柑子岳城争奪戦  筑前大友五城



           
         
             福岡市西区今津大原より望む「柑子岳」
                      此の方向よりは峰は一つに見えるが、登山口「草場」よりは
                      峰は二つにみえる


 
     柑子岳(こうじがだけ)は、福岡市西区(草場)にある標高254、5mの山である。東に博多湾を望む
     場所に位置する。中世戦国期、この山には柑子岳城があった。築城者、築城年ともに不詳。
     この地方の有力国士原田氏の「高祖城」は13世紀中期には築かれている。推定の域を出ないが、柑子岳
     城は高祖城の支城として築かれたものか、それとも他の豪族が築いたか。あるいは、古くから大内氏が
     出城として築いたものか。一説に、天文初期大内氏がこの城乗っ取り「梅月新三」を守将として籠め置
     いたとされる。下って同7年5月(1538)大内、大友の間で和睦。柑子岳城は大友氏に渡され柑子岳城は
     大友氏の志摩地方支配の拠点となる。
     当時、この山の東は今津村、西は草場村であった。山の南腹には「熊野権現社」の在ったことから俗に
     「権現山」とも呼んだ。大友宗麟は柑子岳に「臼杵新助鎮広」を城代として置き、志摩半島の西、小金
     丸の親山(現志摩町)に城を築き「日野三九朗」を入れ置いて志摩郡内味方の助けとした。
     しかし「日野」は後に親山を去ったので、臼杵新助が志摩郡を掌握することになった。この時期、敵対
     する高祖城「原田弾正少輔興種」は手綱旅陣中(馬で移動中)で頓死する。しかし嫡子「隆種(了栄)」
     は大内義興の娘を妻とし、武将として才覚あって頭角を表し、毛利元就を後ろ盾として高祖城「原田」の
     家系を保ち、大友氏と厳しく対立した。
     大友宗麟は、新助に「隆種」の討伐を下知。新助は、奥志摩の国士「泊中務少輔」「同又太郎」「由比
     重留六郎」らと語らい「原田」を攻めたので、この一帯小競り合いの止むことは無かった。

     永禄11年2月西の大友氏と君臨した「立花鑑載」大友に叛旗する。大友軍は戸次鑑連を総大将に「鑑載」
     誅罰。柑子岳「臼杵新助」は鑑連の誅罰軍に加わるため柑子岳城発騎。ところがこの隙突き「原田隆種」
     は「柑子岳」急襲、是を乗っ取る。この報に「新助」は急遽柑子岳にとって返し、一気に奪回する。
     この時の事と見られる記述が「九州諸家盛衰記」の中にみられる。「臼杵新助」は引退く「原田勢」に
     向け、厳しい追討を懸ける。一日に七度の槍合わせがあった。既に六度目の槍合わせでは、双方に多く
     の討ち死が出ていた。「新助」は今一軍と、備えを小高き所に移し、「鳥雲」に陣を取り、そこ此処の
     森陰等へ軍勢を伏せ、正面は僅かの勢にて魚麟の陣形を作って備えた。
     是を見た原田勢は敵は多く討たれ小勢と見て取り、湾月に陣を備えて突いて懸かった。しかし、臼杵勢
     は鳥雲に備えていたので、鳥の如く、雲の如く方々より突いて出て、原田勢を取籠め切りたて原田勢の
     多くが討たれた。崩れたった原田勢は逃げるように退いていった。是に臼杵勢は尚も追いたて廿騎を討
     ち取るが、深追いは無用と引き返した。爰に、臼杵の朗党、神前六郎大夫、同助彌太、首藤孫八、佐藤
     市三郎、吉良権太郎らは何れも是まで武功の者たちであったが「今日七度までの槍合わせにも手柄働き
     無く、このまま戻っても首帳に名も洩れ口惜しいばかりである。今一度追いかけて、疲れ首一つも取ら
     ずんば空しいばかり、叶わなければ清く討ち死あるのみ」と若等三人加わり主従三十余人、勇んで進ん
     だが原田勢の姿は無かった。残念に思いつつ進むと荷を背負った二人の人夫に逢う。彼等を捕らえ「高
     祖勢はどれ程行ったか」と問えば「我々は、百姓で御座います。原田殿は高祖城に御座います」と。是
     に、神前、首藤は大いに怒り、太刀抜き二人の喉に当て「己等は、この邑(むら)の百姓にはあるまじ
     き、持ちたる荷物は陣具と見たり、言わずんばこの場で突き殺す」と言えば。「我等は下郎にて詳しく
     は分からないが原田勢は手負い多く戸板に乗せる者、馬に乗せらる者、両脇を支え行き候。未だ一里は
     行くまい、早く追いつき給え」といったので、二人を放ち後を追った。しかし追えども原田勢の姿はな
     かった。 やがて小高い所に、篝火が焚かれ、その前に、火縄の火二〜三百程が見えた。神前、首藤ら、
     此処が原田の陣と見て取ったが「向こうは多勢此方は小勢、とても合戦にはなり難い、今は馳せ入って
     討ち死せよ」と覚悟し近づいたが、この火縄の火は少しも動かなかった。不審に思い鉄砲を撃ちかけれ
     ども状況に変化は無かった。これは妙と、三十余人太刀抜いて切り込んだ、しかし原田勢は一人として
     居なかった。
     原田勢は篝火を焚き捨て火縄を竹に挟み二〜三百立て置いていた。臼杵勢は本意を遂げる事無く、我も
     我もと火縄を取って退いていった。 臼杵陣営では、朗党、若等行方知れずにさては討ち死したかと話
     している所へ、朗党ら八人が帰ってきた。切り火縄見せ仔細を話すと「臼杵新助」は大いに感じ入り
     「この火縄を取り来るは疲れ首取るよりも勝れり、分捕り(首)は狩の獲物の如く時の運によるもの」
     と賞賛をした。
また、原田の捨て篝火は思慮深い謀と敵将智略を賞賛したという。
     この後、元亀2年になって「臼杵新助」は志摩の政所職辞して豊後へ引き上げた。この後は「臼杵進士
     兵衛鎮氏」が入る。この男、驕慢なところがあって、人を見下し欲心深く恥辱省みず采配にも私心があ
     ったので、志摩の国人城主たちは「進士兵衛」をうっとみ、下知に憚らなかった。
     元亀3年正月「進士兵衛」は「隆種(了栄)」を襲うが「隆種」は高祖城へと無事戻る。この後、鎮氏
     は逆襲受け合戦となり、お追い詰められ朗党18人諸共自刃する。(池田川の戦いと呼んでいる)
     このため大友は、直ちに「木付(杵築)鑑実」を配して柑子岳をひとまず確保するも、志摩半島の国士
     達は原田に下り、長く大友氏に従った志摩「小金丸民部大輔」も遂に原田の旗下となった。
     この情勢に柑子岳城は孤立無援、兵糧にも窮する事態となり、天正7年8月(1579)木付鑑実は、立花
     山
立花道雪へ救援を要請。道雪は、配下の足立直氏、小野正弘、後藤種長、らに1500の兵付け、
     柑子岳に兵糧届ける。
     8月14日その帰路「生の松原」辺りで「原田勢」の夜討ちが懸かり入り乱れての合戦となる。この戦い
     の結末は資料によって異なり「筑前国続風土記」は立花勢が高祖勢に討ち勝ち立花へ引き上げたと記し
     ている。(天正8年8月23日とする書物あり)
     一方立花の戦死は400余に上り、原田勢の勝利としたものなどがある。何れにせよ大友勢は「後藤種長」
     ら多くの名のある武将を失うなど、大きな損害出した
ことに違いはなさそうである。また道雪の兵糧救
     援は効を通さなかったとも云われる。この合戦の後天正7年の暮れも近い冬「木付鑑実」は原田勢一色と
     なった包囲網に抗しきれず遂に「柑子岳城」を開け豊後へ去る、志摩地方の大友氏支配終わる。

        柑子岳城址について「風土記」は、本丸の地六十間横八九間有り、二の丸長さ四十間
        横二十間有ったとしている。 


                               
参考資料  筑前国続風土記
                                             筑前戦国史
                                             九州諸家盛衰記

 
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