は、一斉に側面より銃撃。この奇襲に
      竜造寺勢は混乱、そこへ連合軍の抜刀隊、続いて新納などの2千の新手がわったので龍造寺軍は統制崩
      れ退却。この混乱の中、「竜造寺隆信」は討たれる。
      島津の勝因は、敵より早く布陣し兵を伏せる、島津得意の「伏せ戦法」にあった。
      現在、国道251号脇に古戦場への案内柱が立ち、細い路地を海側に入ると右手に供養塔が立っている。
  
               
               沖田畷激戦地付近(R251 島原市北門町 島原市街地方向)

         
                 両軍の戦死者四千の慰霊弔った、沖田畷古戦場の塔(島原市)



    (9)耳川(高城)の戦い (宮崎県木城町)
       
「大友軍」総崩れ
  
      土持氏討伐の大勝利した宗麟は、伊東義佑支援と日向にキリシタン王国を建設するという妄想に
      かられ、家臣らの諌めを聞かず日向侵攻決める。
      日向を平定した島津義久は北部の要「高城」に重臣山田有信を配置、南部の佐土原城には島津家久を
      置いた。宗麟のねらいは高城である。天正6年夏宗麟は5万とも言われる大軍を率いて自ら出陣した。
      しかし宗麟は縣(延岡)の務志賀(現在地名は無鹿)までで現地には向かわなかった。
      総大将には田原紹忍を命じた。大友軍は高城の向いの台地カンカン原に大軍を展開。高城への攻撃を
      始めるが、やたらと日数が経過するだけで高城は落せなかった。戦いの様子が、高城址に残る石碑に
      刻まれている。やがて島津主力支援隊が小丸川対岸に集結。
      高城は比高は低いが急崖に加え、今にちでも大規模な空堀が残される要害。高城の台地と「宗麟原
      (カンカン原)」は数十万年前は繋がっていた中位段丘で堆積物で出来ている。
      古代の小丸川(高城川)、支川切原川の侵食で二つの台地に分離された。締ってはいるが地質は軟ら
      かい、是が高城の幾重もの空堀、そして大友軍の大規模な空堀「松山の営」を掘り出すのを容易に
      した。大友軍には、吉弘鎮理、斉藤鎮実といった名将もいたが、総大将田原紹忍は戦の経験に乏しく、
      大軍を纏めきれず軍議は決裂。佐伯、田北の両先鋒がまず動くが 統一を欠く大友軍の攻めは組織さ
      れていなかった。
      当時主戦場となった、本川小丸川と支川切原川の合流部は洪水の氾濫原で、落ち堀が点在する無田
      (湿地)であった。葦原が広がっていたであろう。
      この葦原を巧みに使い、島津軍は得意とする誘い戦法「野伏せ」により深追いした大友軍の横を衝く。
      指揮系統の定まらない大友軍は混乱敗走する。
      耳川でも追っ手に追撃され大友軍は多くの戦死者を出す。その数4千とも2万とも云われる。持参した
      とされる「國崩し(大砲)」も役にはたたなかった。
      大友軍敗戦の責任者田原紹忍は敗走、責任を回避し行方をくらます。この戦の結末は戦いの重要性を
      認識した島津義久兄弟の結束した戦いに対し、戦場に赴かず遥か無鹿でひたすら信仰に明け暮れ、
      高見の見物を決め込んだ、宗麟の武将としての資質の違いにあったといっていい。

         
                   切原川左岸より高城址望む、右手側に空堀残る
  
          
              高城址の合戦伝える碑     合戦後、島津義久が高城主山田新介有信に命じ
                             敵味方の区別無く弔うよう造らせた供養の六地蔵塔
                                    (川南町 宗麟原)




    (10)高橋紹運岩屋城(太宰府市岩屋山(281m)    
        
「高橋紹運」玉砕
  
      島津義久は豊後侵攻を日向口と、肥後口の二手より攻め入る作戦であった。
      肥後口からの侵攻には、背後の強敵を駆逐しておく必要があった。それが筑前の高橋紹運親子の
      三城であった。立花山城の立花宗茂(統虎)、宝満城高橋統増、岩屋城高橋紹運である。
      高橋紹運は、元の名を吉弘鎮理といい、宝満城城督として高橋鎮種、入道して紹運と名乗る。
      豊後国東都甲庄筧城で天文17年に誕生した。
      父は豊州三老と名を馳せた吉弘鑑理である。吉弘氏は大友氏家中でも武門の誉れ高く、祖父吉弘
      氏直は「勢場ガ原の戦い」にて大内勢を相手に総大将として壮絶な戦死を遂げた。
      また紹運の兄鎮信の子、紹運にとっては甥子「吉弘統幸」は、大友の再起をかけた「石垣原合戦」で
      大友義統に従い、壮烈な討ち死を遂げている。
      島津忠長は伊集院、新納といった重臣に2万の兵で筑後に侵入勝尾城(筑紫氏)を降参させた後、
      大軍で岩屋城を囲んだ。風土記では7月7日(天正14年)、戸次軍談では7月12日となっている。
       岩屋山は大宰府政庁「都府楼跡」西に連なる四王寺山の中腹に小山をならして築かれた豊満城の
      支城であった。筑前國續風土記には「宰府村の境内なり岩屋ある故に城の名とする」とある。
      山城としては背後に高台を控え地形的に決して要害とは言いがたい。 紹運は島津の再三の降服
      勧告を拒否、徹底抗戦を家臣に伝え、腹臣屋山中務少輔以下将兵全員が是に従った。
      島津忠長の攻撃開始は、中世史家吉永先生は7月14日と推定している。島津軍の攻撃は熾烈を極
      めたが、紹運の抵抗も激しく島津被害も甚大であった。味方の被害に島津も、重臣新納を軍使と
      して降参を勧めるが、紹運は是を断る。風土記では7月26日(7月27日戸次軍談)島津軍総攻撃。
      高橋紹運以下763名全員玉砕。島津軍の被害も筑前國續風土記では「寄手の勢も士卒都て、三千
      餘人似討たれにけり。手負も千五百人餘とぞ聞えし」とある。
      実に岩屋城玉砕の6倍もの被害である。いかに紹運の迎撃が厳しいしいものであったか解る。
      後に、島津忠長が立花城を攻め切れなかったのも、岩屋より険阻な立花城攻め被害を心配し躊躇
      したためとも云われる。

 
        

             岩屋城址本丸跡              高橋紹運の墓(二の丸)
           背後の東屋は現在ありません




    (11)戸次川古戦場
(大分市中戸次)
       
「大友義統」逃亡

    
  場所は、現大野川中流に架かる「大南大橋」の直上流右岸付近、当時戸次庄「市村」に位置し、
      もとは戸次氏の本貫地であったところにあたる。
      戸次川合戦は、天正14年12月12日豊後に侵入した島津家久軍と、四国支援軍大友軍との間で
      大野川中流域、現中戸次一帯で戦われた豊薩合戦最後の戦いである。
      整理上本文は、大友勢の戸次川渡河戦、利光鶴ヶ城攻防併せ「戸次川合戦」と呼ぶことにする。


           
 戸次川古戦場位置関係

      戸次川合戦は大友氏、島津氏の最後の戦いである。
      天正14年のこの時期大友の軍事力は、耳川敗戦以降著しく低下していた。それでも大友家中は
      巨大である。一族が挙って集まれば、まだ相当の兵力となった筈である。しかし長い歴史に胡坐
      かいた宗麟の失政は家中に不満を募らせていた。大野、直入の城主を中心に多くが島津に内応、
      自領保持を第一とした。
      島津の圧力に耐えかねた宗麟は、秀吉に謁見、秀吉の家人となって支援を要請。これに秀吉は
      先陣として「仙石秀久」「長宗我部親子」「十河春保」ら四国勢の豊州出陣を命ず。
      秀吉は四国勢に対し「決して島津の挑発に乗るな。軽はずみな行動とるな、新たな支援着くまで
      我慢せよ」との趣旨の文を送り、軽挙な行動を戒めた。
      本陣三重松尾城を出た「島津家久」率いる一万八千は、天正14年12月7日、府内と臼杵を結ぶ
      要所、鶴賀城(利光城)を叩くため、鶴賀城の南1km程さな谷を挟んで大塔の梨尾山に陣を敷き、
      城を望む。
      これに城主「利光宗魚」は城周りに逆茂木などの障害を巧みに設け、竹槍、投石等を備え、将兵
      700騎含む男女3000余りで篭城作戦をとる。
      島津軍は先陣伊集院美作守、二番手新納大膳正と攻め込むが多くの討死をだす。島津軍は本塀を
      打ち砕き、二の丸まで攻め込むが篭城組みの抵抗は激しく、島津勢の戦死者は増えるばかりであ
      った。遂に、「家久」は兵を一旦5町ばかり引かせる。この時城主利光宗魚は、引く島津軍を櫓
      の上で覗っているところを狙われ戦死する。それでも鶴ヶ城勢は宗魚の死を隠し通し、島津軍
      の攻めに耐える。
      この利光の戦いでは双方で6000もの戦死を出したというが、島津軍は遂にこの戦いで勝利する
      ことは一度も無かった。
      鶴ヶ城の危急に、四国からの支援「仙石秀久」は、「長宗我部」らの意見に耳をかさず出陣を
      主張。 天正14年12月12日、四国勢に大友連合軍は戸次川左岸鏡城に出陣する。
      その数凡そ八千騎とみられる。
      これに島津家久は驚き一旦陣を下げる。引く島津勢に「仙石秀久」は、渡河して島津追討を主張、
      長宗我部らの反対意見を退け、自ら戸次川を渡りはじめる。やむなく長宗我部、十河らもこれに
      従う。一方、大友方の兵力を探っていた島津家久は、大友軍の意外と手薄なことを見て取り檄を
      飛ばす。
      以下、九州諸家盛衰記「利光合戦
義統落府内城事」の記述。
      「去程に12月12日の未明に、豊州勢戸次川に押渡し山崎まで押著けて段々の陣を取る。島津昌久
      (家久の間違い。以下家久)是を見て願ふ處の幸なり、味方一萬八千餘の軍士等、上方の両使と
      戦い討死せよ。生きて再び本国へ歸らんと思ふべからず。只今義久方へ云い送るなりとて、書状
      を認め(したため)河上半蔵を使いとし、其座より故郷に歸し三段の備を以て脇の津留に押出し、
      豊後四国勢と相戦ふ。先鋒の伊集院四国勢に戦い負け、四度路(しどろ)になって引く處を、
      利光の村中まで追討す。これに家久大に怒り懸らんとせられし處に二番備の「新納大膳」三千
      餘騎にて佐古の口より東の方の、山の手に備へ居たりけるが、時分は能きぞ掛かれよと、
仙石、
      長宗我部が陣へ無二無三に突懸る。大将中努少輔家久も津留河原より一面に押懸らる。
      三番備の本荘(ほんじょう)も同じく進んで突入敵味方二萬四千餘騎、天維も落ち坤軸(こん
      じく)も砕けよと、喚き(おめき)叫んで相戦ふ。「
戸次鎮連」が一男右近大夫「戸次統常」は、
      父鎮連敵方に一味せし事を無念に思ひ、新納(にいろ)が陣に突入り思ふ程戦ひ討死す。
      敵味方の討死二千餘人、死骸は積で屠所(としょ)の如く、血は流れて紅河を成せり。長宗我部
      親信は、父元親と軍の下知して居たりけるが、味方の敗軍を制しかね適中に切て入り、縦横無碍
      (むげ)に駆け立て終に打死をぞしたりける。」とある。
      この機に至って総大将仙石秀久は逃亡。義統も「吉弘加兵衛統幸」の働きで府内へ脱出、さらに
      大津留河内守、宗像掃部助らに意見され高崎山へ落ち、中国勢の援軍期待し龍王城まで逃亡する。
      最後の戸次氏当主「戸次統常」は、父「鎮連」が島津に内応したことを恥、その汚名晴らさんと、
      尋常の覚悟をもって伝来の家宝を悉く焼き払って出陣した(戸次系図裏書)。
      戦死した戸次統常の墓は、豊後大野市藤北の常忠寺にある。
      この戦いでは「戸次鑑連」とは従兄弟違い、休松合戦で戦死した戸次右馬助治部大輔親宗の嫡男、
      「戸次治部少輔鎮直」も戦死した。

                   
    
                  長宗我部親信の墓(大分市中戸次)

         
   
            利光宗魚の墓(成大寺跡)     常忠寺戸次統常の墓(右端 豊後大野市藤北)




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