島津義久降伏・泰平寺  (薩摩川内市大小路町))

                   「医王山正智院泰平寺:真言宗:本尊薬師如来」



       「泰平寺」は島津征伐のため、肥後路より薩摩入りした「豊臣秀吉」が本陣を置いた寺として知られる。
     島津義弘率いる薩摩勢35000騎は都於郡城に集結、日向路を下る「秀長」の大軍に備えた。
     そして天正15年4月17日「根白坂の戦いに」に臨むも突撃した殆どが討死、大敗を規す。
     秀吉は天正15年4月29日(1587)川内平佐城を猛攻のすへ落とし開城させ、5月3日には泰平寺へ入った。
     父貴久より家督を継ぎ、有能な弟達の助けを得て多くの合戦の殆どに勝利した「義久」であったが「根白坂」
     の敗戦の衝撃は大きく戦意喪失。弟達が尚抗戦を訴える中、天正15年5月8日剃髪「龍伯」と改め泰平寺の
     秀吉を訪れ降伏した。
     「泰平寺」は1300年前、和銅元年(708)元明天皇の勅願により「天下泰平:万民豊楽」を祈願して建立された
     と伝えられる名刹で、秀吉が本陣を置いた頃は、七堂伽藍を備え薩摩でも最古級の寺院であった。
     此の寺の僧「宥印法印(ゆういんほういん)」は秀吉が寺を明け渡すよう命じたとき「住職は、寺と運命を共に
     するもの、一歩たりとも引くことはない」と寺の明け渡しを拒否した。此の態度に感心した秀吉は礼を尽くし再
     度申し入れたところ、法印は「兵を恐れて逃げれば恥になるが退去する寺を与えよ」と応えた。直ちに法印は
     中郷にある「宅満寺」に移った。それでも法印は全く兵を恐れずことなく、毎朝泰平寺に通い読経に勤め、皆
     その態度に感心したという。両者の和睦は双方ともに武士らしい態度で行われたともいう。
     また法印は、秀吉と義久の和睦にも仲介を果たし秀吉より刀や茶碗を送られた。法印の墓「宝塔的五輪塔」
     が境内の一隅にある。
     泰平寺は、明治初期新政府の取った「廃仏毀釈」僧侶還俗の政策により取り壊された。特に薩摩国の廃仏
     毀釈の嵐は凄まじく廃寺は1616に上ったとされる。現在の「泰平寺」は「高野山真言宗派」として、大正12年
     再建されたもので、元の寺跡は墓地となっている。  
     境内には、旧廃寺礎石や秀吉と義久の「和睦石」「秀吉に降伏する義久像」「宥印法印」の墓「五輪塔」もある。




                       
                              泰平寺公園内の義久降伏の像

                 
                現在の泰平寺(川内市)            和睦石  当時寺にあった石を寄せて
                                           造られたとされる。

                        
                                漫画に描かれた義久降伏



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